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長い距離を歩き青コーナー側のリング下にたどり着く。
後楽園ホールの時と同じ様に階段を昇る前にすべり止めのマツヤニをリングシューズにこすり付ける。
驚く事にその粉の入っている箱の片隅にゴキブリの死骸があった。
ここでは誰もそんな事など気に止めはしない。
顔を上げやたら高く見えるリングへの階段を上がりデンさんが乗って低くしてくれた最上段のロープをタイ式にまたいでリングへと入った。
緊張のあまりロープに足が引っ掛かったらどうしようかと心配していたが、無事キャンパスに両足を着けた瞬間、少しホッとした。
リングアナウンサーが選手紹介を始める。体をほぐそうと動きながら聞き耳を立てていると「タカオ・チュワタナ〜」と私のリングネームが呼ばれたので軽く右手を上げた。
拍手や歓声等もちろん無い。
レフリーに呼ばれリング中央で対戦相手と対峙する。
ワセリンをたっぷり塗った浅黒い顔がライトの熱い光を受けて黒光りを発していた。相手の緊張感が伝わり否応無くこちらも緊張する。
コーナーに戻るとデンさんが私の口に無機質なマウスピースを押し込んだ。
ゴングが鳴った。私は足を使って距離を取り様子を見る。相手の小さな8オンスのグローブを見るとイヤでも緊張感が増してくる。体に無駄な力が入りどうもスムーズにパンチが放てない。まるで他人の体を使って闘っているようなどうしようもないもどかしさだ。長期ブランクの影響を身にしみて感じた。
やっと1ラウンド終了のゴングが鳴りコーナーに戻るとジンチョーデンとデンさんが体に水をかけて腕と足をせっせとマッサージしながら各々が大声で支持を出す。呼吸を整える暇も無くあっと言う間に一分間が過ぎ去った。
そこから先の記憶は断片的にしかない。
3ラウンド、右ストレートのカウンターが当たり相手が片膝をマットに着いたがレフリーはスリップと判定した。
「やはりここは敵地だ。倒さなければ勝てない」
私は倒そう倒そうと更に力みかかりスピードの入らないパンチを繰り出し続け体力を浪費した。
そして最終ラウンドを控えたインターバル中に私の記憶ははっきりと蘇る。
私は土壇場になった時に自分を奮い起たせる言葉を試合が決まってからずっと考えていた。
言葉の通じない外国では弱った自分を叱咤出来るのは自分一人しかいない。
その言葉を吐く時が来た。
「お前はこんな所にわざわざ負けに来たのか!」
イスに座りながら「負けるかも知れない・・・・・」と弱気になりかける自分に聞こえる様に声を出して喝を入れた。
それまで騒がしかったセコンド陣が驚いて一瞬静かになる。
この一言で完全に気合が入りそして頭も鮮明になった。
最終ラウンド開始まで残り数十秒になった中、私は思いを巡らせた。
自分に残された体力は僅かだ。今まで通りこのまま相手に合わせて打ち合っていたら勝てない。なんとかして倒さなくてはならない。ここは敵地なのだから・・・・・。
私は自分が最も信頼するブローである左フックのカウンター一本に神経と体力を集中する事に決めてコーナーを立った。
相手もポイントがせっているのは重々承知だ。残った体力を絞り出すようにして向かって来た。
手数に押されロープに詰まりながら相手のコンビネーションのパターンを読む。
そして「来た!」と思った刹那、温存していた左腕を小さく、そして鋭く振り抜いた。
相手がヨロヨロ・・・っと後退する。すかさず追撃すると相手は土下座をする様に両方のグローブと両膝をマットに着けた。
今度はレフリーもダウンを宣告する。
青コーナー側から妻とジンチョーデンの叫び声が聞こえた。
二人の声援をバックに立ち上がって来た相手に襲い掛かる。
相手はもう一度倒れた。しかし今度はレフリーはスリップと判定した。
「どうしても倒すんだ」そう思うが体が重くて言う事を聞かない。
妻が「ラスト30だよ!」とリングサイドから叫ぶ。
私はもう倒れこみたい程の疲労を感じながらただ前に出た。
最終ラウンド終了のゴングが鳴る。コーナーに戻るとジンチョーデンが笑顔で「勝った勝った!」と言って頭の上で手を叩きながら迎えてくれたが勝敗はまったくわからなかった。
ジャッジペーパーを集めて周るレフリーを目で追う。判定が待ち長い。
レフリーがサッと私の方を指差す。引力で引っ張られるようにしてリング中央に向かい、レフリーに右手を持ち上げられながら「生き残った・・・・・」と、安堵のため息をつく。
リングを降りる時「おめでとう!」と妻の声がした。
見ると泣きながら笑っていた。
ジンチョーデンもデンさんもみんな笑っている。つられて私も久々に笑った。やっぱり勝利の味は格別だった。
控え室に戻りバンテージをはずす。幾重にも巻かれた白い包帯を全て取り去られると、まるで手錠を外された囚人の様にほっとする。そしてシャワー室に入り生ぬるい水を浴びる。「俺は勝ったんだ」実感がじわじわと沸いて来る。逆に負けた時も「俺は負けたのか・・・・・」と重い失望感に襲われ、誰はばかる事無く悔し涙を流せるのがこのシャワーを浴びている時だ。
「勝って良かった・・・・・」とあらゆる全ての物に感謝した。
着替えを済ませ控え室を出るとヤイさんが来て私に無造作にお金を渡す。一瞬意味がわからなかったがどうやらファイトマネーのようだ。私はお金がもらえるなんて考えてもいなかったので3枚の1000バーツ(約9000円)を手にして驚いた。
日本の感覚で見たら1試合が9000円とは格安だろうが、日本の様にチケットを束で渡され試合前に自分で売りさばきダフ屋の様な事をやらされるよりよっぽど良心的だと思った。
後で知ったが通常ファイトマネーの中からセコンドに付いてくれたり世話をしてくれた人達に300バーツ(約900円)程を渡すのが暗黙のルールらしい。
残りの6000円程が6ラウンド殴りあった対価となる。
ラジャダムナンスタジアムの外に出る。凄い土砂降りだった。やけに大きな雷が連続で落ちまくっている。
その巨大な雷鳴は、これからのタイでの険しい闘いの道を暗示している様だと、雨と風が吹き荒れる黒い空を眺めながら思った。
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