|
シンヌンに道案内されてジムにたどり着いた私は早速ジムワークの準備に取り掛かった。
20人程のムエタイの選手が一斉にロープ跳びを始める。その間5,6人程のボクサーがリングの中でシャドーをやり順番にミット打ちをやる。
他のボクサーがミットを持ってもらっている間、所在無げにシャドーをやっていると前歯の欠けた人懐っこい笑顔の男が私の前にミットを広げ「打って来い」とジェスチャーする。
誰も私に話しかけてこず、よそ者気分を味わっていた私は彼の行為がとても嬉しかった。
それが私の親友となるジンチョーデンとの初めての出会いだった。
ジンチョーデンはトレーナーをしながら奥さんと小さな男の子と一緒にジムに住んでおり、元ムエタイ戦士だがボクシングが好きで当時の人気ボクサー、フェリックス・トリニダードの愛称である「ティト」を一人息子の名前にしていて、野口恭とか日本のボクサーも知らない昔のボクサーの名前を知っていた。
インターバルの時リングの下からシンヌンが私にペットボトル入りの水を渡してくれた。思わず「ありがとう」と日本語でお礼を言う。シンヌンは少し照れた様な表情を見せると奥の方に消えた。シンヌンは練習をしないようだ。
しかしムエタイの選手達はまったりとした熱気の中30分もぶっ続けでロープを飛んでいた。その体力に驚く。
準備の出来たムエタイの選手達がリングに上がるのと入れ替えにボクサー達はサンドバッグ打ち等に入る。ムエタイの選手達のミット打ちは圧巻だった。凄まじい爆裂音が響き渡る。このキックをもらったら一発で終わりだと思う程の破壊力のある蹴りが立て続けに飛び出す。
想像を絶するそれらの技を眺めながら、ムエタイ上がりのボクサーが強いのは当たり前だなと思った。
一時間半程の練習が終わるとアモウ会長の奥さんが私達が住む事になるアパートに道案内をしてくれた。ジムから2,3分程の距離にある4階建てのアパートの中に6畳程の部屋があった。クーラーが付いている部屋は値段が高くなるとの事なので私は迷わずクーラー無しの部屋を選んだ。それでも3千バーツ(約9千円)と安かった。それまでおんぼろの安宿に寝泊りしていたのでこの質素な部屋がホテルの様に思えた。
翌朝6時にロードワークだと言われ、薄暗い朝ジムに行くとすでに全員ジムの周囲をけっこうなペースで走っていた。一周約1キロを10周程走る。早朝とはいえ蒸し暑い。托鉢にまわるお坊さんを追い越し汗だくになって走った。
ロードワークが終わると全員近くの屋台でジュースを飲んで水分補給をする。小銭を持って来てない私は彼らを見るとも無く眺めていた。ジュースを飲み終えみんなぞろぞろと引き上げてきたので私も帰ろうとすると、ジンチョ−デンが「これから練習だ」と言う。
「練習!?」驚いてジムに行くとみんなバンテージを巻きだしているではないか。そして普通にミット打ちを始めた。朝っぱらからミット打ちなんて聞いたことが無い。私は道具を持って来てない事をいい事に見学していたが、ミット打ちの後サンドバッグもやり筋トレもやる彼らの体力に圧倒された。
6時前に家を出て帰って来たのは8時半だった。
それからシャワーを浴び、近くの屋台で食事を済まして一寝入りするともう昼過ぎだ。ジムワークは2時に始まる。さっきジムに行ったばかりなのにまたジムへと向かう。まさにボクシング三昧の生活だ。
ジムに行くと球蹴りをしたりテレビをみたりとみんなリラックスしているが、練習の時間が来るとぞろぞろと集まって来て一転して無言で準備に取り掛かる。
佐藤さんの他にもう一人丸山さんというキックボクサーがいた。佐藤さんといい丸山さんといい二人とも実に爽やかだ。ボクサーとキックボクサーははたから見たら同じ様に見えるだろうが、私には全く別人種のように思えた。
佐藤さんも丸山さんも明日ラジャダムナンスタジアムで試合だと言う。少しでも試合の雰囲気に慣れたい私は同行する事にした。
名前だけは何度も聞いたことがあるキックの殿堂ラジャダムナンスタジアム。私は緊張の面持ちで翌日夕方ジムに行った。この日は日曜日で練習が休みという事もありジムにはまったりとした時間が流れていた。
所在無げにリングに座りロープにもたれ掛かっていると、シンヌンが目の前を通った。後ろにはPABAチャンピオンのプラウェートがスポーツバッグを持ってついている。聞くとこれから試合だと言う。シンヌンに「一緒に行きたい」と言うと無表情なまま黙ってうなずいた。
通りに出てオート三輪のトゥクトゥクに三人で乗る。シンヌンは機嫌が悪そうにブスッとしている。試合前の緊張感、とは少し違う感じがした。
渋滞の中10分程乗るとラジャダムナン・スタジアムに着いた。「これがあのラジャダムナンかぁ」と見上げていると、シンヌンは足早に中に入って行く。後ろに付いて行き薄暗くだだっ広い控え室に入って驚いた。
控え室が一つしかないのだ。
敵も味方も入り乱れて各々敵陣営との距離を微妙に取りながら準備をしている。試合前に自分の表情を相手に見られるのはあまり良い気分はしないだろう。逆にこっちも相手の準備の進み具合等が気になり集中力に欠けるかもしれない。
かなりタフな精神が要求される、そう思った。
シンヌンは淡々と準備に取り掛かる。服を脱いだシンヌンの体を見て驚く。
腹が締まり無くでっぷりと出ていた。
シンヌンのそのおよそボクサーの腹とは思えないその姿を眺めて気分が暗くなるのを感じた。
シンヌンの出番が来た。プラウェートがガウンを着せる。そのガウンは5年前にあのルイシト・エスピノサとの歴史に残る激闘の時に着ていたあの真紅のガウンだった。
背中にはTYUWATTANAJYMと書かれていた。あの時は背中のロゴには気が付かなかったが、ジムの名前が書かれてあるところを見るとシンヌン専用ではなくチュワタナジムのボクサー共用なのだろう。
5年の月日を感じさせる様に、私の目の前にあるそのガウンはすっかり色落ちしヨレヨレになっていた。
弛緩した体にヨレヨレのガウンを羽織ってリングに向かって行くシンヌンの後ろ姿を物悲しい思いで眺めながらリングサイドに陣取った。
観客はまばらだ。シンヌンの名前がコールされても拍手すら起きない。私は立ち上がり一人で手を叩いた。
試合が始まる。相手は緊張の面持ちだ。意を決した様に数発のパンチを放った。力が不必要に入ったぎこちないそれらのパンチをシンヌンはことごとくもらった。
シンヌンは体を振るがあまりにもスローモーだ。動きが止まった所を狙い打ちされる。「これがあのシンヌンか・・・・・」試合に付いて来た事を後悔した。
「シンヌン」とはタイ語で「若獅子」を意味する。
かつての若き百獣の王は老いさらばえたその体をハイエナ程の小物に成すすべなく噛まれ続けた・・・・・。
1ラウンドが終わりコーナーに帰って来た色白のシンヌンの顔が赤く染まっていた。
2ラウンドに入る。シンヌンは今まで温存していた右を振り抜いた。相手が棒の様になってドッと倒れた。
レフリーがカウントを数えずに担架を呼ぶ。
衰えたとは言えやはりシンヌンのパンチ力は凄い。勝利者コールーを受けて相変わらずブスッとした顔でリングを降りて来たシンヌンの背中を「良かった良かった」と言って私はポンポンと叩いた。
するとシンヌンはギロッと私をにらんだ。
一瞬たじろぐ。
その目には悲しい怒りが込められていた。
「こんな無様な試合で喜ぶなよ」シンヌンはそう言いたかったのだろう。
薄暗い控え室に消えて行くシンヌンの悲しい後ろ姿を、やり切れない思いで見つめた。 |