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「ボクシングは頭や技術ではない。情熱さえあれば選手は育つものだ」この言葉がボクシング指導における中核となっていった。
「リングに上がったら先生の為に勝ちます――。僕は一番尊敬する先生の為に戦いました。ボクシングは精神力ですよね・・・」
“拳士”というリングネームでキックボクシングのリングで戦っている戸田憲士さん(プロボクシング元日本ウェルター級6位)から紹介していただいた今月の“戦士”は、ワタナベジムトレーナーの洪東植(ホン・ドンシク)さんだ。
新田ジムの選手を連れてワタナベジムへ出稽古へ出かけた際は、いつもニコニコして話しかけてくれるホントレーナー。いつかゆっくりお話がしたいと思っていた。
苗字が私の先生だった韓国の元2階級世界王者・洪秀煥(ホン・スーハン)と同じということもあり、更に親近感を抱いていた。
「洪(ホン)という苗字は、先祖をたどると一人に行き着くんですよ。だから多分“あの”ホンさんとも先祖が同じだと思います。あの人は韓国の英雄ですから、誇りですね」
私はいつものように“写心家”の山口裕朗氏と共に、東京五反田のワタナベジムを訪ねた。

1961年、釜山(プサン)生まれ。ご両親と、姉2人、兄4人という7人兄弟の末っ子として産声を上げた。幼少期は体が小さく、読書好きの無口で静かな弱々しい子供だった。
高校1年になっても体重47kg位で、いつも前から1番目か2番目だったホン少年が、1977年11月26日、南アフリカでおこなわれたWBA世界スーパー・バンタム級タイトルマッチ、洪秀煥(韓国)対エクトル・カラスキリャ(パナマ)を見てボクシングに目覚めたのだった。
敵地で、しかも4度のダウンをはね返しての逆転KO――という劇的なこの一戦は、早朝6時にテレビ放映され、ホン少年の心に大きく影響を与えた。
実際にボクシングジムに通い始めたのは、中学3年の終わり頃だった。やがてアマチュアの試合に出場するようになったが、デビュー以来4連敗という有様だった。しかし、ジムの先生は、「お前には才能がある」と言って、決して見捨てず、辛抱強く面倒を見てくれた。
その後、ホン少年はメキメキと実力をつけていった。釜山最高選手権大会で優勝。そして翌年、後の名世界王者・張正九(チャン・ジョング)から2度のダウンを奪って勝利。高校3年の時までに45連勝を上げ、ホンさんは大学からスカウトされて、契約金や奨学金を受け取って進学したのだった。
その後モスクワ五輪の国家代表に選ばれたが、韓国はモスクワ五輪をボイコットした為、参加することは出来なかった。
大学卒業後、1984年にインドネシアでおこなわれたロスアンゼルス五輪代表選考会で敗退してしまい、ホンさんは現役生活にピリオドを打った。
「プロでやりたい気持ちもあったんですけど、いろいろ考えて公務員になる道を選択しました。
ところが――、「アレは合わなかったですよ!」教育委員会で働いていたホンさんは、ストレスの溜まる職場で、精神的にかなり参ってしまっていた。3年目、4年目には、仕事の合い間にまた近くのボクシングジムに通い始め、トレーナーとして出入りするようになっていった。その後、教育委員会は4年で退職し、高校の体育教師へ転身したのだった。
ホンさんは、自分が育ったジムの会長を“先生”と呼んで最も尊敬している。精神的にも一番影響を与えられた人物だと言う。
教育委員会時代からトレーナーとして選手指導を始めたものの、試合に出す選手は全て敗退してしまっていた。
悩んだ挙句、ホンさんはその“先生”を訪ねた。酒を酌み交わしながら、“先生”はホンさんにこう言った。「ボクシングは頭や技術ではない。情熱さえあれば選手は育つものだ」この言葉が、ホンさんのボクシング指導における中核となっていった。
ホンさんが現役時代、毎日早朝のロードワークの時間になると先生から電話がかかってきた。1週間もすると電話が無くても自分で起きられるようになってくる。実際に外を走っていると、いつの間にか車の中から先生はそれを見ていてくれた。
「リングに上がったら先生の為に勝ちます――」いつしかホンさんは、そう考えるようになっていった。
翌年、ホンさんの教え子達は団体優勝を果たした。「あの言葉がボクの人生の中で一番の教えです」ホンさんはニコッと笑った。その先生ももう亡くなってしまっている。
既に結婚し、15年間高校の体育教師として勤務していたホンさんは、大学教授を目指そうと考え、日本の大学に単身留学した。
しかし、金銭的に厳しくなってきた為、仕事を探し始めた。そんな中、ワタナベジムのトレーナーの募集に応募し、2002年11月4日、ジムで面接をおこなったのだ。「この日は絶対わすれられませんね」思い出深くそう語った。
ワタナベジムでのトレーナーの仕事を始めるようになって3ヶ月ほど経ったある日、会長から、「よかったらウチに就職しろ」と言われた。ホンさんは韓国でピアノの先生として働いていた奥さんを半年かけて説得し、2003年7月から家族を呼んで日本で一緒に生活するようになった。
中学2年生、小学4年生の二人の男の子は、普通の日本人と同じ公立学校に通うようになり、3年半経った今では、ホンさんよりも日本語はペラペラとなってしまった。
大学院へ進学しようと考えていたホンさんだったが、思いもかけずまたボクシングの世界に戻って来た。
「今はボクシングの人気があまり無いですからねえ・・・。他にも何か商売しようかな、って考えているんですよ」異国で、家族4人の生活を支えてゆくのは、なかなか容易なことではない。それでもホンさんはこう言う。
「ボクはね、ボクシングを愛してます。世界チャンピオン作りたいね・・・。ファイタータイプの・・・」
“先生”の教えを受け継いで選手育成に励んでいるホンさんは、私の目からみても輝いていた。
洪東植――この人もまた国境を超えた“ボクシング人”だな・・・。そんな風に思った。

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