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「成功、失敗はやってみなければ分からない。最終目標は“世界征服”です。世界中どこへ行っても『やあ』と、声をかけられる人間になりたい―」
皆さん、新年明けましておめでとうございます。2000年春にスタートした「戦士と語る」も、今年の春で丸7年となります。これまで80名近くの“戦士”達と語らせてもらってきました。それらは、そのまま私の財産となっています。まだまだやめられません!今年もよろしくお願いします!!
先月の“戦士”鮎川圭祐さんから紹介されたのは、同じオークラジム(現・ナカハマジム)の後輩、戸田憲士さんだ。
戸田さんは、A級トーナメント優勝などボクシングで28戦を戦い、日本ウェルター級6位まで上り詰めた後、“拳士”というリングネームでキックボクシングの世界へ転向している格闘家である。
現在は、現役のキックボクサーとしてリングで戦う傍ら、ワウディー洗足池というフィットネスクラブ内で、「ビートボックス」という一般向けのボクシングスクールを主宰している。私と“写心家”の山口裕朗氏は、年明け早々、戸田さんの職場へお邪魔した。
フィットネスクラブ内にいわゆる“ボクシングジム”のようなスペースがあると言えばよいだろうか・・・、リングとフロア、サンドバッグ、パンチングボールと、ひと通りの設備が整っている。「こんにちは〜」と、その“ジム”へ入ってゆくと、日焼けした筋骨隆々の戸田さんが、笑顔で出迎えてくれた。
スクール生のひとりの男性が、「いやあ、新田さんのコラム、いろいろ読んでますよ〜」と、話しかけてきてくれた。「この人は、前から新田さんのことをべた褒めなんですよ」戸田さんは爽やかに笑った。
もうじき60歳というこの男性は、サンドバッグ打ちの後に戸田さんの持つミットをハードに打ちまくり、更に二人の若者を相手にマスボクシングをこなしていた。
「このジムは、みんな自由なんですよ。オヤジでも好きにマスボクシングが出来る。他じゃ、そんな雰囲気ないじゃないですか・・・」戸田さんは、スクール生全員のミットを持ち、友達同士のように楽しそうに指導をしていた。
「みんな戸田さんのことが大好きなんですよ。私なんか、福岡まで試合の応援に行っちゃいましたから!」シャドーをしている女性が楽しそうに話してくれた。とてもアットホームな雰囲気で、みんなが楽しく汗を流しているのが印象的だった。
午後7時から8時15分までのスクールタイムが終わると、戸田さんが話しかけてきた。「新田さん、この後はみんなも一緒のお店でいいですか?もちろん席は別々で、お話が終わったら合流したいんですけど」汗を流した後は、よくみんなでご飯を食べに出かけるのだそうだ。
「もちろん。こちらこそ大歓迎です」そう答えた私は、山口写心家と共に、洗足池の洒落た洋風の居酒屋へ同行した。
1975年、石川県金沢市で生まれ。父親は普通の会社員で、母、姉、弟の5人家族。子供時代はとにかくヤンチャ坊主だった。「悪いことはトコトンやりました。警察にも何度もお世話になりましたよ」という戸田さんの中学時代の目標は、「自分で暴力団を作ってそのトップになること」だった。周りの中学校の番長連中に呼びかけたが、進学や就職など、それぞれの進路が決まっていてダメだったらしい・・・というか、この人変わっている・・・。

中学時代、「悪いこと」の傍らアイスホッケー部にも所属していた戸田さんは、埼玉栄高校に推薦での入学が決まり、単身上京をした。
高校入学と同時に“例の目標”は変わり、今度は「自分で会社を作ってそのトップになる」ということが大きな目標となった。いずれにしても、何かしらのトップになるということは一貫して変わらなかった。
国体で3位になるなど、アイスホッケーでも活躍していた戸田さんは、高校3年になった時、先生から「1学期頑張って成績上げれば、日体大に推薦してやるぞ」と言われた。“日体大”というメジャーな大学名に反応して、「よっしゃあ!」と猛勉強を開始した。
そして当時、学年でほぼビリだった成績が、なんと学年トップへと躍り出てしまったのだ。恐るべし、戸田憲士―。
こうして推薦で日体大へと進学した戸田さんは、アイスホッケー部で頑張り始めたのだが、体育会特有の上下関係に嫌気がさし、早々に退部してしまった。
「何をやってトップななろうか・・・」と、20歳の時にたどり着いたのが、家の近くにあったボクシングジムだった。
自信満々だった戸田さんは、見ていて「大したことない」と思ったそのジムのプロ選手とのスパーリングを申し出たのだが、2度もダウンをさせられ、歯を折ってしまうという洗礼を受けた。「こいつはやめられない」と、戸田さんはボクシングにのめり込んでいってしまった。
ジムに入門して早々、サンドバッグを打っていた時に左肩が脱臼してしまい、肩にボルトを入れる大手術を受けるなど、出足からつまずきつつも、1年後にプロテストに合格し、ボクサー人生がスタートした。
1997年のデビュー以来、約7年間のボクサー生活の中で、A級トーナメントで優勝し、ウェルター級日本ランカーとして5連勝を遂げるなどの活躍をした。
ところが、戸田さんは今から2年前に日本ランキングからはずされてしまった。「5連勝しているのに何でだよ!」どうやら期待のホープらが上位ランキングに割り込んでいった為に、戸田さんは押し出された形になってしまったようだった。
当時、K−1のスーパースター・魔裟斗のスパーリングパートナーをしていた関係で、キックボクシングのシルバーウルフジムに通うようになっていた戸田さんは、少しずつキックボクシングへと気持ちが移っていってしまった。
2004年5月の試合を最後に、戸田さんはキックボクシングの道へと転向した。翌2005年3月、“拳士”というリングネームで、キックボクサーとしてのデビューを果たしたのだ。
「魔裟斗君はパンチだけのスパーも強いですよ。ボクサーの日本ランカーレベルは十分あるんじゃないですかね」と、身近で接しているスーパースターの話も聞かせてもらった。
魔裟斗と同じシルバーウルフジムの所属選手として、“拳士”はこれまでに7戦を戦った。昨年12月、「これに勝てばK−1に参戦出来るよ!」と、魔裟斗からは言われていたのだが、“拳士”はその試合を2−1の判定で落としてしまった。
「あれでK−1参戦は遠のいてしまいましたよ。調子は良かったんですが、油断したんですね・・・」
今回は確かに残念だったが、挫折をしてもその度にそれを明るく乗り越えてゆく戸田さんには、人間としての強さを感じる。とにかく戸田憲士という男はエネルギッシュなのだ。
日焼けした筋骨隆々の戸田憲士は、今日も“ビートボックス”で一般の人々へボクシングの楽しさを教えている。
「是非、もう一軒」と、後から合流したスクール生の人達からお誘いを受けた私は、調子に乗って仲間の一人のような顔で2次会に参加してしまった。
次々とこれからの夢を語る戸田さんは、女性軍からの厳しい現実的な意見に、少々劣勢となってしまう場面があった。「成功、失敗はやってみなければ分からない」という信念も、女性軍の前にはタジタジだった。
しかし、「戸田さんに成功して欲しいと思ってるから、敢えて厳しいことをいうのよ」という言葉に、最後は笑顔でペリエを飲み干していた。
「僕らはいつもこんな感じなんですよ」と、ちょっと恥ずかしそうに笑う戸田さんと握手をして分かれた。
まったく会ったことも話したこともなかった人達と、こうして過ごすことが出来るのも「戦士と語る」の醍醐味なのだ。
やっぱり、こいつぁやめられない・・・。当分、この旅は続けさせていただくことになりそうだ。
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