我が思い出のボクサー
沼田義明さん 3

 沼田さんが生まれたのは、北海道は日高地方の沙流郡富川町である。3歳のとき母を亡くし、貧しい家庭に育った彼が小、中学時代に馴染んだスポーツは野球だった。中学卒業間近になって沼田さんは悩んだ。野球で身を立てる方法は高校に進学して甲子園を目指すか、或いは大学やノンプロの野球部のレギュラーになることである。そうして始めてプロへの道が開けてくる。「要するに高校に行けない子供は、それだけで将来がないわけだよ。だから野球を続けることは、ハナから諦めたけど、この田舎町をどうしても出たくてね。でも昭和35年当時、知り合いもない東京へいきなり出ても働き口があるはずもない。第一、東京へ行くだけの汽車賃もない。何か、そう考えると絶望的になってね・・」。

 そんな矢先のことだった。「風呂帰りに友人の家でテレビを見せて貰っていたら、ボクシングやってて、試合のインターバルに”ボクシング教室の受講生募集”というスポットが流れたんだ」。そのスポットが沼田さんの運命を変えるのである。
 早速、応募した沼田さんに速達が来たのは、1週間後だった。手紙は「札幌で体力テストを実施するので、来られたし」という内容である。そのとき、審査の責任者だったのが木村ジム(現在、新日本木村ジム)の木村七郎会長だった。
 「とにかく体のバネが他と全く違う。私の評価は抜きんでてのトップだった」。
 木村氏の回想である。
 「僕はボクシングに興味があったわけじゃない。大体、殴り合いなんて大嫌いだったし、喧嘩もしたことがなかったんだから。ただ、東京に行ける。それも生活費も全部、面倒を見てくれる。そのことだけが僕の関心事だったんだ」と沼田さんは振り返って言うが、本人としても、実は不安だらけの東京行きだったのだ。
 ともあれ、こうしてボクシング教室の生徒となった彼は、昭和37年7月26日、17歳でデビューすると、木村氏が見抜いた通りの素質を披露、快進撃を続ける。
 
 無傷の13連勝を記録した直後のことだった。しばしの休暇を実家で過ごしていた沼田さんを突然、いいようのない不安が襲った。「その頃の僕は、実は典型的なファイターだったんだ。13勝のうちKO勝ちも7つあったはずだ。でもこのスタイルでは必ず、いつか壁にぶち当たる、という思いが突き上げてきたんだ」
 物心ついたときから、日高の野山を駆けめぐり、冬には雪に覆われた裏山の頂上まで、友人と競争をし、夏には海に潜って海草の収穫を争った。それが、沼田さん達の遊びだった。だから足腰の強さには、ジムの誰にも負けない自信があった。この足腰をもっと生かせば、自分のボクシングの幅が拡がるはずだ。
 13戦無敗とはいえ、まだ18歳の少年は眠れぬ夜の中でそう考えるのである。「それで辿り着いた結論が、テレビで見たモハメド・アリのボクシングだったんだ」。”蝶のように舞い、蜂のように刺す”あのボクシングである。さらに周知のようにアリのボクシングはノーガードである。「あれを真似しようと。そんな折りに小高会長から電話があってね。高橋(美徳)さんが(世界スーパーライト級王者の)エディ・パーキンスに挑戦することになっていたんだけど ”パーキンスのスパーの相手が、壊されていなくなちゃたので、お前、帰ってきて、パーキンスの相手してくれ”っていうんだよ」。パーキンスは小柄ながら、動きの早いボクサーで、しかも日本人が見たこともないようなフリッカージャブの達人だった。そのジャブでパートナーの顔面を鋭く突き上げるものだから、みんな鼻血を出して相手にならなくなってしまったのだ。
 早速、帰京した沼田さんは連日パーキンスの相手を務めた。「相手をしていて、感じたのは左手を腰の当たりまで下げて、その位置から突き上げてくるジャブの効果だった。よし、これを、自分も取り入れようと・・」
 こうしてアリとパーキンスをミックスした”沼田ボクシング”がスタートするのである。「よく人は僕のボクシングを所謂”小高理論”の実践者って言うけど、それは全然違うんだよ」と沼田さんは、しばしば口にするが、その言葉通り、そのスタイルを作り上げたのは沼田さん自身だったのだ。
 こうしてボクシングスタイルを大きく変えた彼は昭和40年4月1日にラリー・フラビアノを下して東洋スーパー・フェザー級の王座を奪取すると同時に連勝も24に伸ばした。TBSのバックを持つ極東ジムが、彼の世界挑戦を考え始めたのも至極当然のことだった。ところがである。そんな矢先に沼田さんは思わぬ落とし穴にはまり込むのである。

 東洋王座を奪取した2戦後だった。相手は当時無名の奄島勇児で、いわば”調整試合”である。が、4回、右効きのサウスポーである格下の右をまともに浴び、リングに長々と伸びていたのは沼田さんだった。そしてその2戦後のラブ・アロッティにも4回KO負けを喫した沼田さんは続く徐強一戦も判定を失ってしまうのである。”精密機械”の異名を持つ沼田さんに世間は途端に冷たくなり、それまで天才と褒めそやしていたスポーツ・マスコミは「壊れた精密機械」という見出しを付けて沼田さんをこき下ろした。
 
 が、いきなり吹き出した逆風の中で沼田さんは密かにある練習に励んでいた。
 それは、自分に初黒星をつけたサウスポーに対する、徹底した対策と、まだ発展途上だった沼田ボクシングの完成だった。

  (以下次号)



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●丸山 幸一 (まるやま こういち)
1947年東京都台東区出身。72年早稲田大学第一文学部を卒業後、今はなき東京タイムズ社に入社。74年から運動部でボクシング、競馬、高校野球、ゴルフ、プロ野球のパ・リーグ等を担当。81年同新聞社を退社。以後フリーランスに。リライター、映画ライター等を経て85年からボクシングを主な分野として、共同通信社、デイリースポーツ社、ボクシング・マガジン等に原稿を掲載。趣味は酒

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