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「営業はボクシングと同じ実力世界。結果が全て。もの凄く厳しい世界だけど、ボクシングをやっていたことを糧にして戦っている。ボクシングをやっていたという誇りは、一生消えないと思う・・・」
元・日本ライト級王者、伊藤俊介(金子)から紹介された今月の“戦士”は、元・日本スーパーバンタム級2位の鮎川圭祐(オークラ→ナカハマ)だ。
現在は現役を引退し、不動産関連の営業の仕事に従事している。この対談のアポイントも、急な仕事が飛び込んできて何度かドタキャンとなってしまった程の“モーレツ営業マン”である。
旧・オークラジムでデビュー。ラストファイト時にはジムオーナーの変更に伴って、ナカハマジムへとジム名と場所が変わっている。
通算戦績は25戦17勝(12KO)7敗1分―
「KO率が高いですね」
「倒すか倒されるかで、負けもほとんどKOだったんですよ」
小田急線狛江駅近くのファミリーレストランで、現役時代よりも5kgほど太って顔がまるくなったモーレツ営業マンはニコッと笑った。
1977年5月に山梨県の産院で産声をあげ、東京都狛江市で育った。現在29歳。会計士の父、母、そして調布市市議会議員である5つ年上の兄がいる。
鮎川氏は小学生の頃から兄の影響で格闘技、特にボクシングが大好きだった。小学2年の時から兄と一緒に空手道場に通い、狛江市の大会などで優勝したこともあった。空手は高校1年まで続けたが、鮎川氏はこう言う。
「空手はボクシングで強くなる為にやっていました」
あくまでも照準はボクシングだったようだ。
ボクシングのテレビ中継は欠かさず見ていたと言う。
「最初はタイソンが好きでした。大橋秀行が世界奪取した試合は衝撃的でした。その後、鬼塚、辰吉と異常な程のめり込んでました」と、入れ込みぶりを吐露した。
「新田さんの試合も思い切り見てましたよ!」社交辞令だとは思うが、そう言ってくれれば嬉しいものである。
高校2年になると、家の近くにあった旧・オークラジムへ入門した。そして翌年、高校3年の時にプロデビューを果たす。
鮎川は、新人王トーナメント、B級トーナメント、A級トーナメントとひと通りのトーナメントに参加している。B級トーナメントでは優勝。A級トーナメントには2度出場して準優勝を獲っている。
その後、98年バンコクアジア大会の銅メダリストで日本スーパーバンタム級2位・富本慶久(国分寺サイトー)を初回左フック一発で倒して金星をあげ、まだノーランカーだった鮎川圭祐はランキング入りを果たした。
しかし、「倒すか倒されるか」の試合を重ねてきた鮎川圭祐のボクシングキャリアの中で、忘れられようもない大きな出来事が起こってしまう。
2004年3月15日、後楽園ホールでおこなわれたスーパーバンタム級10回戦―。対戦相手は能登斉尚選手(フラッシュ赤羽)。大激戦の中、鮎川は2度のダウンを喫し、試合続行が危ぶまれる程のダメージを負ってしまう。ところが、それを挽回して終盤には能登選手をかなり追い込み、ポイントを挽回して判定勝ちをおさめた。
判定負けを喫した能登選手は、試合後の診察では異常が見られなかったものの、後日容態が急変し、硬膜下血腫の為に帰らぬ人となってしまった。鮎川がランキング入りを果たして最初の試合での出来事だった。
苦しみぬいた鮎川だったが、7ヶ月後に再びリングに立つ。その1ヶ月半前、能登選手の故郷である北海道に両親を訪ねていた。
「君のことが一番心配だったよ―」北海道で猟師をしている能登選手の父はそう言ってくれた。苦しんでいた鮎川は、「でっかい北海道」で、能登選手の両親の「でっかい思い」に心が救われた。
ところが―、鮎川はその試合でKO負けを喫してしまう。ちょうどその頃、ジムのオーナー、名称、場所が変わり、それまでコンビを組んでいたトレーナーがいなくなってしまったことなど、環境が変わったことも敗因のひとつだった。しかし鮎川は、「自分自身、壁を乗り越えられなかったのかも知れない」と、唇を噛み締める。
「リングでは、相手を殺すつもりで戦わなくてはならない。でも、あの事故以来、もうそういう心理状態にはなれなくなってしまったんです・・・」
その後、鮎川はトレーニングだけは続けるものの、試合からは遠ざかり、1年後にグローブを置いた。

2005年秋から第2の人生を歩み始めた鮎川氏は、不動産関連の営業の仕事に就いた。朝10時前に出勤し、電話でお客さんとアポイントを取って商談をまとめていく仕事だ。
「今はまだ、自分ひとりで商談をまとめることは出来ないので、上司と一緒に行動しなくてはなりませんが、早くひとりでこなせるようになりたいですね」と、仕事の話をする時はボクサーのような眼光を放つ。今、彼のリングはここなんだ―そう感じた。
今回、急な仕事が飛び込んできて何度かドタキャンとなってしまったこの「戦士と語る」だったが、その商談が上手くまとまりそうになっているとのことだ。商談は月に1件成立するかどうかという厳しい業界だ。もし上手くいってくれたらこちらとしても嬉しい。
昨年結婚し、先月には長男・理希(りき)君が誕生した。
「今後は今の仕事でもっと実力をつけて、家族に不自由させない、いい暮らしをさせてあげたいです」鮎川氏は過去を背負いながら、しっかりと第2の人生を歩み始めていた。
「普段は忙しくてほとんど顔も見られないから」と、日曜、祝日は理希君にべったり。今回はそんな貴重な時間を割いて我々との対談に付き合ってくれたのだ。
28歳で飛び込んだ全く新しい世界で、鮎川氏は家族を支えてゆく為に戦っている。何から何まで初めてのことばかりで、周りは年が下でも全員先輩だ。
私も現役引退後、32歳で始めてサラリーマンの世界へ飛び込んだ人間だから、鮎川氏の気持ちは十分理解出来る。
くじけそうになったことも数知れない。時には悔し涙を流したこともあると言う。「お前、本当にボクサーだったのかよ」と、罵声を浴びせられたこともあった。
「今はボクシングで言えば、センスのない4回戦ボーイといったところですかね」と、鮎川氏は恥ずかしそうに笑った。
「営業はボクシングと同じ実力世界。結果が全て。もの凄く厳しい世界だけど、ボクシングをやっていたことを糧にして戦っている。ボクシングをやっていたという誇りは、一生消えないと思う・・・。
鮎川圭祐、そして能登斉尚、ふたりがボクシングをやっていたという誇りは決して消えることはないだろう
逞しくこのリングで戦う鮎川氏を見て、私はそう感じた―
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