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前号まで―“亀田のファン”を自称する男から電話があったのは、亀田興毅が2005年の6月20日に後楽園ホールで行った試合の直後だった。それは私が通信社を通じて書いた亀田に対する、批判めいた原稿への抗議、というより恫喝に近かった。その男と何度か電話でやり取りをした私が、初めて彼とあったのは年の瀬も近い新宿のバーである。男は私と大学時代、ボクシング同好会で共に汗をかいた「大原亮介」という友人の名を名乗った。それから30年以上の歳月こそ流れてはいたが私には見覚えのない人間だった。しかし、彼は私について驚くほど知悉しており、私が若い女性ー秀子に執着した末に振られた、人に知られたくない話まで熟知していた。
「お前は一体誰なんだ」。再び声を荒げた私に男は「だから大原亮介や。何遍言ったら分かるんや」と笑みを向けるのだ。
大原と名乗る男が、私に殺意を抱いた理由は、彼によれば私が、女性に振られた話でさつきの関心を呼び起こし、その感情を利用して彼女をホテルに誘ったから、という無茶苦茶なものだった。
ただ、私がさつきを誘ったのは事実だった。週に2度ほどの割りで「マンハッタン」に通う私に、その日も「で、どうなったの?」と、挨拶代わりにさつきは聞いた。夜がふけ、私の他に客がいなくなったのを機に、私とさつきは店を出た。
私は改めてさつきに言った。「どうなった、って言っても、連絡なんかないさ」。そのときは、まだ秀子から再び電話が来る前だった。
「自分の中ではとっくに踏ん切りはついている」。そう答えた後、私は情けない告白をせずにはいられなかった。
「踏ん切りがついても、実は飯が喉を通らない」
さつきが私の左腕に右腕を通してきたのは、その直後だった。さつきの大きめの乳房が、私の左腕に触れた。その感触が引き金になったのだろう。
「これからホテルに行くか?」と自分でも意外な言葉を口にしていた。さつきは呆れたように私を見た後、
「あんたが誘ったのはホテルじゃなくて食事でしょう」。「まあな」。私が答えると、さつきが間髪を入れずに「着いたわよ」と、ある店の暖簾を指した。
それだけのことだった。
それにしてもこれは二人だけのやり取りである。
その会話を知っているとしたら、さつきが男に語った以外に考えられない。すると男が唐突に言った。
「さつき、な。あれはワシの女や」。そして間を置くと続けた。
「けど、お前、さつきを抱く気なんかなかったんやろ」
「そうだったかも知れない」。私がぼんやりと言葉を返すと男は、カウンターの下から取り出した包丁を私の目の前に、勢いよく突き刺し、
「だから許せんのや」とドスの利いた声を張り上げたのだった。
結局、私は殺されず、
「もう、行ね!」という言葉を合図に店を出た。
ただ、ドスが刺さったカウンターを前に私は少しの間、男の話を聞いていた。男が語ったのは大原亮介でなければ知らないはずの私の学生時代の話だった。
1968年の晩秋、私は西武新宿線沿線の安アパートで同居していた女と別れた。というより、ボクシング同好会に入る前に所属していたジムの、あるプロの元に彼女は走っていったのだった。
1年ほどして、私は新宿で彼女と偶然出会った。私がそのとき覚えたのは彼女に対する深い愛着だった。しかし、言葉をかけることも出来なかった。それから長い年月が経った後、共通の知人を通じて彼女の死を知ったのだった。
「お前に彼女の死を知らせたのがワシやったやないか」。男はそう言ったが、無論、そのはずがなかった。それでも彼は構わず続けた。
「ワシがお前の前から姿を消したのは69年の秋や。それからワシがどうしてたか、分かるか? 16年間、ワシは彼女と一緒やったんや」。その言葉を疑いながら、私は表情を変えずにはいられなかった。
私が店を出る前に男は言った。「お前は自分の尻も拭けん情けないやっちゃ。ワシの女にうち明け話をした挙げ句、抱きたくもないのにホテルに誘う。好きな女に逃げられた末、未練を持ち続ける。そんな奴、殺しても仕方ない。お前と話ししてそれがよう分かったわ」。男は私の心の中を見透かしたように笑い、そして「行ね!」と野良犬相手のように、私を右手で追い払ったのだった。
その翌日、私は「マンハッタン」に出向くと客が引けたのを見計らい、昨夜の話をさつきにした。
「でもあたしは大原なんて男知らないわよ」。素っ気ない言葉がさつきから返ってきた。
しかし、ややあって、さつきは一転して、
「その男の店に行って見ようか」と切り出したのである。時計を見ると1時を回ったばかりだった。
「マンハッタン」から歩いて5分ほどの距離にあるはずのその店は、しかし、なかなか見当たらなかった。花園神社の周辺は熟知しているさつきが言った。
「あんたがいうようなビルは、もうない」。とはいえ、いくら私が酒を飲んでいても昨日の場所を間違えるはずはなかった。しかも私が、そのバーで飲んだ量は、たかが知れていた。
「で、その大原って人はどんな男なの?」。おおよその特徴をさつきに話して聞かせた直後だった。私とさつきは同時に、つい先ほど訪ねたビルの傍らで、屈んで植え込みに水を差している男を認めたのである。
「あの人に聞いてみる」。さつきが僅かな距離を駆けていった。
が、すぐさま彼女は男の傍らで青ざめた顔で立ち竦んでいた。男が立ち上がり、こちらを振り返ることもなく、姿を消すと、さつきは私の腕を掴んだ。そして私を見つめながら呟いた。「あの男、あんたと同じ顔をしていた・・」
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