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Cから電話が掛かってきたのは、私が病院を2度目に訪ねた1カ月後のことだった。
「退院したのよ」。
Cの声が弾んでいた。
「矢嶋先生からあなたが来てくれたことを聞いた時、本当に嬉しかった」。
甘えるような声だった。私の中にも、こみ上げてくるものがあった。私のCに対する感情は、彼女が入院する前とは明らかに違っていた。
「これから、どうするんだ?」。
「あなたに会いたい」。
間を置かずにCから言葉が返ってきた。私の気持ちも同じだった。
私達が彼女の実家に近い街で会ったのは、Cからの電話があった3日後だった
「あたし太ったでしょう」。
それがCの第一声だった。
「健康になった何よりの証拠じゃないか」
と応じた私にCは小さく頷くと、そっと私の手を握った。その手を握り返した私にCが言った。
「ね、あたし達、まるで恋人同士みたいね」。
その言葉を聞いた瞬間、私は反射的に彼女の手を放した。今思えば、Cを拒絶したかった、かつての自分が、まだどこかに潜んでいたのだろう。そして私は自分の取った行為にうろたえた。けれども「ごめんなさい」と、か細い声で謝罪した後に続いた彼女の言葉が私をさらにうろたえさせた。
「じゃあ、今日、抱いて貰えないの?」。
首を傾げながら、そう言うCに私は、同時に激しい欲望を覚えていた。
それからどれほどの時間が経過したのだろう。私は自分自身に打ちのめされていた。
「いいのよ」。
Cの慰めの言葉が辛かった。場所は、ホテルの一室である。彼女に欲望を覚えたはずの私の体は、しかし、全く反応しなかった。カバーマークで隠されていた左手首の傷跡が浮き彫りになっていた。その傷跡にそっと右手を置きながら彼女が言った。
「私では駄目なのね」。
「そうじゃないんだ」。
弁解がましい私にCが言葉を重ねた。
「・・私は、あなたと結ばれることで、魂と魂も結ばれると思ったの。入院中、
いつもそんなことを考えていた。でもあなたは、そうなりたくなかったのね」。
その言葉が、私の心をさらに突き刺した。
Cと別れた私は浅草に向かった。一角に宿が軒を連ねていた。無造作に中の一軒に足を踏み入れ、部屋に通された私に愛想笑いを浮かべた女将が「どんな女の子がよろしいかしら」と畳みかけてきた。15分ほどして部屋に入ってきたのは貧相な40女だった。しかし、私の体は、そのやせぎすの、艶を失った肉体に反応していた。
その一夜以来、Cからの連絡は一度もなかった。私も彼女にどれほど、電話をかけようとしたことか。けれども、受話器の前で私の指はいつも凍りついた。
そういう毎日が繰り返され、半年が過ぎた。既に木の葉が色づく季節になっていた。
― 正午近くに、空気を切り裂くような電話のベルが鳴った。受話器を取るとDの声が聞こえてきた。
「もう聞きましたか?」。
「D君だろ。どうした?」。
再び彼が、今度はしっかりとした口調で言った。
「じゃあ、まだ聞いてないんですね」
「何を、だ」。
「Cが死にました」。
言葉を失った私にDが早口で続けた。
「昨夜です。Cの母親から、さっき連絡がありました」。
咄嗟に私は自殺を確信した。が、Dが口にした死因は信じられないようなものだった。
「母親の話によると、溺死らしいんです。場所は自宅の浴槽です」。
そんなことがあり得るのだろうか。「実は」とDが言いかけて言葉を切った。
ややあって再びDが口を開いた。
「・・昨日、二人で飲んだんです。それで、10時頃別れて・・。Cが亡くなった時間は、午前3時頃だそうです。夜中に起きたCの母親が発見した時はもう心臓が止まっていたらしいんです」
「母親がそう言ったのか」
「ええ、とても冷静に話してくれました」
教会で葬儀が行われたのは、その翌々日だった。Dと共に参列した私は、一足早く、教会をあとにした。その夜、床に就いていた私はDの電話で起こされた。Dは酔っていた。よく回らない舌でDが言った。
「あの日、僕はCに、二度と会わない、と伝えたんです。その言葉が彼女を追いつめたんです」。
電話の向こうでDは泣いていた。
「・・じゃあ、自殺だったのか?」。
「ええ、風呂の中で手首を切って・・」。
Dは母親から、ハッキリとそう聞いていたのだった。
「・・僕も死にたい」。
酔いが言わせた言葉に違いなかったが、無視することは出来なかった。Dの居場所を尋ねた。何度も聞いた私に、やっと答えた酒場に私はタクシーを飛ばした。
Cの自殺を自分の責任と泣きながら語ったDが哀れだった。しかし、彼のいる酒場が近くなった頃、突然、ある疑念が突き上げてきた。
酒場までは30分ほどだった。酒場の一番奥の隅に一人でタンブラーを前にしているDがいた。私を認めるとDは手を挙げて、自分の席を指さした。黙って座った私にDが笑みを浮かべながら言った。
「来てくれると思いましたよ、あなたは優しいから・・」。
その意外なほど快活な声を聞いて、私がタクシーの中で思い当たった疑念は確信に変わった。
「Cが身籠もった相手は、君なんだろう」。
私の強い口調にDは「とっくに、分かっていると思っていたんですがね」とさらりと応じた。
「俺は、俺達の間で起きたことの全ては、精神を病んでいたC自身に原因があると考えていた。しかし、実際はCが俺に語ったことが事実だったのか」。
興奮した私をなだめるようにDが言った。
「Cが精神を病んでいたのは事実ですよ。実際、精神病棟に長い間、入っていたんですから」。
「さっき電話で泣きながら、自分も死にたいと言ったのは、嘘だったんだな」。
「本当ですよ」。
そう言いながら彼の顔には笑みが浮かんでいた。
「何故、俺を呼んだんだ」。
「無論、あなたと、この切ない夜を共にしたかったからですよ。出来るなら、彼女を境界性人格障害の病名の元に精神病棟に閉じこめた矢嶋先生も呼びたかった。3人で悲しい彼女の死を悼みたかった」。
その言葉に私は我を忘れた。そしてDの胸ぐらを掴んでいた。その私の下でDの冷ややかな両の目が光っていた。
かつてのチャンピオンは私の腕をねじるようにしてのけると静かに言った。
「あんたは俺を卑劣な奴と言いたいのだろう。でもな、それはあんたも同じだよ。それに、Cの死に一番責任があるのは、あの母親だ。キリストが説いたのは、愛だろう。”汝の敵を愛せ”と言ったのは、キリストじゃないか。それなのに何だ。あの母親は。キリスト者だなんだか知らないが、まだ年はもいかないCを抱きしめることもしないで、ひたすら厳格この上ない毎日を送らせてきたあいつは何なんだ」。
Dはそう言うと、割れんばかりにテーブルを叩いた。
その光景を見ながら、私が感じていたのは、彼の心の闇だった。そして思った。最も精神を病んでいるのは、実はDだったのではないかと・・。Dが、再び笑みを浮かべて言った。
「でもCが死んであんたも、ほっとしたはずだ」。
私はDの言葉に何も言い返せなかった。
Dの元を去り家路に就きながら、私は考えていた。半年前、私と別れたCは日を置かずにDに会いに行ったのだろう。そのCを、Dはどう扱ったのか。恐らくDはCの母親と同じ様に、愛することが出来ない人間に違いない。では私はどうなのか。
― 自分にそう問いかけた時、私は、Cの死にほとんど心の痛みを感じていない自分を知った。そして心の中で、解放感を覚えている自分に突き当たって、思わずゾッとしたのだった。
(了)
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