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「まだやりますよ。上に行きたいから。『最年長記録を伸ばす』とか、『スポットライトが忘れられない』とか、そういうんじゃないんです。『やれる』と思うからやるんです」
ボクシング、仕事、家庭、3足の草鞋(わらじ)を履き、全てに成功を遂げてきた46歳の心の炎は、まだまだ燃え尽きていない様子だった――

ウィン三迫ジムの三迫正廣会長から紹介していただいた今月の“戦士”は、世界挑戦経験を持つ元・日本スーパーバンタム級王者で、現・横田ジム会長の横田広明氏だ。
横田会長は、アートネイチャー勤務の管理職ボクサーとしても話題となった異色のボクサー。晩年は、自ら37歳定年制の改定を実現し、現在は国内最年長プロボクサーとして活躍している。
10月初旬に横田ジムを訪ねた際、偶然に新入会員が入門してきたところだった。「新田さん、少しだけ待っててもらえますか? 最初だけは、きちんと見てやりたいんです」申し訳なさそうにそう言う横田会長に対し、「僕もジムをやっていて分かりますから大丈夫ですよ」と、笑顔で答えた。
横田会長は、新入会員の若者に丁寧にバンテージを巻いてやり、ジャブとワンツーを手取り足取り教えていた。
“優しさ”と“厳しさ”を織り交ぜながらテキパキと指導してゆく。初めは“君(くん)”付けで名前を呼んでいたのが、やがて呼び捨てとなる。その分、心理的な距離は縮まり、その若者にも笑顔が多く見られるようになってくる。サンドバッグ打ちやスピードボール打ちも同様だ。
一方、その合間でスパーリングをしている選手に檄(げき)を飛ばす姿は、紛れもなく厳しいプロの指導者だった。

1961年、千葉県銚子市で、男5人兄弟の末っ子として誕生した。中学校では野球部に入部したが、あまり長続きせずにやめてしまった。「団体競技に嫌気が差しましてね・・・」
近くの空手道場へ通うようになった横田少年は、2年間で茶帯まで取得する腕前に上達した。この頃からボクサーとして大成する片鱗を見せていたようだ。「よく『パンチは速い』って言われましたね」と、横田会長は微笑んだ。
やがて独立心の強かった横田少年は、従兄弟の紹介で上京して看護士となる。「当時は男性の看護士ってのはメジャーじゃなかったですからね」とおっしゃる通り、確かにあまり聞いたことがなかった――。まあ、とにかく横田少年は看護士として働きながら、ボクシングの世界へと近づいていったのだ。
「小学4、5年生の頃でしたかね、テレビで見た“永遠の世界チャンピオン”大場政夫に、ずっと憧れていたんでね・・・」
横田少年は、寮住まいをしながら夜勤や準夜勤とハードな勤務状況の中、ボクシングへの憧れを募らせてった。そして、京王線明大前駅から見えた大川ジムへ入門したのである。
1979年3月、17歳でプロデビューし、3戦3勝と調子の良いスタートを切った横田選手だったが、4戦目で判定負けを喫してしまい、一度ボクシングから離れてしまう。
しかしその8年後の1987年、なんとアートネイチャーの管理職という肩書きを背負ってリングに戻ってきたのだ。
その後は、1990年に東拳ジムの西條学を倒して日本Sバンタム級王座を獲得。3度の防衛を果たした後、名王者ウィルフレド・バスケス(プエルトリコ)をあと一歩まで追い込みながら12ラウンド判定負け。実力を持ちながらも2度目の世界戦のチャンスに恵まれず、1995年、世界王座を手にしないまま引退した。
翌年、横田スポーツジムを開設し、後進の指導をスタートするも、プレイングマネージャーとして再度カムバックを果たす。
1998年、37歳定年制により、いよいよ引退を余儀なくされるが、日本ボクシングコミッションに何度も嘆願書を持ち込み、6年後の2004年、ついにルール改定を実現して国内最年長プロボクサーとして現役復帰を果たした。

これらの話は、多くのメディアで優れたライター達が報じているので、敢えて掘り下げて記述しようとは思わない。私が関心を抱いたのは、ボクシング、仕事、家庭、3足の草鞋(わらじ)を見事に履きこなしたパワーだった。
私事で恐縮だが、現役時代に家庭を持ち、経済的に決して安定した生活をさせてやれずにきた私にとって、ボクサーでありながら企業に勤務して家族の為に安定収入を確保してきた横田氏のパワーには驚かされる。
現役引退後、私も企業に3年間勤務した経験があるので、その厳しさも知っているつもりである。だからこそ余計に凄いと感じるのだ。
こんなエピソードがある。アートネイチャー勤務時代、横田氏はある企業の社長さんの接客をした。そしてその翌日が日本タイトルへの挑戦の日だった。
今、自分に接客をしてくれている人間がプロボクサーだなどは露知らぬその社長さんは、翌日の夜にテレビのボクシング中継を見て、「あんた双子の兄弟がいるのかい?」と、後で横田氏に尋ねたという。
スーパーマンのクラーク・ケントではないが、ボクサーとサラリーマンの二つの顔を見事に演じていた証拠である。
ボクシングを理由に、会議を欠席するようなことも絶対にしなかった。一度だけ、翌日がタイトルマッチだった為に、本部での会議を休んだことがあったのだが、自分の職場に情報を持ち帰って伝えることが出来ず、現場の部下達に可愛そうな思いをさせてしまったことがあった。それ以来、どんなことがあっても会議に穴を開けることはしなくなった。
そんな横田氏の姿勢を、アートネイチャーの会長が認めてくれ、世界タイトルマッチのスポンサーになってくれたのだった。
「とにかく練習時間の確保が大変でしたね。今よりもサラリーマン時代の方が大変でした。でも勉強になりましたよ」サラッと言って微笑む横田会長が、とても大きく見えた。
そして家族である――。「趣味は子供と遊ぶこと」と言い切る程のマイホームパパ。「子供がいなかったら力が沸いてきませんね」と、またサラッと言って微笑む。
家族を愛し、守り、男として仕事、ボクシングと成功を遂げてきた横田広明。以前から親しくさせていただいてはきたが、また改めてその魅力を感じた夜だった。
今後の夢について尋ねると、「来年あたり日本ランカーが生まれてくると思うから、そろそろ日本チャンピオンを作りたいですね。そして再来年あたりから、世界を狙える人材が生まれてきたらいろいろ動き出しますよ」ニヤッと微笑んで自信を示した横田会長――。これまでに蓄積してきた経験とビジネスのノウハウ、人脈などから生まれてくる自信なのだろう。
「それと一方でね、一般練習生ひとりひとりの目標を達成する為のジム作りもしてゆきたいと思ってるんです。営業の仕事と同じで“ひと声”が大事なんです。“言葉のキャッチボール”が大事。23年やってきて、それは間違いないです」
横田会長は最後にこの日の話のまとめのようにこう言った。
「やっぱり夢がないと――」
ボクシング、仕事、家庭、3足の草鞋(わらじ)を履き、全てに成功を遂げてきた46歳の心の炎は、まだまだ燃え尽きていない様子だった――
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