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東洋スーパーフェザー級王座を獲得し連勝記録も”24”と伸ばし、世界挑戦の話が出始めた沼田さんに、大きな落とし穴が待ち受けていた。25戦目でサウスポーの伏兵・奄島勇児に4回KO負けを喫して無敗記録がストップした後、さらにラブ・アブロッティ、徐強一と続けて敗れ「破壊された精密機械」とマスコミから酷評された。その沼田さんは、そんな外野の声に屈せず、屈辱の1年間、サウスポー対策に明け暮れるのである。ーそれが前回までの梗概である。
その特訓が実を結んだのが、奄島戦から1年後の1965年6月9日だった。当時の世界スーパーフェザー級はフィリピンの英雄でサウスポーのフラッシュ・エロルデの天下だった。6年前に世界王座に就いた彼は、以後、10度に渡って王座を防衛していた。沼田さんは同日、このエロルデに挑むのだが、ただし、世界タイトルではなく、エロルデが同時に保持していた東洋ライト級の王座だった(その頃は世界と東洋の王座を併せ持つことが可能だったのである)。
結果は沼田さんの判定勝ちだった。世界へのチャンスを再び掴んだ沼田さんは、1年後に今度は世界王座をかけてエロルデと対戦。持ち前のノーガード戦法で王者を挑発、フリッカー・ジャブとショートの右をエロルデの顔面にヒットさせ、世界の頂点を極めるのだが、こうした話は世界チャンピオン名鑑等に詳しく書かれているので、以後は沼田さんが私に直接語ってくれた話を披露しよう。
相手のパンチを交わす方法。
「パンチなんてね、ストレートとフックとアッパーしかないんだよ。だから左右併せて6種類。で、どういうパンチを打ってくるかは、相手のひじを見ていれば分かるの。ひじが下がったらアッパー、上がったらフック、そのままだったらストレート。ね、そう考えるとパンチよけるのなんて、そんなに難しいことじゃないんだよ」。
この話を聞いた後、私は記者席の一番前で目をこらして見ていたのだが、4回戦クラスならともかく、メーンのリングに上がる選手のひじの動きを瞬時に見極めることは全く出来なかった。改めて沼田さんの動体視力の凄さを実感した次第である。
サウスポー。
「僕が最初に負けたのが奄島勇児というサウスポーだったけど、後はサウスポーには一度も負けてない。初めて世界取ったエロルデも2度目に(世界を)取ったレネ・バリエントスもサウスポー。サウスポーはむしろ得意になっていたね。サウスポーの右は、大体、見えたから、ちょっと頭を滑らせば交わせたし、アッパーは、僕は懐が深かったから届かない。後は左だけど、これもステップで交わすか、間に合わなければ右で払っちゃえばいい。簡単なんだよ」。
この話を後に3階級制覇の前田宏行にしたことがあったが、彼は「そんな話、僕にしないで下さいよ」と言うと、プンと横を向いてしまったのだった。
光。
「小林弘に負けて世界タイトル失った半年後に、徐強一と対戦したんだ。僕はまだ東洋(スーパーフェザー級のタイトルを)持っていたんで、その防衛戦。防衛戦といっても徐には以前負けていたし、ランクも徐は世界1位。僕にとっても苦手なタイプで、勝てる、という自信はなかったんだ。でも負けたら引退しかない。それで、故郷の北海道から初めて父親を呼んでね。・・試合は6回を終わって2ポイントくらい、徐がリードしていたんじゃないかな。で、6回が終わったインターバルのときだよ。いきなり会場の後楽園ホールが暗くなったんだ。あれ、と思って徐の方を見たら、徐の左あごに、ちょうどスポット浴びせたように光りが射している。そのとき僕は思った。なんだ、あの個所を打てばいいんじゃないか、って」。
次ぎの7回、沼田さんの右ストレートが徐の左あごを打ち抜くと、徐はキャンバスに叩きつけられるように倒れていった。その光景を私もテレビで見ていて、強烈に印象に残っていた。
「で、後でセコンドに聞いたんだ。なぜ、あのとき場内が暗くなって、徐の顔に光りが射したのかって。ところが、みんに笑われたよ。テレビ中継されていたし試合の途中で暗くなるわけないだろう、ってね。でも僕はハッキリ見たんだ。光をね」
この話を聞いたのは、ゴルフ・コンペを翌日に控えたロッジの部屋の中である。私と沼田さんは、同じ市川市の住人ということもあり、二人一緒の部屋をあてがわれることが多かった。私はいつも、深夜まで酒を飲んで部屋に帰ってくるのだが、下戸な上”枕が代わると絶対に眠れない”という沼田さんは一晩中、寝付けずにいる。で、私が部屋に戻ると、とりとめのない話になる。その日も夜中の3時頃、ベッドに入ったばかりの私に「起きてる?」と元世界王者が話しかけてきた。やがて、話題はボクシングのことになり、そして先の言葉が沼田さんの口から飛び出したのだった。
そのときのことを表現するために、沼田さんは布団をはねのけてベッドから起きあがり光が射した場所へのKOパンチをこと細かに実演してくれたのだった。この快勝で、世界1位にランクされた沼田さんは、69年の10月、ロスで1階級上の世界ライト級王者・マンド・ラモスに挑戦する。
自己防衛。
「試合が始まって何てこの男はボクシングが下手なんだ、と感じたんだ。パンチは強いけど、攻撃パターンはいつも同じ。これは勝てるな、と。ところが、ラモスは幾ら打ってもびくともしない。で、考えたんだ。もしこれが今のように12回戦なら、ポイント重ねて勝てる可能性は強い。でも当時は15回だ。15回戦というのは13回からがきつくてね。ラモスの異常な打たれ強さ考えたら、その間を凌ぐ自信がなくなっちゃった。しかも場所は敵地だしね。じゃあ、適当なところで倒れちゃおう、と。だって下手に頑張っちゃうと、もう試合出来なくなっちゃうかも知れないからね。で、6回にボディ打たれたので、もういいかなと・・」。
試合は日本でも生中継されていたが、その言葉通り、沼田さんの3度目のダウンはラモスのかすったような、ボディブローによるものだった。
記憶力。
―いつだったか、例に違わず酔っぱらっていた私は、無礼極まりない質問をしたことがある。試合をしてもいなかったアントニオ・アマヤとの対戦を尋ねたのだ。
「アマヤ?俺やってないよ。小林弘と間違えていない?」
と首を傾げる沼田さんに私はなおも言った。
「小林とアマヤの試合は覚えていますよ。そうでなくて沼田さんも絶対やっていますって」。
「やってないって・・。丸山さん、酔っているから間違えているんだよ」。
困惑する沼田さん。そのとき、私はハッと気が付いた。アマヤと防衛戦を闘ったのは(小林弘以外に)柴田国明だったのである。自分の記憶の誤りを認めた私に沼田さんは「そうだろう」と笑った後、こう付け加えた。
「あのね、僕は55戦やっているけど、どの試合もラウンドまで覚えているんだ。22度のダウンもいつどういう風にしたか、全部ね」
偉大な世界王者に「アマヤと対戦している」と言い張った自分自身を今では心底から恥じるばかりである。
ラウル・ロハス。
ロハスとの試合は沼田さんがバリエントスを軍門に下し、2年半振りに復帰した世界王座の初防衛戦として行われた。35年経った今も”奇跡の大逆転劇”として語りぐさになっている試合である。改めて振り返ると―。4回、元世界フェザー級王者の強烈なボディブローで、リングに沈んだ沼田さんは、5回も劣勢のまま。6回もロハスの猛攻は続き、沼田さんのKO負けはもう決定的に思われた。そこから反撃に転じ、20発近い連打を浴びせた後、天を突くような右アッパーで、ロハスを仕留めてしまうのである。が、沼田さんに言わせると―。
「4回のダウンは、あれ以上打たせると、危ないので意識して倒れたんだ。ただ、自分の劣勢は分かっていたし、このまま15回まで闘うだけのスタミナは残っていなかったので6回に勝負に出たんだ。あの回、初めのうちロハスが僕をコーナーに詰めて、打ちまくっていたでしょう。でも、あれわざと打たせたの。打たせて疲れるのを待っていたんだよ。意識して打たせたパンチって案外、効かないものだからね。20発くらい打たせたらロハスの勢いがなくなったんだ。ここだ、と感じて、まず右のストレートを打ち下ろしたら顔面にもろに当たって、ロハスがのけ反った。後は、もうあらゆるパンチを打ったよ。ここで仕留めないと、また蘇る可能性があると思ったからね」。
「テレビではアナウンサーが28連打と叫んでいました」。
「そんなには打っていないと思うけどね。で、あのアッパーね。思い切り右腕を引いて、その勢いを利用して突き上げたんだ。要するに振り子の原理だね。あれがロハスの顎に入ったとき、もう立ってこないと確信したよ」。
あの劇的な逆転KOは、実は沼田さんの冷静な計算に支えられたものだったのである。
優しさ。
本人を差し置いて「アマヤと絶対に対戦している」と言い張る私に、決して気色ばんだりせず「酔っているから勘違いしてるんだよ」と諭す沼田さんなのである。その沼田さんの温かい人柄のことは、このトークイズチープで大久保君もしばしば触れている。
最もいい例が、自分から去って行った横山啓介への対し方だろう。国分寺サイトー・ジムへ移籍し、日本ライトフライ級の王座を獲得した横山は、北野隼相手の防衛戦を間近に控えながら、格好なスパーリング・パートナーを得られず苦慮していた。仕方なく、横山は沼田ジムへ出向いた。かつての同僚が、自分と同じ時期にリングに上がることを聞き、その同僚とスパーをさせて貰えないか、と沼田会長に直訴したのである。
「虫のいい話で、沼田さんに断られることを承知で、出向いたんです」 と横山は、そのときのことを振り返ったが、沼田さんは文句のひとつも言わず、横山を受け入れたのだという。
「それだけでなく、サイトー・ジムにも電話かけて、逆に斎藤会長に頭を下げてくれたんです」。
この話を横山自身から聞いた後、沼田さんに電話をかけた。横山が移籍した直後、沼田さんが彼について愚痴っていたのを思い出したからである。沼田さんは「横山から聞いたの?」と言った後「あいつ不器用だからなあ」と一言言うと深い深いため息をついたのである。折角、ジムを移っても、それではまたジム側と対立してしまう。そんな不器用極まりない横山に対する、父親のような思いが込められた深いため息だったのだ。
それから、またもジムを移った横山に、沼田さんと私とのやり取りを話して聞かせたことがあった。
「自分の身勝手でジムを出ていったのに”相手がいないからスパーをやらせて下さい”と言うボクサーを嫌みのひとつも言わず、受け入れるジム会長なんて、この世にいないと思ってたよ」。
そう言った私に、頑迷極まりない横山も「そうですね。そんな人、沼田会長以外に絶対いないですよね」と小声で答え「僕の人生がこれからどうなるかは、分からないですけど、沼田さんにしてもらったことは一生の財産だと思う」と神妙に続けるのだった。
私はこれまで繰り返し述べてきたように、世界を極めたボクサーは、中でも天才と呼ばれたようなボクサーは、例外なく肥大した自我の所有者で、排他的で、この上なく気難しい種類の人間だと考えていた。そして沼田義明は紛れもない天才だった。
けれども、彼は信じられないほど、心根の優しい人だった。信頼する友人には、心底から気を配り、そのために自分が疲れてしまうような人だった。
6年前、沼田さんがジムと至近距離にあるマンションに引っ越してしまい、さらにゴルフも断ってしまったため、以前のようなお付き合いは出来なくなってしまった。その沼田さんから最近連絡があったのは、確かゴールデンウイークの最中だった。
「あ、沼田です」。
電話の向こうから、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「お元気ですか?」と尋ねる私に「それがさあ、昨日一睡も出来なくて・・」。
「体でも悪いんですか?」
「いや、体はどこも悪くないの。そうじゃなくて、もうすぐ(元世界スーパー・フライ級王者の)川島郭の結婚披露宴で祝辞述べることになっちゃって・・。で、何て言えばいいのか、と考えていたら、眠れなくなっちゃったんだ」。
それだけ言うと笑いながら「じゃあね」と電話を切った沼田さんが、そんなに久しぶりの会話でもないのに、妙に懐かしくて仕様がなかったのだった。
(完)
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