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もう一つのリング
2007年6月18日、後楽園ホール。
少し蒸し暑さを感じるホールを通り抜け、私は、まっすぐに控え室へ向かった。
いくつかの部屋の前に張り出されている選手名を見ながらジムの選手の名前を探す。青コーナーに近い控え室にその名前はあった。扉を開けると会長、マネージャー、トレーナーに囲まれて、彼はパイプ椅子に腰を下ろしていた。

私に気づくと、「ありがとうございます」と笑顔で応えてくれ、調整がうまくいっているのか、減量に耐えたその体は引き締まっていた。
すでにバンテージを巻き終え、前座の試合の行方を控え室のモニターで見守っている。それらの試合が1ラウンドずつ消化していくごとに彼の顔から笑顔は消え、次第に緊張感に包まれる。
目を瞑り、じっとしたまま、まるで、瞑想しているかのように動かない。
皆が静かに彼を見守る。

その時、私は、以前、会長が話してくれたことを思い出していた。
それは会長の現役時代の話しだった。

「試合当日に後楽園ホールに向かう電車に乗り、最寄り駅の水道橋駅に近づくにつれて、どこからやってくるのか、とてつもない恐怖感に襲われた。このまま列車事故でも起こってしまえば、リングに上がらずに済むのに。そんなことを本気で考えたことがある。そのぐらいの気持ちになるんだよ。どんなにキャリアを積んでも、あの恐怖はいつも付きまとう。控え室でバンテージを巻き、モニターに映る前座の選手の試合を見ながら、高まる気持ちと戦うんだ。リングに上がる前から勝負は始まっている。それは自分自身との勝負だ。それに勝てなければ、ボクシングで勝ち続けることは出来ない。
でも不思議なことに、リングに上がり、開始のゴングが鳴った瞬間に俺の頭の中は真っ白になる。その時、全ての恐怖から開放されるんだ。」

決して広いとはいえない後楽園ホールの控え室。そこに数人の選手が割り当てられる。メインイベントに出場する選手でも、一人に一部屋を与えられることは珍しい。
汗とワセリンの臭いがたちこめるこの場所で、リングでは見ることの出来ない勝負が始まっている。
この瞬間に、スポーツ選手としてではなく、生身のボクサーに触れたような気がする。
孤独、恐怖、葛藤、希望、そして勝利への思い。その全てがこの中で渦巻いている。
薄暗い蛍光灯に照らされたもう一つのリング。
今日もここから、いくつものドラマが生まれる。
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