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ここ数回は、紹介が変則的となってしまったが、今回はM.Tジムの高城正宏会長のご紹介で、神奈川県相模原市にある41(フォーティーワン)ジムの磯目洋一会長を訪ねることになった。
JR横浜線の淵野辺駅から徒歩1分という立地に構える41ジムは、62坪の広いスペースに公式リング、サンドバッグ、ウェイトトレーニングマシーンなどを備えた素敵なジムだ。
「人生最大の工作」と会長が自ら言う通り、様々なところが手作りで出来ている。元々バイク屋さんだったという店舗に、1か月半かけて自分でペンキを塗り、リングや更衣室、棚から何からほとんど全てを自らの手で作り上げてきた。
「業者にやらせると高いから!ハッハッハッ!」高笑いしながら説明する磯目会長は、その豪快な人柄の反面、器用で芸術的センスに満ち溢れているのだ。
所々で見られるイラストも、プロの漫画家が描いたような代物だが、全て磯目会長の作品だという。「子供の頃は漫画家になりたかったから!ハッハッハッ!」――ホントにこの人が描いたのだろうかと思ってしまう豪快な笑いだ。
昭和36年2月に新宿で生を受け、横浜で育った。父はNHKの元チーフプロデューサーで、大河ドラマの「太閤記」や「独眼竜正宗」などをプロデュースしていたという。
磯目会長は中学生になると、小学生の頃に見た森田健作の「おれは男だ!」を見て剣道に目覚めた。剣道部に所属し、中学3年で初段、高校では高校生としての最高レベルである3段の腕前に成長した。
「当時は“バネ指”になるくらい朝から晩まで練習してたよ!」そんなエピソードは、豪快な雰囲気の磯目会長ならではといったものだ。
しかし、一方で「映画評論家にもなりたかったし、ディスクジョッキーにもなりたかった。すし屋にも憧れたなあ!」と多才な面を持ち合わせている。一時は美術大学を目指したこともあった。
結局、大学では体育の教職課程を専攻して、小中高の教員免許を取得した。そして大学時代も剣道部に4年間所属して活躍した。

ボクシングとの出会いは、大学一年の時の文化祭でおこなわれた「体育会ボクシングトーナメント」に出場したことがきっかけだった。剣道部の先輩から、一年生全員に「女装するか、ボクシング大会に出場するか――」と選択を迫られ、やむなく一人だけボクシングを選んだ。
教則本を買って研究し、夜中のボクシング中継を見て勉強した。サウスポーの磯目会長は、右手を前にして構える剣道の構えと同じ要領でファイトすることが出来た。
そして結果はなんと優勝――。その後、文化祭の度にこの「ボクシングトーナメント」に出場しては優勝を重ねた。この“草ボクシング”での戦績は、4年連続優勝――14勝(8KO)という堂々たるものだった。

大学卒業後は教員を目指したが試験に失敗し、ひとまず電車の電線工事のアルバイト生活を送っていた。大卒の初任給が14万5000円の時代に、手取りで24万を稼ぎ出していた。おまけに住まいは飯場(はんば)で、一食300円で生活出来る。
「俺、このままでいいのかなって思ったんだよね」
ちょうどその頃、人気絶頂の赤井英和の試合をテレビで見て、ボクシングの虫が頭をもたげてきた。
「お前なら半年でプロになれるよ」という4回戦ボーイだった知人の言葉を聞くと、磯目会長は飯場の近くにあったカワイジムに飛び込んだ。
午後3時頃、誰もいないカワイジムで、磯目会長はタバコを一本吸って待っていた。2階から人が降りてきたので、「ボクシングやりたいんだけど・・・」と言うと、2階に案内されて河合会長に会わされた。
「タバコ吸っててボクシングやろうってのか?」河合会長はそう言いつつも入会を認めてくれ、翌日からジム通いが始まったのである。
シューズを履いてバンテージを巻き、シャドーを始めると「お前やったことあるのか?」と白髪のトレーナーに気に入られた。
そばで、後の世界王者・大橋秀行(現・東日本ボクシング協会会長)がサンドバッグを叩いていた。スパーリングに入ると、ロープ際でパートナーをボディ一発でリングに沈めてしまった。
「ボクいくつ?」「19歳」「凄いねキミ」という会話を交わした。「やっぱオーラがあったよ・・・」磯目会長は述懐していた。
早く試合がしたかった磯目会長は、東京の角海老宝石ジムに移ることにした。当時の角海老宝石ジムは、小林光二が世界を獲って勢いに乗っていた。
プロ選手とのスパーリングで実力を認められ、「よし、テスト受けろ」と言われた磯目会長は、プロテストの実践スパーリングで相手を2度倒し、見事合格を勝ち取った。
23歳〜26歳までの間、磯目会長はサッカークラブやスポーツクラブで働きながら、プロとしてリングで活躍した。
東日本新人王決勝での同門対決(後のスーパーライト級東洋チャンピオン伊藤直樹)を含めて様々な試合を戦ったが、A級ボクサートーナメントでは、後の名ボクサー吉野弘幸に初のダウンを喫して負けてしまった。その後、1試合を戦い、左の拳と目を傷めてしまい引退を決意した。
引退後は教員になるつもりでいたのだが、相模原ヨネクラジムの佐藤達雄トレーナー(現・レイスポーツ会長)に呼ばれて3年程トレーナーを務めた。「ま、ボクシングジムも社会体育だ・・・」教育者である磯目会長は、そんな風に考え始めるようになっていた。
磯目会長は結婚して、一男二女の父親となった。
そして1996年10月、ついに独立して41ジムを開設した。
ジム名の由来は、磯目洋一の“洋一(よういち)”を取って41なのだそうだ・・・(磯目会長らしいネーミングだ)。「プロで実績のない自分だけど、どこかに自分の名前を入れたかったから」
会長、マネージャー、トレーナー、掃除係、全てを一人でこなすスーパーマンは、ミットの受け過ぎでさすがに肘や肩に来ているが、それでも豪快に叫び、笑い、そして繊細にジムの壁を塗って、棚を作ってゆく・・・。「ウチは寺小屋だよ――」
ジムにはちびっ子達も多くやってくる。豪快な笑いの間にふと垣間見ることの出来る優しい笑顔が、きっと彼らの心を捉えているのだろう。

“Going my way”――そんな言葉がぴったりの“戦士”はその夜、時間を忘れて楽しそうに杯を傾け続けていた。
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