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「心一つ」
衝撃的な一撃。
今まで何千、何万のパンチを喰ってきたか分からない。でもこれは効いた。目の前が真っ暗になった。
世界戦まであと約2週間という、非常にテンションの高くなっていた時期だ。いきなり言われた、チャンピオンのシドレンコの右手親指の骨折。最初は全く意味が分からなかった。何度も説明を受け、6月4日にはシドレンコと試合が出来ない事をやっと理解した。人間はあまりにも、想像していないことが起こると、悲しみどころか、怒りの感情すら出てこない。
昔、絶対に浮気なんかしていないと思って付き合っていた彼女に、完璧に二股かをけられていた事があった。その子の家で浮気相手と鉢合わせた事がある。少しでも疑ったりしていたら、やっとボロを出したな!的な怒りが出るだろう。しかし浮気しているなんて、これっぽっちも考えていなかった。そうなると、相手の男にもその彼女にも、何にも言えなくなる。というか何を話していいのかが、分からない。全く予想していない出来事が起きると、それに対応する術を俺は知らない。
シドレンコの突如の試合キャンセル。これは予想なんて、まったく出来なかった。取材を受けている福島をジムの外に呼び出し、この事を伝えた。俺自身も福島に伝えることで、その事実を確認するような気持ちに近い。それを聞いた福島、伝えた俺。二人はヘナヘナと腰が砕けて座り込み、もう笑うしかなかった。
この2、3日前にWOWOWでサブ・ジュダーの防衛戦とトリダード対ライトのミドル級挑戦者決定戦の試合を見た。まず最初に放映したのが、サブ・ジュダーの試合だ。開始直後に、いきなりワンツーを真っすぐに叩きこみダウンを奪う。タフな挑戦者から、続けざまに二度目のダウンを奪う。なんとか1Rを持ちこたえた挑戦者。しかしダメージは抜け切らず、3Rに狙いすました左アッパーを決められ万事休す。追い打ちの右フックで、この試合3度目のダウンでレフリーが止めた。普段なら、何の印象も得ない試合だと思う。
俺個人がサブ・ジュダーを好きではないし。ただ今回印象を受けたのは、何も出来なかった挑戦者にあった。
1Rにいきなり、倒されてからのスタート。やっと掴んだチャンス。色んな事を考えてリングにあがったんだろう。何も出来なかった挑戦者を見て、3年前の初挑戦のトラウマがよみがえる。ガラにもなくナーバスになっている自分に気付く。いやいや、あれからたくさんの経験をしてきたじゃないか!と自分に喝を入れて、次の試合を見る。そしてボーと見ていた試合は、トリニダードが中間距離で戦い続け、ライトのガードを一度も破る事無くほぼフルマークで負けた。
この試合も普段の俺なら、ナチュラルなミドルウェイトに、ウェルター級あがりが通用しないという、ボクシングの長い歴史に深い味わいのようなものを感じていたと思う。しかし今回は違った。
シドレンコは強固なブロックの持ち主だ。福島のパンチもすべて受けとめられ、ジワジワとプレッシャーをかけられ、こんな感じの試合になるのか?というような、良くない発想に包まれる。
サブ・ジュダーの先制攻撃に全てを失った挑戦者。ライトのガードとポンポン出すジャブに、何の対応も出来なかったトリニダード。
3年前と3週間後の世界戦が、フラッシュのように交差しているような感覚に襲われる。嫌な考えを払拭するように、布団の中に入り読みかけの本を手にする。『殺人全書』という過去に起きた、たくさんの殺人に関してまとめあげた本だ。辞書のような厚さの本で、内容もかなりグロテスクだ。今の世の中、ふざけたような事件が多い。
臆病な俺は、そういうものから逆に目をそらせない。何にも知らないよりは、どんな人間が犯罪を犯しているのか、知っていた方が対応できるのではないか?と考え、最近読みだした本なのである。
布団の中で本を開く。読みかけの箇所が、男のイチモツを切って持ち歩いた、あの有名な『阿部定事件』だった。 内容はかなりグロい。これはダメだ。逆にもっとブルーになっていく。
そこで本は諦め、違うことをしようと。時刻は夜中の2時前だ。犬のイビキと奥さんのイビキが、素晴らしいハーモーニーを奏でている。そんな中、音楽を聞くことも出来ないし、好きな映画のビデオを見ることも出来ない。そこで『手紙』の福島編ではなく、ランディ・マングバット編を書くことにした。このランディへの手紙は、自分で書いていても面白く、2時間で書きおわった。これで気持ちを和ませることが出来た。ようやく明け方に眠りについた。
すると朝、俺の携帯が鳴った。
爆睡していた。目覚ましと間違えて、携帯を見てみた。すると『森川先生』と書いてある着信だった。慌てて電話に出る。
『もしもし、山田?寝てた?』と聞かれ、起きてましたと言いながら、懸命に目を覚ます。先生が『明日の裕司(俺の弟分であり、ヨネクラジムの日本ウェルター級1位山口裕司)の試合に行く?』って聞いてきた。森川先生には1度、裕司を紹介して一緒に飯に連れて行ってもらっている。その時に裕司を気に入ってくれて、5月18日の試合には駆け付けると約束していた。
忙しい中、先生がわざわざ時間を作ってくれて、一緒に観に行こうと誘ってくれたのだ。俺はもちろん、かわいい弟分の為だから、何があっても行くつもりだと伝えた。では七時にホールで待ち合わせって事になった。
電話を切ろうとしたら『山田は、昨日のWOWOWの試合見た?』と、先生に聞かれた。昨日の嫌な空気がよみがえる。そして先生も、3年前のトラウマに苦しんでいるようだった。二人で1Rをどう戦うかを、一生懸命に考えた。普段はそんな話をした事がない。でも今回は違った。やはり解決しないといけない問題だ。
避けては通れない道。
二人の意見が一致した。作戦とか、そういう事ではなくイメージ的に安心できるパターンを用意した。昨日からのドキドキしていた気持ちが、また少し和らいでいく。
先生と電話を切り、もう1度冷静になってシュミレーションする。やっぱり間違いない選択だ。そう考えたので、その旨を福島に早速メールした。
あのラリオスの左フックから、今だに俺は立ち直れてない。
立ち直るために、あの1Rを取り戻すために、3年間耐えて頑張ってきた。初めて真剣に目をそらさず、そこから逃げずに話し合った。福島と何度も意見しあい、二人の意見を一致させた。
一つのパターンに固執せず、3年間で用意したたくさんの引き出しの中から、どの順番で引き出しを開けていくかを決めたのだ。カードゲームのように。
3年前は一枚のカードしか持たず、それがジョーカーだと思い込み自信満々に、ラリオスにぶつけた。今回は違う。たくさん用意したカードの中から、切っていく順番を、二人で確認しあったのだ。
試合まであと約2週間。ここからの作業は、持っているカードを、出しやすいように並び変えていくようなもの。フィリピンからのパートナーで色々確認して、最後は俺の体で最終チェックをするだけだ。
その日の夜は、俺が裕司の応援に行くことになっているから、いつもより30分早くに練習を開始するようにした。ジムで仮想シドレンコの練習していると、日テレやワールドボクシングの取材が来た。雑談していると、会長がものすごい焦った顔で俺を呼び出した。『まずいことになった。〜の手が折れた。』って聞こえた。会長の手を見る。スパーか何かで折れたのかな?と思った。
『日本に来ないって。試合は延期だよ』って付け足されても、何のことか分からなかった。ようやく事態を理解した時に、全身から鳥肌が。タバコを連続で2本吸い、ジムに戻った。
頭のなかは、何をどう整理していいのか分からず、強烈な二日酔いのような目眩も襲ってきた。冒頭のように、福島に伝え二人でヘナヘナしながら、その日のスパーを中止にした。この後に、一人で先生と待ち合わせたホールに向かう。何ともフワフワした感じだ。ジムでは、世界戦価格でほぼ完売したチケットをどうする?とか、福島自身は試合をすることになるので、至急に相手を探すような手順を踏んでから、一人で電車に乗り込んだ。
途中、森川先生に連絡がついたので、『世界戦延期』を伝えた。いろんなパターンを想定して、シドレンコ戦に挑んできたつもりだ。でもまさか、このパターンは予想できなかった。
ホールに着く。顔見知りの人達に『世界戦頑張ってね』と話し掛けられる。どう答えていいのやら。
ホールに着いた時にはすでに、裕司が入場しようとしていた。慌てて空いてる席に座った。森川先生から電話が来て、『今着いたから、ホールの中に入るよ』って言われた頃に、裕司の完璧なショットがタイ人の顔面にヒットした。完璧で美しいKO勝ちだった。
間に合わなかった先生と控え室に行き、裕司に『おめでとう』と声をかけた。
上にあがり、リングサイドにいたジョー小泉さんと、『世界戦延期』について詳しく話を聞く。はっきり言って、今だに話を理解していない俺。ジョー小泉さんや森川先生に『山田がそんなに凹んでどうする。福島が一番辛いんだから。山田がしっかりしなきゃ!』と言われた。
中止ではなく、延期なんだから!って言葉を何度もかけられ、どうにか現実に戻りはじめる。その話を終えホールを出ようとすると、僕らの異様な雰囲気に気付いた記者さん達が、詳しく話を聞かせてくれと集まってきた。情報が錯乱するのを恐れ、先生と二人で自分達が理解していることを話した。『中止ではなく延期であること、福島自身は4日に試合は行なうこと』という事を。先生と二人で、何とも言えない気持ちになりながら、帰宅した。正確にいうと先生と別れた後、俺は死ぬほど酒を飲んだ。
朝になり、昨日の事が全て夢ではなかったのか?と思う。夢ではない。
ジムに行くと、まずやらなきゃならない事は、福島の試合相手を決める事だ。候補者はフィリピンランカーが二人いたので、ランディやロニーにどんな選手か聞いてみる。どちらにしても『マナブ!ノックアウト!ダイジョーブ』って言う。
相手は誰であろうと、4日に試合はするのだ。練習はしないといけない。福島が来たのでスパーする事に。アップでシャドウする。ずっと仮想シドレンコでやってきた。久々に自分のスタイルに戻そうとしたが、どうもしっくりこない。顎にガードをつけたまま、二ヵ月過ごしたからか?そこに手が無いと不安で仕方がない。皮肉な話だ。とにかく、スパーが始まった。
ここで福島がやってきたのだ。一昨日二人で確認しあった、あの立ち上がりを実戦してきたのだ。見事なカードの順番だった。俺の仮想シドレンコは、かつて無いほど追い詰められた。1Rが終わった時に『これ2週間後にホールでやるはずだったのにね』って、爽やかな笑顔で言う。
なんて意志の強い男なんだ。絶対にモチベーションが落ちているはずなのに。世界で1番辛い気持ちなはず。それなのに、スパーで腐らずにあのカードの切り方をしてきた。抜群のスピードで。ある意味、たまらなく嬉しくなった。ジムでは『世界戦延期』が広まってるから、二人のスパーなんてほとんどの人が見ていない。そんな雰囲気の中、二人が努力に努力を重ねて、作り上げた沢山のカードを出しあい殴り合う。何とも言えない、純粋な殴り合いだった。
福島が言葉でなく、スパーの中で語りかけてきた。俺も開き直って、仮想シドレンコでガンガン打ち合った。4Rを打ち合い続け終了。俺の仮想シドレンコは、二人で考えた方法で攻略されたのだ。
世界戦の延期予定は、今年の10月だ。
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