|
私とチュワタナジムで共に汗を流したタイ人のクマントンと日本のジムに所属して再び世界戦線に復帰をもくろむフィリピン人の元世界チャンピオン、マルコム・ツニャカオとの東洋タイトルを賭けた一戦が先日行われた。
前回のタイトル奪取の試合では妻と娘を連れて行ったので、今回もゲンをかついで連れて行こうとしたが人ごみの中に娘を連れて行き風邪をひかせたくないと言う妻の主張を覆す事は結局出来なかった。
自分の試合では一度もゲンを担いだ事はないがこの試合だけは担ぎたかった。
10年以上もムエタイ戦士だったクマントンだがボクシングキャリアはたかだか2,3年しかない。対するツニャカオは一度は世界を極め今は無冠の身ながら名将三浦会長の下で初心に帰ってこの試合に臨んでくる。日本の気候にも慣れたツニャカオにとって後楽園ホールのリングはホームグラウンドにも等しい。
対するクマントンは大事な試合はいつでも敵地だ。しかしそれは東南アジアや中南米の全てのボクサーに言える事かもしれないが・・・・・・。

試合当日の夕方、クマントンの泊まるホテルへ着くとみんなロビーのソファーに座って待っていた。
クマントンが開口一番に「奥さんと娘さんは連れてこなかったのか?」と聞いてきた。首に縄を締めてでも連れてくればよかったと後悔しているとクマントンが席を立って「ここに座って」と自分が座っていたソファーを指差す。
大事な試合前にそんな気を使うクマントン・・・・・。心優しきこの男がたまらなくいとおしく思えた。
クマントンもツニャカオも遠い故郷で待つ二人の子供を養う為に決戦の地、後楽園ホールに来た。タイトルを守る者と奪う者。
この試合に敗れた者は二度とスポットライトを浴びる事はないだろう。そんな文字通り真に生き残りを賭けた一戦だった。
しかしこの試合に賭けるそんなクマントンの思いを裏切るかのように控え室は騒々しかった。どう見てもこの場にふさわしくないような連中が数少ないイスに緊張感のかけらもなく座っている。チャンピオンになるとどこからかわいて来てタイトルを失うと跡形も無く消えて行くそんな連中にもクマントンは優しい笑みを絶やさなかった。
トレーナーのデンさんがクマントンにバンテージを巻き始めた。元東洋チャンピオンでみょうな落ち着きをかもし出すデンさんにバンテージを巻いてもらうと不思議と心が落ち着いたものだ。
クマントンの右の手首に年季の入った古い紐のお守りが巻いてあった。そのお守りを包み込むようにして真っ白な包帯が幾重にも重なっていった・・・・・・。
ガウンを羽織る時クマントンが祈りを始めた。挑戦者だった前回の控え室ではこの時透徹した空気が部屋全体を支配していた。闘いの神へ、そして愛すべき家族へ祈ったその言葉が私には聞こえた。
しかし、今回猥雑な笑い声にかき消されその祈りを聞く事は出来なかった。
「こんな時って負けるんだよなぁ」沸き起こって来ようとするそんな思いを「クマントンはここで負ける訳にはいかないんだ!」そんな必死の思いで打ち消した。
ぎっしりと詰まった観客が待つリングへ向かう。戦場の最前線のリング下に陣取る。この場所で観る試合は例えどんな試合でも身が引き締まる。ましてやこの試合ならなおさらだ。
ガウンを脱ぐとその彫刻のような体が無数のライトに照らし出される。闘いの神ヘラクレスとしか形容出来ないその姿は限りなく神々しかった。

二人の運命を決する闘いが始まった。
長身のサウスポーであるツニャカオはオーソドックススタイルのボクサーにとって最もやりにくいタイプだ。
しかもフィリピンのサウスポーは重心を拳一つ分後ろに置く。このわずかな距離がボクサーの射程感覚を大きく狂わす。
当たらぬと感じながらも前に出て手をださねばならない。その行為が狡猾なカウンターの餌食になる事を承知しながらも・・・・・。
クマントンはその身を削りながら餌食になり続けた。ニヤリと笑う拳一つ分先にあるツニャカオの顔がどれだけ遠く感じただろうか・・・・・・。
ラウンドの大半をクマントンに攻めさせほんの僅かな隙にビッグパンチを当てポイントを掠め取って行く。しかも時折り放つそのパンチは恐ろしく鋭い。ダビデの彫刻を思わすクマントンの体が削り取られて行く・・・・・・。
リング下では小学校を卒業してから15年以上もチュワタナジムでクマントンと共に生きて来たムアンファーレックが叫ぶ。
クマントンの温かい人柄に惚れたわずかな数の日本人とタイ人が声を一つにして叫んだ。
クマントンはこのタイトルを失えばもう日本に呼ばれる事はないだろう。フィリピンやインドネシアで微々たる金で負け役としてリングに上がり続ける事になるだろう。そこでは戦士としての誇りも鍛えられた肉体が輝く事もゆるされない。そんな闘いをこれから続けていかなければならない。ただ家族を養うというその大きな責任の為だけに・・・・・・。
負けたらダメだクマントン。お前はここで負けたらダメなんだ!
「クマントーン!」声の限りに叫んだ。
闘いの終わりを告げる哀しいゴングが打ち鳴らされたその時までクマントンの戦士としての誇りとその肉体が色あせる事は一瞬たりともなかった。
勝利者コールを受けたツニャカオが腰を振りながら下劣なダンスを晒す。それを背に最後まで誇りを持って静かにリングの階段を降りてきたクマントンを精一杯の拍手で迎えた・・・・・・。

医務室に付き添う。ベッドにぐったりと横たわったクマントンが哀しく微笑み「ムズカシイ・・・・・」とささやく。
そうだなクマントン。お前にとってこの試合に勝つ事はとてつもなく難しい闘いだったな。お前の今までの生き方と同じようにそしてこれから待ち構えている人生と同じように・・・・・・。
ドクターがクマントンの拳に巻かれたバンテージをはさみを入れて切ろうとした時、こちらが驚くほどの勢いで拒絶した。私の方を見て右の手首を何度も指差す。その手首にはあのお守りが巻かれていた。
はさみは使わず一枚一枚丁寧にテープをはずして行く。やっと現れた奥さんの願いが詰まったそのお守りを確認すると安心したようにまたベッドにその体を横たえた。
タイトルは守れなかったがクマントンを守り抜いたそのお守りは決して切ってはならない。手放したチャンピオンベルト以上の価値がその色あせたお守りにはあった・・・・・・。
ホテルに帰る道すがらクマントンが無言で私の肩に手をかける。まるで私がなぐさめられているようだった。
ホテルに着くと以前チュワタナジムに所属していた山本さんがタイにいる弟のウェートに電話をかけてくれた。負けた兄を気使う弟の優しい声が受話器から漏れた。クマントンはその声にただただずっとうなずいていた・・・・・・。
別れの時が来た。クマントンは私の差し出した手を両手で包み込むと潤んだ目で微笑みながら言った。
「アリガトウ・・・・・・」
|