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2ラウンド目に入る。ナパーポンのパンチが硬い。グローブの中に石でも入ってるのか・・・・・殴られるたびにそう感じる。
特に叩きつけてくる様な右ストレートが強烈だ。顔に当たってから更にパンチが伸びて来る。フォロースルーの効いたその右をもらうたびに顔が後ろにのけぞる。首がねじ切れそうだ。接近して来たナパーポンに左フックを合わせた。相手の体が揺れる。すると更に攻め込んで来た。私のパンチをもらうたびにナパーポンの勢いは増して行く。その闘争心は底無しの様に思えた・・・・・・。
ゴングが鳴りコーナーに帰りイスに座ると、グッタリとした疲労感に襲われ愕然とする。クーラーの効いたラジャダムナン・スタジアムとは違い、屋外で昼間の日差しとライトに照らされて体力の消耗が驚くほど激しい。
頭からかけられた生ぬるい水が鼻血と合流して赤い水となって足元に流れて行く・・・・・・。
イスを立つ時、大量の水を吸ったトランクスが太ももにまとわりつき脱ぎ捨てたくなるほど重ダルく感じた。
3ラウンドもナパーポンの前進は止まらない。前に出る事しかインプットされていないロボットのようだ・・・・・・。硬質なパンチからそんな事を連想させた。
なんとか反撃する隙を探すが矢継ぎ早に飛んで来る石の様なパンチを防ぐので精一杯だ。
そして左の目尻に砥石で削られた様な痛みを感じたと同時に、目に血が流れ込んで来た。
利き目の左目が視界を失くし一気に心細くなる。なんとか相手のパンチを見ようと顔を左に向けて右目で相手を見る。
こうなると構えが崩れてカウンターが打てない。ナパーポンの攻撃をクリンチで凌ぐ。しかしナパーポンは他のボクサーと違い、クリンチされたらレフリーが割って入るまでおとなしくする、そんな考えは持ち合わせていなかった。
ベルトラインの上だろうが下だろうがお構い無しに殴りつけて来る。
レフリーにローブローのアピール等するスキも無い。
離れてもくっついても相手を殴り続ける事が、相手に最も早くそして最も強く絶望的な敗北感を植えつける最上の手段だ。
勝利への絶望の一歩手前で私を踏みとどまらせ、反撃の機をうかがわせたものは、「必ず勝つ」その一念だった。
4ラウンドに入る。最初は止血されているので視界がいい。反撃するのなら今しかない。ナパーポンをコーナーに詰めてパンチを放つ。初めての展開だ。受けに回るとディフェンスの苦手なナパーポンは弱い。ここぞとばかりに攻め込む。しかしいつの間にか体が入れ替わり今度はこっちが守勢一方になる。全力でパンチを放ったのでスタミナが一気に無くなる。足に力が入らずナパーポンの右をブロックしただけでよろよろとロープにもたれかかった・・・・・・。
当時のボクシングマガジンのタイリポートでは2ラウンドと4ラウンドは私が取った様に書かれてあったが、もし取ったとしたらこの4ラウンドだけだった・・・・・。
ゴングが鳴りコーナーに戻る。イスに座り下を向くとまた鼻血がこぼれて来る。鼻で呼吸が出来ないので肺に酸素が深く届かず体力が回復しない。左目には血が入り込み右目も塞がって来て視界は半分だ。
セコンドのウェンペットが「タカオ!ダイジョウブ?ダイジョウブ?」とうるさい。「大丈夫」そう答えた私に「試合ストップスル」と言って来た。
「冗談じゃない。俺はまだあきらめていない」そう思った私はウェンペットに今度は力強く「大丈夫」と答えてイスを立った。
5ラウンドに入りナパーポンは完全に私を仕留めにかかって来た。パンチを打つたびに出していた「ウォッ!」という声が更に大きくなり、攻撃のテンポも更に速まる。檻の中に追い詰められる寸前の獲物になった気分だ。とどめを刺されまいと、ロープに詰まりながら時折りカウンターを返すが焼け石に水でその勢いは増すばかりだ。
なんとかゴングに救われてコーナーに帰る。なぜか試合中は止まっている鼻血がまた噴き出す。ウェンペットが先程とは違う決然とした調子で「タカオ!会長が試合ストップする言ってる。もう終わり!」と言った。
「いや、まだだ、まだ出来る」その気持ちを訴えようと私はアモウ会長の方を見た。アモウ会長は私と目が合うと渋い表情で顔をゆっくりと横に振った。
「もう1ラウンドだけやらせてくれ!」そんな言葉がタイ語で言えず「ワンモアラウンド!ワンモア!」と会長に向かって叫んだ。
一瞬周りの音が何も聞こえなくなり、時間が止まった様に感じた。
アモウ会長は困った顔をしながらも2,3度うなずいた。
「このラウンドで最後だ。全ての力を出し切れ」私は自分に語りコーナーを出た。
これで最後だ。そう思うとどこにこんな力が残っていたのか、そう驚くぐらい手が出る。今までロボットの様に無表情を通して来たナパーポンが初めて人間的な弱気な顔を見せた。何度かいいパンチを当てナパーポンを後退させる・・・・・。
しかし、私の最後の力を振り絞った反撃はそう長くは続かなかった。ナパーポンがこれもまた初めて見せる人間的な怒りの表情で迫って来る。
もうクリンチする事しか出来ない。レフリーが割って入り私とナパーポンを引き離す。レフリーに押されると足の踏ん張りがきかず、ヨロヨロと後ろに下がり背中にロープが当たってやっと止まった。
ナパーポンが執拗にボディーを攻めて来る。体が丸くなりもう自分の足元しか見えない・・・・・・。
どれだけナパーポンの荒々しい攻撃に晒され続けただろうか・・・・・・。とても長い時間に感じられる。
もう、目の前は真っ暗だ・・・・・・。
そしてレフリーが間に入りナパーポンの攻撃を止め、試合終了を宣告した。
そのまだ若いタイ人のレフリーは私の首に手をまわすと、胸元に引き寄せ背中を叩きながら「よくやったな」そんな意味の言葉を口にした。
レフリーに支えられてコーナーに帰る途中ナパーポンが私の尻をポンポンと叩いたが、それに応える余裕はなかった。
試合は終わった。
迎えに来たウェンペットの肩を借りながら、リングを静かに降りた・・・・・・。
木陰のパイプイスにグッタリと座る。タイでは日本と違い当たり前のようだが、試合後のリングシューズの紐は自分でほどく。しかし、固く縛られた紐をほどく気力も無くただ呆然と足元を眺め続けていた。するとかたわらにいた妻がしゃがみ込み慣れない手つきで紐をほどき始めた。口をギュッと結び何かを耐えてる様な妻の顔を眺めながら「遺書は書かなくて良かったな・・・・・・」そんな事を思った。
バンテージとリングシューズとトランクスの下のノーファルカップをはずすと生き返った心地になる。妻が「あっ」と声を出すので振り返ると当時世界チャンピオンだったウィラポンが笑顔で握手を求めて来た。偉大な世界チャンピオンに健闘を称えられ照れくさかった。
木陰を出て抜けるような青空を見上げる。試合に負けたというのに、爽やかな青空のせいか、強敵相手に全力を出し切ったからか、なぜかまったく悔しくない。
「試合に負けて悔しくないようだったら、俺ももう終わりだな・・・・・・」
ナパーポンは私の最後の対戦者に相応しい相手だった。もうこれ以上燃える試合もないだろう。これで引退しよう・・・・・・。そう思っていると、「もう一度大きな試合がある」なぜかそんな気がする。
そんな事を青空を見上げながら考えていると、ふっと思った。「子供を作ろう」と。
私はプロボクサーに成った時、自分に二つの禁止事項を課していた。
一つは交通事故で夭折された元世界チャンピオンの故大場政夫氏の教訓から、車の運転はしない事。
もう一つはボクシングに全てを捧げる為、結婚しない事だった。
一度引退して結婚し、再起するにあたり、現役中は子供を作らない、と新たに禁止事項に加えた。子供がいるとリングの上で死ぬ覚悟が出来ない、そう思ったからだ。
もし子供が生まれたら、殺るか殺られるかのこの世界からスッパリと足を洗い、次の道に進もう。そう決めた。
広大な青空を真っ直ぐに突っ切って行く真っ白な飛行機雲を、飽きずに眺め続けた・・・・・・。 |