『\<下> 無言の報復』

  まぶたが腫れて左目の視界を完全に失っていた敗者は、黙って椅子に腰掛けていた。やがてバンテージに鋏が入れられ、両の拳があらわになると立ち上がり、
「どうだった?」
 と声をかけた目の前のボクをさけるようにして控え室をそそくさと出ていった。

  動揺のあまり正確には覚えていないが、少なくともボクは10カウント以上、その場に立ち尽くしていたと思う。こちらの問いかけに返事がなかったことはもちろんだが、代わりに一瞬だけボクに向けられた右の眼。その蔑むような冷めた眼差しに完璧にノックアウトされてしまったのだった。
 辛うじて廊下に出たボクは、そこにさっきの片目の敗者の姿がないことに安堵を覚えつつ、今度は勝者の控え室のドアを開けた。
「言っちゃ悪いけど、相手(横山啓介)はたいしたことなかったですね。パンチは当たりやすいし、フェイントにすぐ引っかかるし。1ラウンド目は左フックが強いかなと思ったけど、2ラウンド目からは慣れましたね。あとのストレートとアッパーはこわくなかった。久々に会心の勝利ですね・・・」
  元日本2階級制覇王者を4回でストップしたとあって、若き日本ランカーは饒舌だった。
  ボクは取材を終えると、意を決してふたたび敗者の控え室に足を向けた。するとさっきとは異なる空き部屋の奥に、横山と写心家の山口裕朗氏の姿があった。横山は下着一枚で床にへたり込んだまま、放心したようにうつむいている。カメラを肩からかけた山口氏はシャッターを切るでもなく、静かに敗者を見下ろしていた。
 ボクは何度もそこに加わろうとした。が、ついさっきの出来事がどうにも胸に引っかかり、開け放たれたドアの前で二の足を踏んでいた。やがてふと振り返ると、横山夫人がこちらへ歩いてきた。彼女は微笑みかけたボクの前を素通りし、部屋のなかへと消えていった。

  やはりそうだったのか。オレは横山夫妻に敬遠されてしまっているにちがいない・・・。
  ボクはその場を逃げるようにして階段を駆け上がり、元の席についた。すでに始まっていたメインイベントでは、横山のジムメイトが元世界王者のタイ人に苦戦をしいられているようだった。ボクはいつもならノートとペンを手に戦況を追い、ラウンドのインターバルにはメモ書きをするのだが、とてもそんな気力はない。客のなかに埋もれることでどうにかリングに目を向けてはいるものの、心は乱れに乱れ、メインイベント終了までの時間が苦痛でしかなかった。

  2003年12月6日。横山はセミファイナルの8回戦で、日本スーパー・フライ級3位の結城康友(ヨネクラ)に4回TKO負けを喫した。過去に2度までも日本の頂点に立ち、世界ランクにも名を連ねた横山の実績からすれば、日本ランク復帰をかけたこの試合はすっきり勝たなければいけなかったのだが。

高橋直人会長との練習で見せていたように、横山は低い体勢のまま距離を詰めては果敢に打ち合いをしかけた。2回からは結城もタフな打撃戦に応じるようになり、時間の経過とともに旗色は元王者に厳しいものとなっていった。しかし、打ち返す横山のパンチも力を失っておらず、勝負どころは後半戦に入ってからではないか。そう思われた矢先の4回途中に、レフェリーが唐突に試合をストップ。ボクの席からは判らなかったが、横山の左目が被弾によってふさがれたことによる結城のTKO勝ちであると場内にアナウンスされた。

  列記とした敗北。それでも倒されたわけではない。目の腫れがなければ試合はきっとまだ続いたはずである。つまり、敗者は顔面ほどには心に痛手を負っていないのではないだろうか。それをたしかめたくて、ボクは軽い調子で「どうだった?」とたずねたのだったが、まさかあのような対応をされるとは・・・。

  原因に思い当たる節はあった。つい1ヵ月ほど前、久々にジムで横山に会ったときに手渡した原稿だ。それはこのTalk is cheapで始めた連載のプロローグから二話分までである。
  この連載はノンフィクションであって、虚構や脚色を施したものでは断じてない。だが、問題はその切り口と構成、そしてその途中までを題材の横山本人が読んだタイミングだった。
  このTalk is cheapでは原稿料が発生しない分、しがらみもなく、意のままに言葉を連ねることができる。そしてやはり、物書きとしてはより多くの人におもしろく読ませたいという思いがある。そこでボクは、いつも横山に接しているよりも一段高い位置から、元チャンプの惨状や滑稽な様をあえて浮き彫りにさせたのである。いま、自分でその二話分までを読み返してみても、描かれている横山啓介にリスペクトはできないし、本人の励みとなりうる要素は皆無に等しい。

  だが、話はそこで完結するわけではなく、まっさらなキャンバスに下地の色をつけた程度にすぎない。しかも横山の戦いは続いていたから、最終的にどのような色に落ち着いて何をどう描けるのか、それはまだボクにもわからないことだった。
  横山なら、ボクの本意や書き手の立場も判ってくれるはず。だれより親しかったり、とびぬけて馬が合うというわけではない。けれど、仕事の領域を越えてアプローチしてきた無名のライターを前に、彼は等身大であり続けてくれたことで信頼関係が成立しているものと思い込んでいた。が、それがまちがいの元だったのかもしれない。ピュアで頑固で、“ばか”がつくほど正直な男が横山なのだ。しかも落とせない一戦を控えていたなかで、書き手に都合のよい理解を求めてはいけなかったのだと、いまならよくわかる。

  横山の無言の報復はショックだった。足で稼ぐしかないボクのような物書きにとって、だれに誉められようとも取材した相手に喜んでもらえたときほど嬉しいことはない。むろん、歯の浮くような賛美や過度の曲解はもってのほかであるが。
  書き手としての至福を得られなくなってまで、連載を続ける意味があるのだろうか。ボクは横山の真意を問うために、新年を迎えると早々に「会いたい」と連絡を入れた。 
                              (つづく)  


■ ドロップアウト・パンチ By 大久保克哉 ■ Back Number
『\<下> 無言の報復』
『\<上> 無言の報復』
『[<下> やまぬエクスキューズ』
・2005 『[<上> 3.2キロのサプライズ』

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●大久保 克哉 (おおくぼ かつや)
千葉県生まれ、34歳。東洋大学出身。ローカル紙記者を経てフリーに。ボクシングをメインにJリーグ、野球を取材、執筆中。近著『語ろうパ・リーグ』(カンゼン)、『格闘家のためのメディカルケア』(ベースボール・マガジン社)。

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