亀田騒動に関しての総括

 約1ヶ月半に及ぶ“亀田騒動”も、大毅に対するペナルティと父親の史郎氏に対する無期限の資格停止。それを受けた史郎氏が協栄ジムに辞表を提出。さらに興起の「涙の記者会見」等があって、ようやく一段落した、といってもいいだろう。もっともそれは亀田家のドラマの序章の終焉で、改めて次ぎのドラマが始まるのかも知れないが、それはさておき、今はこの騒動を僕なりに振り返ってみたい。
10月11日の内藤―亀田大毅戦が始まる2時間ほど前だった。控室に通じる廊下でばったり会ったシャイアン山本さんが僕の耳に「内藤、大丈夫かなあ?」と囁いた一言が、醜悪極まる、あの劇の始まりを暗示していたのかも知れない。この懸念は、内藤―亀田戦が実現の運びになったとき、ボクシング関係者だけでなく、この試合に関心を持っているものなら、 誰でもが抱いた感慨でもあった。
「まあ、二人の力が違い過ぎるし、内藤が勝つのは間違いないと思うよ」と答えた僕に山本さんがこう言葉を継いだ。
「いや、そういうことじゃなくて・・」
「つまり?」。「そうつまり・・」
これまで何度も反則行為を行っていた大毅が、試合開始早々からヘディングで内藤を襲う。それが内藤の瞼の古傷に“ヒット”し、王者の瞼をカット。これに主審がパンチによるカットの判定を下す。その傷が悪化し内藤はTKO負けを宣せられる。・・山本さんと僕が抱いたのは、そんな懸念だった。
「でも、内藤の類い稀な反射神経を持ってすれば、スピードもない大毅の“第三のパンチ”もよけられると思うよ」。「そうだな」。そう言い交わして僕と山本さんと別れたのだが、結果的に僕らの見方は実に甘かったのである。

2回に大毅の明らかなバッティングで内藤は古傷の右目をカット。それを主審が、何とパンチによるものと即座に判断。-―僕は仰天した。試合直前の山本会長と僕の懸念がそのまま現実のものとなってしまったからだ。
この傷は幸い、悪化することなく、内藤は周知のように、大差の判定勝ちをもぎ取ることになるのだが、テレビや新聞紙上で散々指摘されたように、その間、大毅が行った数々の反則は、想像を超えた行為のオンパレードだった。それについては、今さら、ここに取り上げるまでもないだろう。ただ、その反則行為の中で も最も卑劣極まるものはサミングだった。内藤は1999年の暮れに白内障の手術のため、7ヶ月余の長いブランクを作っている。大毅のサミングは、その箇所へのものだったからだ。

 主審が気がつかない中での選手の反則行為は、決して珍しいことではない。しかし、相手を投げ飛ばし、倒れたところに、グリグリグリ、といった感じで、グローブの親指で内藤の目を何度も攻撃したのだ。下手をすれば失明の可能性さえ孕んだ、その悪意に満ちた光景はリングから多少離れた席で観戦していた目にも はっきりと見て取れた。長いこと、ボクシングの試合を見てきた僕も、これほどあからさまな反則を見たのは初めてだった。それだけでもその時点で主審は大毅の失格負けを宣するべきだった。ところが主審は大毅に注意さえ与えなかったのだ。
 そして最終回。勝てる見込みがないと知るや、史郎、興毅親子が指示したさらなる反則行為・・。

 その日、亀田家の行動にあきれ果てた多くのボクシング関係者が、怒りを表明。結果的に10月15日に召集された東日本ボクシング協会(以下東日本)の理事会で、亀田一家の処分が検討され、これを受けた日本ボクシングコミッション(JBC)が、先の処罰を決定することになったのだが、僕が改めて、感心したのは、大橋秀行東日本協会会長の迅速な行動だった。大橋さんはJBCが制裁決定した翌日の10月16日、ジムを訪ねた僕にこうコメントしている。
 「正直言って、もし、このまま亀田家に制裁を与えないままだったら、日本のボクシング界は危機に陥る。でも(東日本の上部組織である)日本プロボクシング協会の理事会は12月。それまでこの問題を放置するわけにはいかないと思った。もし、その間、亀田側が、処分があることを察知して弁護士を雇ったりしたら、事態は収拾がつかないことになる。だから、即座に行動を起こしたんだ」。その裏には、恐らく、試合当日、安河内剛 JBC事務局長の「大毅へのペナルティは主審が最終回に3ポイントの減点を下したこともあり今のところ、何も考えていません」といった発言もあったに違いない。

 振り返れば、史郎氏に関する限り、JBCの対応はいつも甘かった。試合の度に見受けられた対戦相手に対する侮辱行為。試合後のレフェリーへの恫喝。観客とのいざこざ。さらに自分の息子達に批判的な記事を書いた記者への脅し。こうした一連の行為に関して、JBCはレフェリーからなる役員会の意向を受けて、 史郎氏に注意を与えただけに留まっている。その弱腰のJBCを考慮、さらに元世界王者らの「ボクシングをなめるな」といった多くの声を追い風に、大橋さんは迅速な行動に終始したのだろう。
 そして、結果的にこの東日本の理事会の意を受けたJBCは「ライセンスされた者が、JBCルールに違反し(中略)その他ライセンスを交付される資格に欠けると裁定された場合には、JBCからライセンスの取り消し、一定期間のサスペンド(停止)その他の処分をされる」とされたJBC規則第9条と「試合中、全力ファイトせず、もしくは故意の反則、悪質なルール違反等をしたボクサーは、ルール第9条に基づき処罰される」という第67条を適用。重い腰を上げ、処分を下したのだった。

 それにしても、この亀田家のいや史郎氏の“芸風”はいかにして培われたものなのだろう。僕がこの「トーク イズ チープ」に「真夜中の電話」を書いた発端は、実は彼らがかつて所属したグリーンツダジムの後援者と名乗る男からの度重なる電話だった。僕は通信社を通じて、亀田興毅の礼儀をわきまえない言動に 関する批判記事を出稿。さらに別の機会に「オレは辰吉丈一郎より強い」と言い切る、まだ日本王者にもなっていない18歳を「傲慢不遜」と非難したのだが、それが関西方面の新聞に掲載されたのだろう。その記事を読み、不快と感じた、どう考えても“その筋の者”と思われる“亀田のファン”が、僕に電話してきたのだった。
 それから亀田家が協栄ジムに移ることになってからは、その電話の回数は激減。たまにかかる電話では、むしろ緊張の中にも、なごんだやり取りも交わすようになった。その中で、その“亀田のファン”がこんなことを言ったことがある。
「昔、あの一家は、飛田遊郭のすぐそばに住んでおって解体業やっとったんや。当時から、史郎は気性の激しい奴で、よう近所のもんと怒鳴りあってたわ」。彼らが自宅を改造してジムを作ってからも、子供たちの練習風景を覗こうとする近隣の人間の多くと、決して親しい関係を築こうとしなかった、という。
「孤立しとったんとちゃう?。ただな、風の噂で聞いたんやが、史郎も小さいときに親に死なれて、随分苦労したんやそうや」
 史郎氏にそんな取材したこともない僕としては、その“風の噂”を頼りに判断するだけだが、彼の傲慢極まる態度は、恐らく、自分という存在を守るための、切羽詰まった手段だったのだろう。史郎氏の生い立ちなど、知る由もないが、「自分に味方はいない。だったら人は絶対信じない」。そう考えた彼が、他人に頭 を下げず、頼れるのは、自分だけ、という人生観を持っても不思議はない。そして「勝つためには、反則も辞さない」という考え方を自分の分身である子供たちに、植え付けていったに違いない。

 加えてTBS系列が製作した、彼ら一家のドキュメント番組が好評を呼び“日本全国の亀田一家”へと祭り上げられれば、その傲慢さがエスカレートするのも当然である。また、他人との付き合いがほとんど絶たれた閉塞状態の中で育った子供たちが、父親の価値観を絶対視するのは火を見るより明らかである。換言す れば、興毅も大毅も、父親以外に彼らの自我を育む対象が存在しなかったのだ。
 こう書いていてふと脳裏をよぎったのが田中真紀子元外相の言葉だった。米国に反旗を翻してアラブ諸国とのエネルギー・ルートを構築。日本という国に多大な貢献をしながら、外為法違反という訳の分からない容疑で逮捕され、その後、配下にも裏切られた田中角栄首相を父を持つ真紀子氏。まあ彼女と史郎氏を比較 するのは余りに失礼なこととは思うが、「人間には敵と家族と使用人の3種類しかいない」と断定し、あくまで攻撃的な姿勢を崩さない二人に幾ばくかの共通要素がないとはいえないだろう。
 横道にそれてしまったが、結局、史郎氏を増長させたのは、テレビ媒体や彼を野放しにしたJBCだけではなく、その生い立ちも含めて、そうした要素が史郎氏の中に限りなく存在していたからだろう。
 これから、あの一家はどうなるのか。“院政”を敷いて、興毅と大毅をリモートコントロールするのでは、という見方が多くのマスコミの“読み”だ。それはともかく、7月の試合で興毅は、今まで見られなかった、技巧を伴ったスピード豊かなボクシングを見せている。この才能を、その管理を引き受けた協栄ジムが、ファンも納得のいくマッチメークで伸ばしていってもらいたい。今願うのは、そのことだけだ。



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アリの素顔に接することが出来た11日間

●丸山 幸一 (まるやま こういち)
1947年東京都台東区出身。72年早稲田大学第一文学部を卒業後、今はなき東京タイムズ社に入社。74年から運動部でボクシング、競馬、高校野球、ゴルフ、プロ野球のパ・リーグ等を担当。81年同新聞社を退社。以後フリーランスに。リライター、映画ライター等を経て85年からボクシングを主な分野として、共同通信社、デイリースポーツ社、ボクシング・マガジン等に原稿を掲載。趣味は酒

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