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「“世界チャンピオンを作ること”――その為にジムを始めたんだ。自分の果たせなかった夢を、今度は指導者として果たしたい。そして何よりも“ボクシングに恩返しをする”それが今の自分の夢かな・・・」
甲子園球児からプロボクサーへ転身し、世界挑戦まで上り詰めたスポーツ万能の男は、エネルギッシュな語り口調で夢を語った。
「現役時代から、本当によく面倒みてもらってるんですよ」そう言って、ランドジムの納谷トレーナーからご紹介いただいた今月の“戦士”は、元WBA世界S・ウェルター級6位で、世界タイトル挑戦の経験も持つ三迫正廣(まさひろ)氏(ウィン三迫ジム会長)だ。
「おうっ! いいよ、いいよ」アポイントの電話をかけると、三迫会長はすぐに快諾して下さった。三迫会長とは、東日本ボクシング協会の理事会でも親しくさせていただいていて、今回も気軽に協力していただけたのだ。
私は“写心家”の山口裕朗氏と共に、ウィン三迫ジムに三迫正廣会長を訪ねた。この日はあいにく台風が上陸した日でジムの練習生も少なく、我々は心置きなく三迫会長を独占することが出来た。
1952年、愛媛県新居浜で一人っ子として産声をあげた三迫会長は現在55歳。往年の名ボクサー・三迫仁志氏の甥に当るというサラブレッドの血統を併せ持つ三迫会長だが、高校時代は甲子園出場を2度果たすという本格的な野球選手でもあった。
個性の強さはボクサーの必須条件だが、そのバランス感覚はやはり団体競技の世界で生き抜いてきた賜物なのだと思う。
小学校時代に野球を始めた三迫少年は、遠投でなんと52.5メートルという数字を出すという、小学校で一番の強肩(きょうけん)の持ち主であった。
「当時の小学校野球は、全部ソフトボールだったからね」というから、これは恐ろしい数字である。その強肩を活かし、ポジションは“ピッチャー”か“サード”として起用されていた。打席はもちろん4番だった。
中学へ進学すると、更に強肩が必要とされる“ショート”で起用されるようになった。新居浜市での大会では12〜13校の中で3度優勝し、愛媛県大会でも最高位が4位と、着々と目立つ存在となっていった。
やがて松山新田高校という高校へ進学し、高校球児としてボールを追いかける生活が始まった。しかし、春の選抜予選で松山新田高は2回戦で敗退してしまう。
三迫少年は、以前お世話になったある方から声がかかり、1年生の夏休みに高校野球の名門・広島県広陵高校へと転校することになったのだ。
この広陵高校ではなんと、2年生の夏、3年生の春と2度の甲子園出場を果たした。特に3年生の春には、全国でベスト4の成績を収めるという、押しも押されぬ甲子園球児として大活躍を果たしたのだ。
しかし――、「プロ野球のドラフトには引っかからなかったんだよね。大学からのスカウトは来たけれど、その時点でひとつの夢は終わったんだ」
三迫少年は、大学からのスカウトを蹴り、新たな夢に向かって歩み始めることになった。切り替えの速さも、三迫会長の魅力のひとつだ。
「ボクシングってのは、とにかく倒しゃ勝つんだろ」――それが団体競技ではなく、「相手を倒せば勝つ」という個人競技だったこと、そして当時は、ボクシングが野球や相撲と並ぶ3大スポーツのひとつだったことなどから、三迫少年は拳闘の世界に飛び込むことを決意した。
「叔父さんである三迫仁志会長の影響もあったんですか?」という質問に対し、三迫会長は決して否定をしなかった。
「オヤジ(正廣会長は仁志会長のことをそう呼ぶ)の試合は2回だけ見たことがあるけど、そりゃ凄い人気だったね。ひとつは難波球場でやった試合で、広い球場が超満員だった。もうひとつは、新居浜での凱旋興行で、これまた超満員。そりゃホントに凄かった」
高校時代にヘルニアの治療で上京した際、後楽園ホールにも足を運んだことがあり、当時のボクシング熱を肌で感じていた。
「そう思うと今の選手達は可哀そうだよ。昔は4回戦、6回戦の試合だけでも後楽園ホールが満員になっていたからね」三迫会長は、ボクシングの人気高揚のことにとても関心があり、その話題になると一段と熱い語り口調になる。
そんな訳で、三迫少年は高校卒業と同時に上京して「オヤジ」の本家・三迫ジムへ入門した。ところが、母親は大反対だった。「ボクシングだけはやめて欲しい」と、義弟の三迫仁志会長に「しごいて諦めさせて」と裏で手を回していた程だった。
そのせいだったかどうかは定かでないが、三迫少年は入門3日目に、当時日本王者だった輪島功一とスパーリングをさせられたのだ。
「一発かましてやる」と自信満々だった三迫少年だったが、なんと一発のパンチも当てることが出来ずに、鼻血まみれになってしまった。
「ボクシングってのは、とにかく倒しゃ勝つんだろ」と、タカをくくっていたが、この時ばかりは、「さすがにプロは違うんだな」と感じた。
それでも自信は揺ぎ無かった。高校時代、先輩に殴られるのは日常茶飯事だった為、殴られることには慣れていた。拳が飛んでくる瞬間に目をつぶることも無かった。高校野球で鍛えた強靭な肉体も、ボクシングには十分活かされた。
こうした下地が出来ていたおかげで、入門後、僅か1ヶ月という通常ではあまり考えられないスピードでプロテストに合格し、その1ヶ月後にはデビュー戦を果たした。
母親の思惑とは裏腹に、三迫少年は着々とプロボクサーとしての階段を上って行った。
「オヤジのマッチメーク力のお陰もあったと思うんだ。なんてったって4回戦ボーイが、僅か1年で東洋ランカーにまで上り詰めたんだからね」三迫仁志会長には、勝負どころを見極める眼力があるようなのだ。
いずれにしても三迫正廣選手に力があっての話である。やがて、デビュー後4年で世界タイトルに挑戦することが決まった。
この試合の相手は、輪島功一と死闘を繰り広げた、あの柳斉斗という名王者だった。三迫会長は、残念ながら6ラウンドKO負けを喫してしまい、これでグローブを置いた。

その後、本家・三迫ジムで、友利正(世界Lフライ級王者)、三原正(世界Sウェルター級王者)らを輩出するトレーナーとして活躍。「ボクササイズ」の発案者として、その普及活動に尽力し、現在はウィン三迫ジム会長として選手育成に励んでいる。
「ジムを立ち上げてからは、やっぱり経営に重点を置かざるを得なかったけど、そろそろ選手育成に比重をシフトしていこうと思ってるんだ」三迫会長は、これからの夢について語り始めた。
「“世界チャンピオンを作ること”――その為にジムを始めたんだ。自分の果たせなかった夢を、今度は指導者として果たしたい。そして何よりも“ボクシングに恩返しをする”それが今の自分の夢かな・・・」
三迫会長は私によく声をかけて下さる。お茶を飲みながら、ボクシングの人気高揚についてお話を聞かせてくれる。
“世界チャンピオンを作ること”――そして、ボクシングが再びかつての人気を取り戻すこと。それを実現することが、おそらく三迫会長にとって“ボクシングに恩返しをする”ということなのではないか・・・。私はそんなふうに思った。
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