PHOTO BY 山口裕朗



 その2

 俺は仕事がトレーナーだ。なのに誤解をまねくかもしれないが、教えるのがあまり好きではない。選手はトレーナーを使えばいい。自分が強くなるための手段として。プロは『選ばれた者』なのだから。
 俺はヘボトレーナーだから、誰かを指導するなんていう立場には立てない。指導というより、互いに吸収し合い練習で学び合う事しか出来ない。『選ばれた者』達に触れ、彼等がリングでどう通用するかを見る事で、同じ風を浴びたい。このメンバー達に感謝をする。この人間達が居なければ、今の俺は存在しないのだから。
 彼等の頑張りが俺を男にする。そしてこの人間達を、俺が男にする。

 昔からこんな風に思っていた訳ではない。本当に生意気で嫌な奴だった。でもたくさんの経験を、ボクシングや格闘技を通じて経験させてもらったし、たくさんの人と出会う事が出来たのも、すべてはボクシングのおかげだ。
 俺は有り難いことに、たくさんの『選ばれた者』達と出会い仲良くしてもらっている。ボクシングの世界でも自分のジムはもちろん、自分のジム以外の選手達や、他の格闘技の世界の選手達とも、仲良くなり食事などに一緒に行ったりしてもらっている。俺みたいな人間を、トレーナーとして引き入れてくれた森川オーナーをはじめ、高橋直人会長にまず感謝したい。そして福島学という人間がいたから、俺はたくさんの人と出会えた。
 ラリーホームズが『トレーナーが選手を育てるのではない。選手がトレーナーを育てるのだ』と言っているのを何かの記事で読んだ。まさにその通りだと思う。福島の成功が、どこの馬の骨かも分からない俺を育ててくれた。そしてたくさんの人間と引き合わせてくれた。
 知り会ったたくさんの選手達との会話の中にも、色々と勉強になる事がある。その会話の数々は、俺のなかの大事な大事な宝物だ。

 さて2003年の12月に引き分けたヨックタイとの再戦が、翌年の2004年の2月に組まれた。何も負けたわけじゃないのだから、ダイレクトに再戦する必要があるのか?
 答えはある。あの試合の後半に福島は何かをつかんだはずだ。それをもう一度やることで、自分の中の確かなものにする。基本的には一戦目の後半に見せた、福島が自ら作り上げたスタイルで最初から戦えば良い。俺の仕事はただそれに少しプラスする事だ。
 ヨックタイが接近戦でやってきた、あの老かいな技に対する対策を練る。あの身のこなし。両手を相手の脇に差し、相手に打たせないようにしたり、差した手で福島の体をコントロールして打つ左のボディや、頭を押さえての右の打ち下ろしなどのやっかいな攻防に対してだ。これには策があった。あの攻防の秘訣には、ムエイタイの首相撲があるはずだ。



 当時すでに、俺はたくさんの他の格闘技選手を見ていた。ヨックタイ対策は、そのたくさんの格闘家との練習から生み出した。もちろん、伝統のあるムエイタイ戦士と同じ事なんて出来ない。でも俺には色々なの格闘家達との、それぞれのルールでのスパーの経験がある。
 キックの立嶋篤史君に嫌と言うほど、振り回された首相撲。同じくキックの石毛慎也に頭を押さえられ、ヘッドギア越しにも頭の中が腫れあがった肘打ち。極真空手の入沢群師範に、バシバシ手を払われボコボコにされたボディ打ち。元極真空手で今はパンクラスヘビー級1位の野地竜太のヘビー級とは思えないハンドスピードや、四つに組んだ時の腰の重さ。修斗の世界ランカーの植松直哉との何が何だか分からないけど、ひたすら足関節を決められた痛いスパーや、キックで驚異的なKO勝ちの数を生み出している大月晴明との、首相撲を無理矢理破壊する豪腕スパー。そして和術慧舟會Aー3代表で、パンクラスウェルター級4位の門馬秀貴とのスパーだ。関節を取られないように脇を絞めたり、四つに組んでからの脇の差し合いの攻防。タックルに入り門馬を倒すために、自分の耳で門馬の体をコントロールする首の力。
 これら全ての経験を使って、ヨックタイの接近戦を真似たんだ。そして福島を驚かすほどの、仮想ヨックタイを見事に演じたのだ。福島の開いている脇に、俺の右手を差し入れる。差し入れた右手で、福島の体を崩すと同時に左ボディをみぞに打つ。そして流れるように、その左手で福島の頭を押さえ、差し入れた右手を抜いて打ち下ろす。これを力む事無く、スムーズに行なう。最初のスパーを終えて『あ〜前回の試合で、これをむちゃくちゃやられましたよ。山田さんすごいうまいよ』と福島に言われた。そして毎日、俺は仮想ヨックタイになり、福島の腕をとり、このいやらしい攻めを繰り返した。
 これに対応するには2つの方法がある。1つ目は脇を絞めて腕を差し込ませないようにする。2つ目はたとえ脇を差されても、力を入れて踏張らないことだ。逆らおうとしないで、力を抜いて対応すれば体は崩されない。
 最初の方は俺に好き勝手やられていたが、しばらくすると脇が開かなくなり、たとえ腕を差されても力まずに柔らかく対応しはじめた。最後の方は福島が俺にそれをやる余裕すら出てきた。

 しかし試合の数週間前に、俺がとんでもないミスをした。いつものように昼間、格闘家と練習していた。いつもは必ず一人しか見ない。だがこの日は、門馬と野地が同じ時間に来ていた。一人でこの二人を相手にしようとしていた。連日の福島とのスパーで疲れ果てていたくせに。
 まず門馬と3R総合スパーをやり、門馬が抜け野地が入ってきて野地とも3Rやる予定だった。誰が選手か分からない。門馬と2Rを無難にこなし、タックルも何度かタイミングよく入れて、テイクダウンも結構取れていた。門馬とは最後の3R目。『体は疲れているが、結構動くな〜』って思っていた。時計を見るとラスト30秒だ。この後まだ野地と3Rやらなきゃならない。そんな気の緩みの中、門馬がタックルにきた。それまでは全部切っていた。タックルは切るのも疲れる。余力を残すように、適当に切った。すると俺の左膝に、門馬の体重が全てかかり、『バチン!』と大きな音がして、膝がガクンと折れた。尻餅をついたので、すぐに立ち上がりジャブを打つと、膝のお皿がヌルって動いて、ペタンと自ら座り込んでゴング。
 俺はトレーナーである。なぜこんな無茶な事をしてしまうのか。まあ性格だから。変わらない。さすがに野地の相手は出来ないと思い、門馬と野地にスパーさせリングサイドで見ていた。そのあと心配する門馬を安心させるため、サンドバックを叩き、門馬とウェイトトレーニングもきっちりやった。でもやはり膝が不自然だ。痛みに強すぎるというのは問題だ。
 この日は後楽園ホールに、パンクラスの試合を観戦に行く事になっている。その前に知り合いの治療院の先生に症状を話すと、すぐに来いと言われ、足を引きずりながら治療院に行った。すぐさま固められ、松葉杖を渡された。そんなに大事にするなと文句を言いながら、行くなと言われたホールに行き、夜中まで出歩き飯を食って家に帰った。次の日に足を見て驚いた。膝がバレーボールくらいの大きさになっているのだ。痛みも激しく地元の病院に行った。しかし診断は膝の中の靭帯は切れてないとの事。俺は安心し数日を過ごしたが、あまりの痛みにこれはマズイと思い始めた。俺がこんなに痛いなら、普通の人なら大変だと。大きな大学病院に行き、MRIをちゃんと撮り、診断を受けるとあまりにも酷すぎるため、転院させられるはめに。俺の左足は内側靱帯と前十字靱帯が、完全断裂していた。

 大事な大事なヨックタイとのリマッチの前に、大変な事になってしまった。手術をしたら、試合に間に合わない。ひたすら氷で冷やし家で療養した。そして試合の前の日に福島に詫びた。すると福島からメールが来た。
『今回は山田さんがケガしちゃう前に仮想ヨックタイで接近戦を鍛えてもらってホント良かったです!だからけっこう自信あるまま試合に臨めます!明日は絶対に勝って山田さんが膝を治して、また二人で頑張っていけるよう10ラウンドたった30分だけ鉄の意志を持ちながら頑張ります。 勝利を信じてリングサイドで見守っててください!! 俺はマジ頑張ります』
 と書いてあった。もう言葉が無かった。
 そしてこの言葉通りに、福島は鉄の意志を見せてくれた。この試合で、福島自身のボクシングをしっかりと見つけたと思う。
試合の内容は、福島から来たこのメールが全てである。細かい内容なんて書きたくない。ただ本当に選手とトレーナーは信頼関係だと気付いた試合になった。
 もちろん怪我をして、選手のみんなに心配は掛けたし迷惑も掛けたと思う。でも門馬や他の選手達との練習がなかったら、本業のボクシングで結果を出せなかった。ヨックタイのあの攻防を真似できるボクサーは、日本で俺だけだったと思う。すべてはたくさんの人間との練習の結果だ。俺が足を怪我したことが、後悔になるか結果的に帳尻をあわせるかは、すべてをヨックタイ戦に挑む福島に託した。答えは帳尻を合わせてくれたのだ。自分のミスを福島が補ってくれた。



 あれから1年が経ち、俺は手術もして、今現在は昔と同じとは言わないが、必死(本当に自分でもよくやったと思う)のリハビリで復活しつつある。
 今は笑い話だが、福島のキャリアの中で、直接再戦した例は2つある。ヨックタイとの2連戦と、ラリオスとやる前にやったバロティーヨとの2連戦である。この2つのどちらとも、俺は体を痛め入院している。バロティーヨの2戦目はセコンドに付くことすら出来なかった。常識を越えた練習量で、髄膜炎という頭の中にウィルスが入る病気になり、二ヵ月入院した。検査で頭の中を調べたら、右脳と脳幹の間に陰が見つかったのだ。これは今現在もしっかり頭の中にある。その時は髄膜炎のウィルスが、そこを攻撃した為に体が痺れ、いうことをきかなくなった。その時も必死のリハビリをした。
 鍵穴に鍵をさせないような状態から、半年後にはラリオス戦に向けた福島のスパーパートナーをやれるまでになった。
いつも再戦の時は何かが起こる。もうこの教訓を活かして、これからはダイレクトな再戦はやめよう(笑)

 2005年2月26日に、ドイツで暫定チャンピオンのサラテとシドレンコの試合が決まった。勝った方が正チャンピオンになり、その勝者に福島が挑戦できるという話が、具体的に進み始めた。福島は前年の11月に、レイ・リャガスを判定で下していた。だがこの世界戦の話の為に、むやみに次の試合は組めない。福島と二人で2月を待っていた。待つことには慣れている。
 そして運命の日が来た。勝者はシドレンコだった。シドレンコ?あわてて調べる。ビックリした。アマチュアで290勝20敗。シドニー五輪の銅メダリストだった。なんというキャリアだ。想像は膨らむばかり。とにかく早急にビデオを取り寄せた。届いたビデオはガメス戦含めて、2試合入っていた。ガメス戦は森川オーナーと、朝から電話して話をした試合だ。その想像だけで話していた試合が、このビデオに入っている。ドキドキしながらビデオを再生した。
 初めて見るシドレンコ。いきなり目についたのは、そのとてつもない首の太さ。そして試合が始まる。次に驚いたのは、バンタム級としては飛び切り小さいガメスと、大差の無い背丈である。
そして何よりビックリしたのが、驚くべき固さのガードである。語弊があるかもしれないが、相手のパンチの全てをガードで受けているのだ。小さなミハエルゾウスキーのようだ。
 ただガードに重きを置いているため、手数はあまり多くない。自分からジャブを打ち距離を計ると言うよりは、相手のパンチをブロックする事で距離を見極めているように見える。ガードを固めプレッシャーをかけ、自分の距離になるまで手を出さない。ジャブが少なく、右のパンチが多い。果たしてこれに対して、どう対応するか。
 一緒にビデオを見ていた福島が、『これ山田さんのボクシングに似てるよ』と言った。おいおい!簡単に言うなよ。こんなキャリアの持ち主を真似するなんて大変だ。

(以下次号)




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●山田武士
1973年、埼玉県新座市生まれ。AB型。
1996年、チンピラ(自称)からJBスポーツジムトレーナーに。

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