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移籍初戦で思わぬストップ負けを喫した横山啓介は、リング上から四方への挨拶を残していた。しらけたムードの場内を抜けて、ボクは一足先に控え室へと向かった。
一直線の狭い通路。その奥の右手の小部屋が横山に割り当てられた控え室だった。開け放たれたドアの奥に人影はなく、畳の上の肩掛けバックや脱いでそろえたスニーカーが主の帰りを静かに待っていた。通路を隔てて、はす向かいにある部屋の外にある黒板には白墨で「富本慶久」と書かれてあった。
富本はもうまもなく、メインイベントの日本タイトルマッチへ向かうはずである。元ジムメイトの横山の惨敗とはおそらく無関係に、室内の緊迫した様子がドアのすりガラス越しに伝わってくる。
ほどなくして、控え室の通路へ通じる鉄製の扉が開け放たれ、バケツやタオルなどを手にした横山陣営がぞろぞろと戻ってきた。そしてその何番目かに、敗者の伏目がちの顔があった。
と、ちょうどそのときだった。富本の控え室のドアが音もなく開き、杉崎昭俊トレーナーが先頭をきって通路に現れた。すぐさま横山の姿が目に飛び込んできたのだろう、その老トレーナーの活気ある表情は一変。うろたえたようにその場に棒立ちとなり、潤んだ哀れみの瞳で横山が向かいの部屋に消えゆくのを見送った。
その間、わずか2、3秒。横山と杉崎トレーナーとの関係を知らぬ者には、なんのことはない舞台裏のひとコマであったにちがいない。が、彼ら二人が1年前までコンビを組んでいたことを知るボクには見逃すことのできない好奇な遭遇だった。そしてあの、杉崎トレーナーの咄嗟の眼差しに横山への変わらぬ思慕がうかがえて、切なくも胸を熱くさせるのだった。
後日、ある取材で初めて1対1になったとき、杉崎トレーナーは自戒の念を込めながらボクに腹の内を明かしてくれた。
「人間は心と心のつながりが一番大事。トレーナーは選手と一心同体にならないとね。オレは沼田(義明=元世界王者)と一緒に減量やるつもりで食わなかったこともあるし、会長とのゴタゴタで北海道に帰っちゃったときだってオレが迎えに行ったんだから。そうするとさ、選手も言うこと聞いてくれるの…」
「横山クンの場合はどうでした?」
「横山だってそうだよ。大阪で(日本)2階級制覇した試合で目の上を切ったでしょ。あの夜、みんなが祝勝会やってるときにオレは横山をタクシーに乗せて病院を探しまわって傷口を縫わせたんだよ…」
「でも杉崎さんに真の味方になってもらえなかった、というニュアンスを移籍した横山クンから聞いたことありますけど」
「…横山は言うこと聞かないで会長に嫌われちゃったでしょ。『ロードワークは自分でやるから大丈夫』とか言って、楽をするようになっちゃった。それでもう『(ジムに)いらない』って会長に匙を投げられちゃったんだよ。でもそれをオレが聞かせるようにしないといけなかったんだよね。トレーナーってさ、会長と選手にはさまれていつも苦しいよ。ほんと苦しい。オレは沼田のときから何十年もそういう立場にいるからね、わかってるんだけど…」
「横山クンはバカ正直ですよね。大人になれないというか。そこが彼の魅力でもあるとボクは思うんですけど」
「そうだね。沼田会長だって今でも横山のこと気にしててさ、オレにいろいろ聞いてくるんだから。みんな横山が好きなんだよ…」
袂を別ったトレーナーにそっと見送られて控え室へ戻ってきた横山は、そのまま奥の壁に背をあずけてしゃがみ込み、グローブで頭を抱えるようにしながら独り言のように喋りだした。
「迷いがあった。自分のスタイルでどう試合を組み立てようか迷ってた。このまま終わりたくないですね」
「階級上げたけど馬力負けしてたよね。初めての経験じゃない?」
「いや別に。軽量から相手の身体を見たけど、なんとも思わなかったし、階級アップとかは関係ないと思う。だけど今回は前日に会長とステーキ食っちゃったから、ボディが効きましたね(笑)。なんかうまく反応できないというか、練習でやってたことがしっくりいかなかったんで、元のスタイルに戻したけどなんか中途半端で…」
ふと振り返ると、コンビを組む篠田朋恒トレーナーがそこに立っていた。丸い顔いっぱいに吹き出ている汗を拭おうともせず、敗者を見下ろしながら醜いエクスキューズに耳を傾けている。
たまらずにボクは部屋をあとにした。
ジムを2度も移籍して、べらぼうな借金までして獲た新たな環境。いったいそれは、なんのためだったのか。減量苦という元凶からも解かれ、よりトレーニングを積んできたのではなかったのか。会長に勧められたステーキを断れない気遣いはあるのに、自分のトレーナーの前で練習批判めいた発言ができるのはどうしてなんだ。
もうたくさんだ。堰を切ったように疲れが押し寄せてきて足取りを重くし、横山に寄せていた親愛の情が引いていくのをどうにも止めることができなかった。
「横山なんてもうダメだよ。環境じゃないと思うよ。いろいろ御託並べたってさ、今のアイツじゃ協栄ジムの地獄のハワイ・キャンプ(走り込み合宿)なんか行けば、真っ先にリタイアするだろうね」
その夜の酒の席で、誰かがそう語ったことを誰よりも頷いて聞いていたのはこのボクだった。
(つづく)
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