
共にトレーニングを続けて1年が経った頃、僕と沙乙里の、それぞれ初めての試合が決まった。
僕より一足先に、沙乙里は後楽園ホールでのエキジビション・マッチに出場することになった。公式試合ではなかったが、ポスターにもチケットにも沙乙里の名前が載り、ジム側の期待も大きかった。
ジムが閉まるギリギリまでリングに残って、ピョンピョン飛び跳ねるようにステップ・ワークの練習をする沙乙里の姿を今でもよく憶えている。いつでも不安を抱えたような彼女の横顔もよく憶えている。少し怯えたような影のある表情。試合前のボクサーの誰もが見せる表情だったが、女の子のそれを見たのは初めてだった。
「とても怖いし、不安なの。たくさんの人が見ている前で、練習通りできなかったら・・・・・・っていつも思って。
ねぇ、辰吉も初めての試合前はこうだったのかなぁ?ああいう人はやっぱり違うのかもね。私みたいにイライラして、周りの人にやつ当たりしたりなんてしないんだろうなぁ・・・・・・」
辰吉は試合前日だってのに、夜泣きする息子を朝方まであやしてあげてた事があったんだって。そう僕が言うと、沙乙里は「本当?」と言って、可笑しそうに、少しほぐれたように笑った。
「ねえ、後楽園ホールのリングの上って、照明が強烈で、真夏みたいに暑いんだって。怖いけど、でも楽しみだなぁ。そこでもし良い試合ができれば、そうすれば・・・・・・」

だが結局、沙乙里の初めての試合は実現しなかった。
本番寸前になって、沙乙里は腕にかなり酷いケガしてしまい、医者は彼女が試合に出ることを許さなかったのだ。
病院から戻って、ジムに報告に行って、そして僕に逢うと、緊張の糸が途切れたように、沙乙里はポロポロと涙をこぼした。ジムの地下にある喫茶店でアイス・コーヒーを飲みながら、肩を震わすことも声をあげることもなく沙乙里は静かに涙を流し続けた。
試合がしたかった。もうボクシングなんて辞める。ボクシングを嫌いになりたくないから。
そう言って、沙乙里は子供のようにいつまでも泣いた。
僕には何も言うことがなかった。何を言ったら良いのかわからなかった。慰めの言葉も見つからなかった。
言うべき事が自分の中に何もない無力感を、あの時ほど感じた事はない。僕は若くて不完全で、ボクシングの試合もまだ一度もしたことがなかった。その僕が彼女に言えることなんて何ひとつとしてなかったのだ。
あとからあとから溢れ出る沙乙里の涙を、僕はただ黙って眺めていた。自分がたまらなくカラッポな人間に思えて仕方なかった。
今日はずっと一緒にいてくれる?と訊かれたが、僕はひとりになりたかった。僕たちは中野区野方駅の構内で別れた。
まだ真っ赤な目をした沙乙里は、別れるときに「話を聞いてくれてありがとう」と小さな声で僕に言った。
そしてその日を最後に、沙乙里はボクシング・ジムに来なくなった。僕に連絡も来なかった。「沙乙里はタイに渡ったのだ」と、しばらくたって誰かが僕に教えてくれた。
(vol.3に続く)
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