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2006年10月23日、今でも記憶に残っている、ある6回戦ボクサーの試合――
その日、私のジムからは2名の4回戦ボクサーが出場し、試合を終えて後楽園ホールの観客席へ腰を下ろしていた時のことだった。
セミファイナルの6回戦が始まる前、リングへ向かう花道を中心に、同じTシャツを身にまとった人達が続々と詰めかけて来た。辺りを見回すと、その群集は赤コーナー側の観客席をかなりの割合で占めていた。多くはワタナベジムの選手、スタッフや関係者が中心だった。
異様なまでの熱気の中、軽快な音楽とともに入場してきたワタナベジム所属の6回戦ボクサーは、その試合を最後に引退することが決まっていたらしい。
大歓声の中、試合は一進一退、打ちつ打たれつの大熱戦となった。普通の6回戦の試合で、これほど盛り上がった試合はあまり見たことがない。
最終ラウンド、この6回戦ボクサーは怒涛のラッシュを繰り出し、激闘の中で試合終了のゴングがなった。
6回戦ボクサーは勝者コールを受け、大粒の涙で大観衆の声援に答えていた。
女子プロボクサー・江畑佳代子さんに紹介していただいた今月の“戦士”は、私の心の片隅に残っていた、この元6回戦ボクサー・川端龍也氏だ――
現在、彼はやはり同じワタナベジム出身の元東洋太平洋スーパーフライ級王者・柳光和博会長、元東洋太平洋バンタム級王者・鳥海純マネージャーらと共に、「湘南RYUJUボクシングファミリー」
で、チーフトレーナーとして働いている。
“写心家”山口裕朗氏と私は、川端氏と面会する為に、ジムのある初秋の平塚を訪れた。

平塚駅北口から徒歩1分という好立地にある「湘南RYUJUボクシングファミリー」は、大きな遊戯施設の地下1階にある。
広く綺麗なジム内には、公式サイズのリングにエクササイズエリア、室温を常温より少し高めに設定した“ホットルーム”、ドレッサーや化粧品・乳液などを揃えた“女性用パウダールーム”、一般会員さんの憩いの場として使用出来る“室内BAR”などなど、フィットネス向けの設備が充実している。
湘南RYUJUには一日2回、“スキニーレッスン”というフリーのエクササイズプログラムがあり、我々がジムを訪れた際、ちょうど川端氏がレッスンを担当するところだったので、見学させてもらうことになった。
初体験の人も含めた数名の女性会員の前に立ち、川端氏が爽やかな笑顔であいさつをすると、軽快なダンスミュージックにボクシングの動作を乗せた楽しげなレッスンがスタートした。
音楽に合わせて繰り出すパンチに、時折ミットを合わせて打たせてあげるなど、明るく、親切、丁寧な指導は、ジムの雰囲気とぴったりマッチし、会員さん達の笑顔には満足感が充ち溢れていた。
レッスンが終わったと思ったら、川端氏は汗を拭いながら私の前に駆け寄り、
「新田さん、すみません。一人だけ選手のミットがあるのでもう少し待っていただけますか?」
と、今度はすかさずボクシングトレーナーに早変わり。
プロ選手が繰り出す本物のパンチをバシバシと受け止めていた。

これだけでも、エネルギッシュで誠実な川端氏の魅力が十分に伝わって来るのだが、せっかく平塚まで訪ねて来たのだから、もう少しゆっくりと話をしてみたい。
我々は、勤務を終えた川端氏とともに、ジムから歩いて行けるレストラン「MECCA」 へ移動した。
「新田会長が来られたら、絶対ここへ連れて来たいと思ってたんです!」
ジム立ち上げ当初、平塚へ引っ越して来たばかりの川端氏を気持ち良く迎え入れてくれた、大切なお店のひとつなのだそうだ。
「江畑さんも、こっちへ合宿に来た時は、いつもこのお店に来るんです」
白く塗られたウッドの壁が、海辺に近いレストランの独特の雰囲気をかもし出していた。

1979年12月、愛媛県松山市で警察官の家に生まれ、幼少期に父親の転勤で東京へ移り住んだ。
中学生までは野球少年だった川端氏だが、中3の時にテレビで観た「辰吉丈一郎vs薬師寺保栄」の試合にくぎ付けとなった。
高校へ入学すると、川端氏は両親に「ボクシングやりたい!」と打ち明けたが、残念ながら猛反対。
それでも諦められなかった川端氏は、夏休みになると新聞配達のアルバイトでお金を貯め、入会金と月謝を握りしめてワタナベジムへ飛び込んだのだ。
夢への階段を一歩一歩駆け上がり、彼はやがてプロボクサーとなった――
「実は後楽園ホールでの初の生観戦は、新田会長の日本タイトルマッチだったんですよ! マネージャーの鳥海さんのデビュー戦で、その応援に行った日だったんです」
残念ながら私はこの日、タイトル挑戦に失敗してしまったのだが、私にとって川端氏の試合が印象深いものであったように、彼にとってもまた、私の試合が思い出深いものであった事が嬉しかった。

ワタナベジムから、柳光和博、鳥海純といったチャンピオンが続出していた黄金時代、川端氏はジムの地下1階にあったステーキハウスのママに、とても可愛がってもらった。
「お金が無い時に、よくご飯を食べさせてもらったんです。ママのお陰で、柳光さんや鳥海さんといったトップクラスのボクサー達とも、知り合う事が出来たんです」
こうして川端氏は多くの仲間達に恵まれるようになった。
そしてもう一人、川端氏にとっては欠かすことの出来ない大切な友人がいた。
同じワタナベジムのプロ選手でルームメイトだった将生 潤(しょうき じゅん)選手。当時は田中 潤としてリングに上がっていた。
「ステーキハウスのママとは、潤のお陰で知り合うことが出来たんです」
しかし――、田中 潤選手はある容疑で4年間服役することになってしまった。出所後、名字を“将生(しょうき)”に変えて復帰を果たし、現在は王座を目指して奮闘している。
「潤は『絶対にチャンピオンになる』と言って頑張っています。昔は口に出して言う奴じゃなかったから、余計にウルッと来てしまいました。彼が頑張っていることが、僕の励みなんです」
将生 潤選手については、千代泰之氏編集の「一拳一会V」(エベイユ)で詳しく紹介されているとの事だ。
川端氏が4勝目をあげ、6回戦へと昇格することが決まっていたある日、渡辺会長の車の後部座席に座っていた川端氏は、急に白目をむいて痙攣をおこし、七転八倒するという事件が起こった。
「一体どうしたというんだ・・・」
渡辺会長は突然の出来事に大変驚かされた。
痙攣は“てんかん”によるものだった――
「この状態では、試合に出すわけにはいかない・・・」
安全面を考えればそう判断せざるを得ず、それ以来、渡辺会長は川端氏の試合を組めなくなってしまった。
「1カ月から3カ月に一度の割合で発作が来るんです。今はきちんと治療して、薬を飲んでいるので発作は出てませんが・・・。ずっと隠して来たんですけど、たまたま渡辺会長と一緒の時に出てしまったんですよ・・・」
私も少し前まで知らなかったのだが、“てんかん”というのは、脳神経の信号伝達が一時的に乱れて意識コントロールが出来なくなる症状で、時間が経てば痙攣は治まり、何事も無かったかのように正常に戻るという不思議な病気のひとつなのだ。
どちらにしても、川端氏は試合に出る事が出来なくなり、もっぱら仲間達のスパーリングパートナーに従事する日々を送るようになっていた。

そんなある日、目標を持てないままスパーリングパートナーを続けている川端氏を見ていた柳光氏が、渡辺会長に嘆願をした。
「こんなんじゃ、龍也はヘビの生殺しです! 最後に引退試合を一試合だけやらせてやって下さい!」
柳光氏の思いが渡辺会長に通じ、川端氏は1戦だけの約束で試合を組んでもらえる事になった。
「本当に、柳光会長がいなかったら、僕のラストファイトはありませんでした・・・」
川端氏は涙ぐみながら、そう語った。
この試合こそが、私の記憶に残っている、ある6回戦ボクサーの試合だったのだ。
通算戦績、9戦5勝(4KO)3敗1分――。川端氏は多くの仲間達の喝采を全身で浴びながら、最後の花道を飾ることが出来た。
引退後、少しの間、時給の良いパチンコ屋で勤務した後、「湘南RYUJUボクシングファミリー」の立ち上げに参画した。
「これからも、この道一筋でいこうと思っています! 目標はワタナベジムの宮田トレーナーです」
担当トレーナーだった宮田正明氏は、以前このコーナーにも登場していただいている。http://www.tic-box.com/back/back-index.html
数多くのチャンピオンを育成してきた宮田トレーナーが、リングの上で肩車をした選手は3人だけなのだそうだが、
「そのうちの一人が僕なんです!」
と、川端氏は自慢げに語った。
「柳光会長は、『俺は担がれていないな・・・』って、腐ってました!」
エネルギッシュで誠実な「湘南RYUJUボクシングファミリー」チーフトレーナー・川端達也――。海辺に近いレストラン「MECCA」で見せてくれたその笑顔は、キラキラと輝いていた。
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