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6月20日に亀田興毅の後楽園ホールでの2試合目が行われた。その試合はグリーンツダジムからすったもんだの末、東京の協栄ジムに移籍した初戦でもあった。周知のように2月21日の後楽園の初舞台はタイのノーランカーを初回KOに下し、6月20日は元世界ライトフライ級王者のサマン・ソー・チャトロンをも初回にストップし、期待に違わない結果を残している。
両試合とも定員が2000人に満たないホールは満員札止めとなり、また長谷川穂積が一時代を築き上げていた世界バンタム級王者のウイラポンに勝った翌日さえも1面で取り上げなかった「日刊スポーツ」が、試合当日に大々的に亀田を1面で扱ったのが印象的だった。
我々ボクシング・マスコミにとっては、有り難いことである。スポーツ紙の1面を飾ることは、ボクシングに関心がない層に対しても、彼の存在を知らしめることであり、そのことでボクシングというスポーツを大いにアピールすることになるからだ。

肝心のサマン戦の方は、元世界王者が、その栄光はあくまでも過去のものでしかなかったことを実証するだけに終わった。今年の2月に3年振りにリング復帰したものの、国内で2連敗。3連敗になった亀田戦後に元王者は「今度は20日間も練習をやったのに・・」とうなだれていたそうだが、何をかいわんやである。ただ、そのサマンを3度倒した亀田のパンチは的確で鋭く、バランスの良さも抜群だった。35歳のサマンの著しい”老化”で亀田本来の実力は、またも計ることが出来なかったが、彼の潜在能力の高さを垣間見ることは出来た試合だった。
気になったのは、試合後のインタビューで辰吉丈一郎と自分との比較を聞かれた際、「尊敬はしとるで。けど(潜在能力は)自分が上やと思う」という亀田の返答だった。この発言は彼のパフォーマンスと受け取れなくもないが、辰吉はプロ3戦目でWBCインター王者だったサムエル・デュランを倒し、4戦目に日本王座を獲得、8戦目に世界の頂点に立った男である。世界の王座を獲得するどころか、日本ランカーとも対戦していない亀田には「辰吉より上」と言う資格さえまだ持ち合わせていないのが実状なのである。
話は外れるが、亀田が初めて後楽園のリングに上がった後の控室での態度を、私は20年来書かせてもらっている通信社に、こんな風に記したことがある。
「“大阪より盛り上がったし、また来てもいいかな、と思うたわ。”
亀田は18歳とは思えないふてぶてしい態度で初の後楽園の印象を語った。(中略)その強烈な自己顕示欲と辰吉に酷似した風貌が、亀田の人気の原点だろう。ただ辰吉が人気を博した理由はその突出した才能だけではなく、徹底したサービス精神と、嫌な質問にもユーモアで返す豊かな知性だった。(中略)観客が納得する強い相手と闘わせることと同時に父親の史郎氏は、息子に分相応の謙虚な態度を身につけさせることが急務だと思うのだが、どうだろう」
といった内容の記事である。
通信社の原稿故、いつどこの新聞が採用してくれるのかは、当方には全く不明である。だから「あのええ記事書いたのあんたか」という電話が掛かってきたときも一体、何をさしてそう言っているのか、分からなかった。ただ「ええ記事」と表現した際のきつい口調が、字義通りではないこと明らかにしていた。私は身構えながら相手の次の言葉を待った。「わしは亀田のファンでな」。その男が言った。
「それで?」
「あんたの記事を(大阪の)00新聞で読んだんや。00新聞には知ってる者もおるんで、あんたに会わせて貰おう思うて、聞いたら、”これうちの者、書いたのとちゃう。通信社のや”と。それで、手間かけてあんたの家の電話、調べて貰ったわけや」
「あんたは、それで何を言いたいの」。
警戒心を込めた私の言葉に、最後まで名を名乗ろうとしなかった男は、一転して凄みをきかした声で
「あんまり、余計なこと書くな、ええな」
と言うと電話を切った。
”余計なこと”が亀田の態度について触れた個所をさしているのは明かだった。男は「大阪には大阪の言葉遣いいうもんがあるんや」と言い添えてもいた。その一言と以後、電話が来なかったことから、私は電話の主が、筋者に違いない、とはじめに感じた判断を保留にして置いた。
亀田が協栄ジムに正式に移籍したのは、それから3カ月ほど経ってからのことである。
移籍騒動が終了し、サマンとの試合も決定した頃だった。私は旧知のAジム会長から「亀田一家ともめてるそうじゃないか」と声をかけられた。身に覚えのない話だった。「少なくとも亀田親子とはもめていない。第一、彼らを個人的に取材したこともない」。私がそう答えると、Aジム会長は「それなら、いいんだ」と含みのあある言葉を残して去っていった。例の関西弁の自称”亀田のファン”からまた電話がかかってきたのは、サマン戦の直後だった。
「ワシや」。
いきなり男はそう言い「ワシの声、忘れたか」と付け加えた。
「名も名乗らない人間なんか覚えているはずがない。第一、あんたが電話してきた時はまだ寒い頃だった」。
「何や覚えているやないか」。
男は、声を出して笑った。
この男に自宅の電話番号を教えたのはA会長に違いなかった。私が”もめた”のは亀田親子ではなく、その男とだったからだ。
「今度もまた何か書いたんか?」
「亀田のことなら、世界取ってから、辰吉より上だと言うべきだ、と書いた」。
私は先の記者会見の時に感じたことを、通信社の記事に書いていたのである。「こりないやっちゃな」。男は、ため息混じりにそう言うと「また電話するから覚悟して置けよ」と、言い残して受話器を置いた。
彼がかけてくる時間は決まっていて、いつも深夜の1時だった。
「この前、お前、おらんかったな。不便だから携帯教えろ」。
受話器からいきなり、そう言う言葉が飛び出してきたこともあった。A会長は私の携帯番号だけは教えなかったのだ。彼から今でも、週に1度の割合で電話が掛かってくるが、いまだに名を名乗らない。A会長に正体を聞いてみようかとも考えたが、それは思いとどまった。教えたのがAだという証拠がないこともあるが、私の中に”謎の男”からの電話を楽しみにしている部分があることに気づいたからだ。
「サマン、あれはもう完全に壊れとった。けど、次ぎの試合は相手ごっついやつや。またいらんこと書いたらあかんで。容赦せんで」。
その電話が来たのが、7月の4日だった。そして私がこの原稿を書いているのは7月13日である。もう1週間以上も連絡がないことになる。ことによると、私が飲んだくれて帰らなかった日に掛けてきたのかも知れない。・・私はその男からの電話を実は心待ちにしている自分を知って、思わず苦笑したのだった。
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