#2

  初めて見学に行った翌日から、僕は“バリー・ジム”に通うようになった。

 「バンテージは薬局で売ってるから」

 ジムをあずかるコーチのスティーブンから言われたように、厚手の包帯を2巻き近所の薬局で買って、夕方の5時ごろジムに行くと、「G’day mate!(グダイ マイト!=オーストラリア式のあいさつ) How are ya?」 昨日会ったばかりだが、スティーブンは「元気か?」と、右手を差し出した。

 このジムはもうどれぐらいこの場所にあるのだろうか。

 奥にあるリングにはキャンバスも敷かれておらず、黒ずんだ木の床がむき出しになっていた。リングロープも、ロープというよりただの縄で、テーピング用の白い粘着テープがぐるぐると巻きつけられ、コーナーに立てられた4つの鉄柱の間にぶら下がっている。

 後になって知ったが、当時も、東洋太平洋・国内2冠のクルーザー級王者と、バンタム級の国内王者の、2人のチャンピオンがこのジムで練習していた。スティーブンが育てた中で、一番の出世頭だったのは、当時もライト級で世界ランク上位にいたシェーン・ノックスという選手だった。(彼はこの1年前の91年、元日本同級王者の中野猛仁を1回KOで倒していた)

 ジムにはやがて、それぞれその日の仕事を終えた男たちが、三々五々、集まってきた。リングの脇にいるスティーブンと握手をし、なにやら騒がしく冗談を言い合うと、着替えを済ませて練習を始める。

 ベンチに腰掛けて待っていると、「準備はいいか?」。スティーブンが両手にバンテージを巻き始めてくれた。くるくるときれいに拳を包み終えると、その端をびりびりと2つに裂いて、結んで止める。「いいか、左手と左足、右手と右足は一緒に前に出るんだ」。構え方からパンチの出し方までを一通り教えてもらい、見よう見まねで、練習を始めた。

 オーストラリアは移民の国だ。ジムに来る人間もさまざまだった。 白人もイギリス系から、ラテンぽい黒髪のイタリア系もいたし(イタリア系移民は多く、現在のオーストラリアで英語の次に話されている言葉はイタリア語だという)、ニュージーランドのマオリ系や、サモアなどの南方系の大男、黒い肌を持ったオーストラリア原住民のアボリジニの男たちなどなど。ほとんどがブルーカラーの労働者で、縄跳びの代わりに、工事現場にある黄色と黒のまだらのロープを跳んでいる男もいれば、運動靴がないらしく、裸足でスパーリングをしている少年もいた。アジア系だったのは自分1人で、物珍しそうな視線を浴びた。「どうせすぐやめるんだろ」。そう思われるのが癪で、意地でも毎日ジムに通い始めるようになった。

 スティーブンは当時35歳ぐらいで、自分で土木関係の会社をやっていると言っていた。20代のときに、Jr.ミドルでプロ8戦(81−83年)を戦ったが、これからというときに交通事故に遭い、選手生命を失った。家族はキャロリンという美人の年上の“奥さん”(当時はまだ結婚はしていなかったが)と、彼女の連れ子の子供が2人。上の女の子のビアンカと、弟のグレッグの2人の小学生は、いつも学校帰りにジムに入り浸っていた。特に当時小学校1、2年生だったチビのグレッグはいっぱしのボクサー気取りで、バンタムのチャンピオンに「スパーをしてくれ」とせがんでいた。こまっしゃくれていて、スティーブンのことは「ママのボーイフレンド」と言っていた(彼らの死別した父親もボクサーだったらしい。)
 僕にもしょっちゅう話しかけてきては、「ねえ、日本ってどこにあるの?」 でも次の質問では「それで中国ではみんな何を食べてるの?」と聞くのだった。そのたびにスティーブンから、「グレッグ、日本と中国は違う国だって何度言ったらわかるんだ!」と怒鳴られていた。

 スティーブンはジムの中でも外でも、みんなの“兄貴分”のような存在で、誰からも一目置かれていた。頑固で反骨的で、明るく、大声でよく話しよく笑う。乾いた大地の土ぼこりと強い太陽光に培われたような、いかにもオーストラリア人の典型といった感じだった。月曜から土曜までジムに出て、日曜もたいがい誰かの試合に付き添っていた。「ヒロム」という名前は覚えにくかったらしいが、僕の姿を見かけると「ヒロ!」と呼び、練習前にも後にも、必ず右手を出して握手をするのだった。

 とはいえ彼が付きっ切りで指導するのは、プロやアマの有望選手たちだけで、ジムに通い始めて間もないころは、自分が練習中に声をかけられることなどほとんどなかった。それはそうだろう。自分はといえばまだ体力もなく、サンドバッグを叩いているだけですぐに息があがるありさま。相手にもされていなかった。「強くなりたい」と、それなりに思いつめて通い始めたものの、情けなかった。気が遠くなって、このまま続けると酸欠で倒れそうにも思えるときこそ、

 ―だったらいっそのこと 死んじまえ

叩きながらそんなことを思っていた。

 

 その日も、1人バッグを打ち続けていた。

 ―あと何秒でこのラウンドが終わるんだろうか?

ふとまた弱気がよぎった、そのときだった。突然、遠くでほかの選手たちと話し込んでいたスティーブンの、低く短い声が、聞こえた。

 「C’mon, Hiro. Work it out」

 Work it out (何とかするんだ、切り抜けろ)とでも訳せるだろうか、その声に、もう1度力を込めて、スピードを上げた。

 「Good Work, Hiro」。 ラウンドが終わると、スティーブンが声をかけた。
 

 ボクサーになる前、高校を出てからしばらく、彼は、このブリスベンからもっと内陸部にある牧場で、カウボーイをしていたらしい。ヘリコプターで見回るような広い牧場で、「馬に乗って1週間も寝泊りしながら、牛たちの群れを追うんだ」と、楽しそうに話してくれた。ニュージーランドに渡って、スキー場で雪上車を運転していたときもあったという。

 ちなみに、出会ってから4年ほど後、彼は突如ジムを辞め、ブリスベンのずっと北西、1,800km以上も 離れた「マウント・アイザ」という鉱山の町に、仕事を見つけたと家族を連れて移り住んでしまうのだが、1年ほどすると、いつの間にかまたブリスベンに戻ってきて、バリー・ジムに程近いあるホテルに家族で住み込み、清掃員になっていた。(そのときも夕方になると、ホテルの地下の駐車場に、昔のジム生を集めてボクシングを教えていた)

 会うたびに仕事が変わっていたが、奥さんにも子供たちにとっても、彼はいつも頼れる力強い男だった。97年に僕は日本に帰ってきたが、風の噂に、彼らがシドニーに移り住んだと聞いた。

 

 3年ほど前にシドニーに行く機会があった。連絡先もわからなかったが、現地について、とりあえず電話帳を開き、1番はじめに目に付いたボクシングジムに電話をかけた。「スティーブン・デラーを探してるんだけど」。そう聞くと、電話に出た受付の女の人が笑いながら言った。
 「ラッキーね、彼ならここでコーチをしてるわよ」。

 夕方、電車に乗ってそのジムを訪ね、地下の練習場へ階段を下りると、懐かしい姿が飛び込んできた。初めて会ってからもう10年近くになるだろうか。やや年を食って、おっさんくさいセーターも着込んでいたが、「グダイ ヒロ!!」。大声を出すと右手を出し、「どこへ行ってたんだ!」と、顔を崩した。すると、リングの中にいた背の高い若いボクサーも、ロープをくぐって笑顔で抱きついてきた。「ヒロ!今もボクシングしてる?」。あのチビのグレッグだった。今ではアマのオーストラリア代表にもなって、タイのキングス・カップでも優勝したという。アテネ五輪に向けて、キューバとアメリカ、ヨーロッパへ遠征に行き、ちょうど帰ってきたところなんだと言った。スティーブンのことももう、「dad(父ちゃん)」と呼んでいた。
「せっかくだからスパーしようよ」 グレッグが誘う。練習道具は日本から持ってきていた。グローブを合わせて向き合う。成長した彼に力を追い越されていたが、楽しい時間だった。

楽しい再会。左から2人目がグレッグ、その横に筆者、その右奥がスティーブン 。


 そのまま彼らの家に夕食に呼ばれ、「スティーブン、それで今は何の仕事してるの?」ニヤニヤしながら聞くと、平気な顔をして、「プライベート・ディテクティブ(私立探偵)」と答えた。「債権の回収とかをね」という説明にも大笑いをしていると、奥さんのキャロリンもやってきて、「この人は仕事ではぜんぜんだめなのよ、マッチメーカーもしてるけど、去年なんかその収入より電話代のほうが高かったんだから」と笑った。ビジネスの才覚がある彼女は小さな会社を開いていて、家計は彼女の収入でまかなっているという。しかし、そう話すキャロリンやグレッグたちの顔を見ていると、彼らにとってスティーブンは相変わらず、頼れる夫であり、父親であるようだった。

 雨が降っていた。泊まり先まで送ってくれた帰りの車の中、「オレは仕事ではダメなんだよ、ヒロ」。悪びれているのかいないのか、スティーブンは助手席の僕にそう言うと、クスッと笑った。


 あれからまたしばらく時間が経ち、スティーブンの電話番号も、またつながらなくなった。でも、オーストラリアで彼を探すのは簡単だろう。

 そして自分も、今でもたびたび、あのときの彼の声を思い出す。

 「C’mon, Hiro. Work it out」という声を。

 

(以下次号)



思い出のボクシング Down Under by 丸山 汎 Back Number
・2005 思い出のボクシング Down Under#2
・2004 思い出のボクシング Down Under#1

2004年以前のバックナンバー(全体)

● 丸山 汎 (まるやま ひろむ)
1971年、東京都武蔵野市生まれ。小学校 2年から高校卒業までは長野県松本市で育つ。 91年、オーストラリアのクィーンズランド州ブリスベンに渡り、現地でボクシングを始める。97年、州立グリフィス大学人文学部を卒業し帰国。03年10月からサンケイスポーツの記者に。04年2月からボクシングを、05年2月からプロレスを担当、現在に至る。

 
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