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「映像の仕事もボクシングに置き換えて考えるんです。スピード、パワー、テクニック、スタミナ・・・。12回の連続TVドラマは、12ラウンドに置き換えて構成を考えるんです。映像の世界でも、意表を突いたり、緩急の変化をつけたり、細かいフェイントの積み重ねです。組み立てはボクシングと同じ・・・」
映像を生業(なりわい)とするこの男の根っこには、“ボクシング”という太い柱が厳然とそびえ立っていた。
今回の“戦士”は、いつもとはちょっと違う――。先月登場の「“勝たせ屋”コーチ&アクション・ディレクター」梅津正彦さんに紹介していただいた、TVディレクターの大塚恭司さんだ。
「戦士と語る」は、選手、トレーナー、会長、マネージャー、ファン・・・、どんな人でも“ボクシング人”であれば歓迎している。
今回の“戦士”は、筋金入りのボクシングマニアと呼んでも過言ではない程のお方で、私としても興味深々で面会に臨んだ。
大塚恭司さんは、某TV局でドラマを中心としたディレクターとして活躍している。ボクシングに関する作品なども手掛けてきた人だ。
事前に見させてもらった雑誌に載っていた写真の印象では、ちょっと気難しい感じの人をイメージしていたが、物腰の柔らかい、温和な雰囲気の人だった。
私はちょっとホッとしながら、新宿ゴールデン街の小料理屋「小鳥」で、大塚さんと初対面の杯を交わした。

1958年生まれの50歳。福井県で生まれで、小学1年の頃から東京で育った。
「小さい頃から真面目な子供でしたね。中学、高校と不良のいない私立校に通っていました。不良がいないというより、相手にもされない大人しい学校だったんです」
当然、ボクシングに興味のあるような元気な人間は皆無だった。
「ボクシングマニアは僕ひとりだけでした・・・」
大塚さんがボクシングに興味を持ったのは、1970年、12歳の時に、小林弘vsアントニオ・アマヤ(パナマ)の世界戦15ラウンドを見て、小林弘がパンチを見きってよける姿に純粋な感動を覚えたこと。また、1971年、13歳の時に モハメド・アリvsジョー・フレイジャーの激闘に感動したことなどがきっかけだった。
「ベトナム戦争への徴兵を拒否するなど、アリの政治的な思想や活動にもかなり影響を受けましたね」
やがて大学へ進学した大塚さんは、映像の世界に足を踏み入れた。
「自主映画のスタッフなどをやってました。本当はボクサー志望だったんですけどね・・・、今の仕事は2番目に好きなものだったんです。母親が映画好きで、子供の頃から沢山の作品を見てきたことも影響していると思います」
「本当はボクサー志望だった」というだけあって、当時、大塚さんは東京・五反田のワタナベジムにも通っていた。まだワタナベジムが20坪ほどの小さなジムだった頃の話だ。
多くのチャンピオンを手がけ、現在はK−1の魔娑斗にパンチの技術をコーチしている名トレーナー・飯田裕氏を最初にワタナベジムに紹介したのは、実は大塚さんだった。
「映画監督の飯田譲治氏とは30年来の友人で、彼の弟がボクシングのトレーナーになりたいというからワタナベジムを紹介したんですよ」
飯田裕トレーナーは、飯田譲治監督の弟だったのだ。
また大学時代には、ジョー小泉氏が主宰する「海外ボクシング研究会」という、海外の試合のフィルムを持ち寄って皆で鑑賞する集まりにも顔を出すようになっていた。
「当時は海外の試合の映像は貴重でしたからね」と、大塚さんは懐かしそうに振り返り、「ボクシングマガジンは1冊も欠かさずに毎月購入していましたよ」と、自らのマニアぶりを強調した。
文学部に在籍しつつ、ボクシングと映像に明け暮れていた為か、大塚さんは大学卒業に6年間を要した。
「あ、僕と同じですね。僕も2回留年しましたので・・・」変な親近感が芽生え、だんだん話もはずんできた。
大学を卒業すると、そのままテレビ局へ就職した。そして3年間はスポーツ局に配属され、幸運にもボクシングの取材が初仕事となった。
しかも当時の世界王者、渡辺二郎氏と、現在は俳優としてお馴染みの“浪速のロッキー”こと赤井英和氏の白浜キャンプの取材と来れば、もう仕事どころではない。大塚さんは夢のような時間を過ごした。
「渡辺さんは、あの体で赤井さんよりもメシを食うんですよ。やっぱり豪快ですよ!」と、マニアスピリット全開といった感じで当時を振り返っていた。
映像の世界での月日が経ち、大塚さんはしばらく離れていた“ボクシングジム”に再び通い始めるようになった。この時はワタナベジムではなく、前回の“戦士”梅津正彦さんが当時副会長を務めていたJBスポーツジムだった。
40歳――。ディレクターからプロデューサーに昇格し、出世コースを歩んでいたのだが、依然として胸中にはボクサーへの憧憬があった。年齢的に選手になれるはずもないのに、大塚さんは仕事の合間を縫って週に5回、3年間JBスポーツジム通い続け、スパーリングにも取り組んだ。
「結構打たれましたね。仕事にしなくて良かったですよ・・・。でも、やって良かったです。これで『リングに上がる』という精神――もちろん本当に上がれるわけじゃないですけど、そういう精神を取り戻すことが出来た気がします」
大塚さんはプロデューサーの地位よりも、より現場に近いディレクターの職へ戻ることを決意した。
映像の世界は、役割構成もボクシングと似ている。
プロデューサーが会長、ディレクターはトレーナー、役者は選手、といった感じだろうか。
「ボクシングの会長さんでも、『より現場に近いトレーナーをやっている方が楽しい』という人が結構いますね」
何にやりがいを感じるかは人それぞれだが、大塚さんは“より現場に近い場所”で生きる道を選択したのだ。

「年齢的には最年長クラスなんです。体力を考えて戦わなくちゃいけないのに、若いボクサーみたいに頑張っちゃって、最近は体を壊してしまっていたんです」
あくまでボクシングに置き換えて考えるなら、確かに大塚さんの年齢であれば、もっと老獪に戦わなくてはならないはずだった。
しばらく休養を取り、鋭気を養った大塚さんは、また少しずつ歩み始めている。
ところで、大塚さん自身がこれまでに一番気に入った仕事というのは、戦争に関するあるTVドラマだという。これは、イラストレーターをしている大塚さんの奥様が仕事でニューヨークへ滞在していた時に、あの9.11同時多発テロ事件に遭遇したことがきっかけで手掛けたTVドラマだ。
世界大戦で人類が滅亡し、最後に生き残ったひとりが神と禅問答をするという内容で、平和について深く考えさせられる作品だという。
実は大塚さんの奥様も、1997年から2003年のニューヨーク滞在中には現地のボクシングジムに通っていて、リカルド・ロペスの大ファンだというから、夫婦そろっての“ボクシング人”である。
当時の大塚さんは、アメリカでおこなわれるビッグマッチに合わせて奥様に会いに行っていたのだそうだ。
「映像の仕事もボクシングに置き換えて考えるんです。スピード、パワー、テクニック、スタミナ・・・。12回の連続TVドラマは、12ラウンドに置き換えて構成を考えるんです。映像の世界でも、意表を突いたり、緩急の変化をつけたり、細かいフェイントの積み重ねです。組み立てはボクシングと同じ・・・」
まったく違う業界の人でも、ボクシングを通じてこうして語り合える――ボクシングはやっぱり素晴らしい。純粋にそう感じた夜だった。
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