
19歳の頃、僕は東京の中野区にあるボクシングジムに通い始めた。
1995年の夏、もぐり込んだ大学は酷く退屈で、高校時代の友人たちとも逢うことがまったくなくなっていて、アルバイトは適当で、本もほとんど読まなかった。無力感と苛立ちが漂い始めた生活の中で、だが唯一、ボクシングだけは強烈な魅力に溢れていた。
毎日クタクタになるまでサンドバッグを叩き、朝の公園を走り、ジムの先輩たちに向かって必死にパンチを繰り出した。トレーナーに「良くなってきたぞ」と誉められると、もうそれだけで天に昇るような気持ちだった。後の日本チャンピオンにボコボコに殴られ、顔を腫らし悲鳴をあげながら夕食をとっていた僕を見て、母親はよく呆れていたものだが。
そのボクシングジムで、1人の女の子に出逢った。
沙乙里(サオリ)という名のその女の子は、ボーイフレンドがキックボクサーだったのだが、ボクシングにはあまり詳しくなかった。ダンスをやってたんだけど挫折してしまったの、と屈託なく言った。
小柄で、愛くるしい顔をして、カジュアルな着こなしがよく似合った。最初に逢った時に何を話したのか、実はほとんど憶えていない。出逢いが平凡だったからではない。その後に起こったことがかなり強烈で、出逢いのことなどどうでもよくなってしまったのだと思う。
沙乙里は幼少の頃からオペラ声楽を習っていて、ダンスも始め、その当時はボクシングジムに通っていたけど、合間にプールでもトレーニングをしていた。僕と出逢ってすぐに、彼女は歌手のオーディション番組出演のために、シンガポールにまで飛んで行った。
なんて活動的なコだろう、と僕は思った。
その後、ボクシングジムでの記憶は、かなりの部分で沙乙里との思い出とリンクしていくことになった。東京から、タイ、NY・・・・・・ジムでだけではない、僕たちの居場所もそれぞれ転々としていくことになったのだが。

同じジムでトレーニングを続けてしばらくたった頃、沙乙里と2人で、辰吉丈一郎というボクサーが、世界チャンピオンになったときのビデオを見たことがあった。
辰吉は、デヴュー後僅か8戦目で世界王者になり、「天才」と呼ばれていた。
誰が見てもわかるようなセンスを持ち、若く、色彩豊かで、溢れるようなカリスマ性まで持ち合わせている。「辰吉体験」を共有しなかった人には説明の仕様がない、当時の辰吉丈一郎は本当に物凄いボクサーだった。
僕たちが見つめるテレビの中の辰吉は、試合中に片腕をグルグル廻すパフォーマンスで観客を喜ばし、勝利が決まるとキャンパスに倒れこんで涙を流した。
「へぇ・・・・・・辰吉って、ホントに凄いんだね・・・・・・」
僕の隣りに座った沙乙里は、呆然とテレビ画面を眺めてそう言った。ボクサーとしてか人間としてか、辰吉のどこが凄いと思ったのかは訊かなかった。
「凄いね・・・・・・なんでこんなことができるんだろう?私もこの人みたいになりたい、有名になりたいなぁ・・・・・・」
21歳だった僕と1つ年下の沙乙里は、互いに嫌になるくらい未成熟だったけれど、恐いもの知らずで、いつも途方もない夢のような話を当然のことのように語り合った。
チャンピオンになってアメリカに行く、と僕は言った。
「何でもいいから有名になりたい」、と彼女は言った。
目の前のテレビで躍動する少し変わった名前の天才ボクサーは、僕たちが求めるものを明白な形で体現しているかのように思えた。
辰吉が僕と沙乙里に突き付けたもの、辰吉が象徴していたものは、「新しい世界」だったのだと思う。天才たちの属する世界。海の向こうにまで広がる世界。
辰吉丈一郎を知ったあと、邦画や邦楽がバカみたいに思えた。怠惰で退屈な生活を嫌悪した。「強くなりたい」と呆れるほど素直に思った。
大学の勉強などそっちのけで、僕はボクシングをして、アメリカに行くためにバイトをして、映画を創り、文章を書いた。沙乙里はダンスこそ辞めていたが、ボクシングのトレーニングをこなしながら歌も歌い続けていた。
「自分の好きなことができないなら意味がない、死んだほうがマシ」沙乙里はいつもそんなことを言った。
熱狂的で、生意気で、絵空事ばかりの日々だった。だけど、幸せな時代だったのだと思う。それが許される年齢と環境だったからだ。その頃のことを考えると楽しい思い出しか浮かんでこない。
以降、歳をとって、当然のことだが、同じ総量の夢を見ることはなくなった。考えることすらなくなったのだと思う。
(vol.2に続く)
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