『[ <上> 3.2キロのサプライズ』

 小さい相手はお手のもの。パワーで圧倒するのが日本2階級制覇者、横山啓介の取り口である。その夜もまた、横山はリングで対峙した敵を見下ろしていた。
 ところが、どうしたことか・・・。小さな敵に自慢の左ブローを難なく受け流され、さらには馬力負けしてゆるゆると後退を始めたのである。
 驚きが去ってその原因に考えが及んだときには、元日本チャンプはあっさりとキャンバスに崩れてレフェリーのカウントを聞いていた。

 2003年3月1日。後楽園ホールでのセミ・ファイナルにセットされた8回戦は、横山が2度目のジム移籍と照世夫人との入籍を果たして迎える記念すべき第1戦だった。
 対する竹田津孝(森岡)はホール初登場で、A級ボクサーに昇格して3戦目。ルーキー時代に長谷川穂積(のちの東洋太平洋王者)を破っており、地元関西では評価が高いと聞いていた。だが調べてみると、6回戦では熟山竜一、小島英次、そして長谷川穂積と、西の有名どころに白星を献上していた。
 ここ一番で勝てないのは横山も同じだったが、それは日本タイトルを獲得して以降のことだからレベルが違う。まして、6回戦はもう9年も前に2連続KOでパスしているのだ。負ける要素などあるはずがなかった。いや、横山にしてみればこの一戦は新生をアピールするためのチューンナップマッチであり、問われているのは勝敗ではなく勝ち方だった。

 試合は静かな偵察戦からスタートした。重心をやや低く構えた横山はじわりと距離を詰めつつ、力のあるジャブや左フックで威嚇。竹田津はブロッキングやボディワークで被弾を逃れては、ショートパンチを当て逃げする。やや竹田津に分がある内容ながら、元日本チャンプに危うさは感じられなかった。
 ただひとつ、妙だったのは本来なら格上の横山が陣取るはずの赤コーナーに、東日本では無名にひとしい竹田津がいたことである。そして横山と同じ青コーナーからメインイベントに登場する予定の富本慶久が、横山の元ジムメイトということがあらぬ想像をかきたてるのだった
 通常、メインイベンターには前座選手たちとは別の控え室が用意される。しかし、横山と富本は旧知の仲ということで、もしも同じ控え室があてがわれていたとしたら。それはけっして、めでたいことではない。
 というのは富本陣営の将、つまり横山の古巣のジム会長と、横山との人間関係が冷え切ったままなのだ。横山が桁外れの借金を負ってまでもジムを移った理由のひとつはそれである。ボクもまた過去に何度か、試合に負けたそばから、あるいはジムワークに励んでいる横山を、公然と誹謗中傷する会長の声を聞いたことがあった。
 新天地へ渡ったことにより、横山の憤怒は風化していくはずだった。それがよりによって、新たな門出の夜をまたあの会長と同じ会場、もしかすると同じ部屋で過ごさなければならないとは、なんという皮肉な運命だろうか。
 ただし、当の横山に事を荒立てる気はさらさらなかったようである。その奇妙な巡りあわせを知った当初から「気にしない」と繰り返しており、それにまつわる新天地でのブラックジョークを笑って聞き流せるゆとりもあった。

 イーブンペースで迎えた3回。おのずと両者の距離が近くなってきてパンチの応酬が始まった。横山の右フック、右アッパーが随所でヒットするも、いつものようには小さな相手が怯んでくれない。それどころか、横山は身体ごとロープまで押し込まれていって左右フックを上下に浴び、グロッギーとなってしまう。
 4回に入り、横山は左フックからアッパーにつなぐコンビーションで局面を打開しかけたものの、竹田津に右フックを返されると攻撃も先細りとなってくる。そして5回。またもやロープを背にした横山は右ストレートを顔面に浴びると、ヒザからキャンバスに崩れていった。

 明らかなパワー負けだった。それも横山のフィジカル面が衰えたというのではない。馬力、パンチ力、タフネスにおいて背の低い竹田津がはるかに上回っていたのだ。
 その原因で真っ先に考えられたのはウェートである。この試合は体重52.1キロ同士、つまりスーパー・フライ級ウェートで組まれていたが、竹田津の主戦場はさらに一階級上のバンタム級(53.5キロ)だった。
 そして横山はというと、最軽量のミニマム級(47.6キロ)からプロキャリアをスタートしている。1年前のラスト・ファイトもまだライト・フライ級(48.9キロ)で戦っており、この移籍初戦で一気に2階級アップしてきたのだった。その2階級分の体重差はおよそ3.2キロ。ミニマム級とライト・フライ級で日本の頂点に輝いた反面、過酷な減量に喘いできた横山にとって、2階級アップはジム移籍と同等の悲願でもあったのだ。
 そしてその願いをかなえたことで、健全にトレーニングを積んでリングに上がる喜びや充実を、横山は久しぶりに感じていたはずである。ましてや、その3.2キロ増量がマイナスに働こうなどとは露にも思わなかったのではなかろうか。

 理想と現実のギャップ。2階級分の重みや目算の甘さ。それらを白日の下にさらされたとはいえ、試合はまだ終わっていない。
 リング上とほぼ同じ目線にある客席の一角で、新婦はもう長いこと顔を伏せたままだ。が、新郎の元日本チャンプのほうは懸命にファイトしていた。5回にダウンを喫して以降は左右フック、右ストレートで果敢に打ち合って1分間のインターバルまで漕ぎ着けた。6回に入ると手数を増して攻勢をかけ、幾多の敵を沈めてきた左フックが顔面に炸裂すると竹田津の動きもにわかに鈍ってきた。
 しかし7回、横山もボディを打たれて勢いを失うと、竹田津の連打にさらされて再びレフェリーのカウントを聞き、再開後は反撃の暇もなくストップ負けしたのだった。

          (つづく)


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●大久保 克哉 (おおくぼ かつや)
千葉県生まれ、34歳。東洋大学出身。ローカル紙記者を経てフリーに。ボクシングをメインにJリーグ、野球を取材、執筆中。近著『語ろうパ・リーグ』(カンゼン)、『格闘家のためのメディカルケア』(ベースボール・マガジン社)。

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