ROUND 2

 残暑の厳しい9月にメキシコから帰国してすでに季節は冬真っ只中に入っていた。

 この時の仕事内容は今でも忘れる事が出来ない。それは見るからに冷たく勢いよく流れる川に入っての護岸工事だった。

 川に入ると雨靴の上から指先を刺す様な冷たさが伝わる。上半身には冷気を含んだ霧島降ろしが吹き付ける。誤って深みに入ると雨靴の中に容赦なく氷水のような冷たさを伴った水がドッと入ってくる。鼻水が止まらない。みんな無言で氷の様に冷たくなっている川底の石を拾い積み上げる。

 その姿はまるでギリシャ神話の中で罪人シーシュポスが神に与えられた刑罰を思わせた。

 シーシュポスは大岩を山の頂まで運ぶ刑を科せられるが、やっとの思いでその大岩を頂上まで運んだ瞬間、その大岩は音をたてて落ちて行く。そして永遠にシーシュポスはその岩を運び続ける・・・・・・。

 ボクシングがやりたいのに出来ないと言う苦しさは、まさに不条理そのものだった。

 セメントで塗り固められたその石達が崩れる事はないが、いつ終わるとも知れないこの作業中、考える事はいつもボクシングの事だった。

 「このまま終わってたまるか!」自分を奮い立たせ後楽園ホールのリングに上がっている姿を心に描く。

 休憩中燃え上がる焚き火に当たる。その炎を見つめながら「やっぱり無理かも・・・・・・」と弱気になる。

 そんな事を何度も繰り返しながら仕事を終え、その足で高校のボクシング部に通いひたすらサンドバッグを殴り続けた。

 そして春が来た。

 そんなある日、本屋で一冊の本にふと目が止まった。宮崎学氏の「幇という生き方」だ。手に取るが副題に「中国人マフィアの首領の手記」と書いてあったので、「なんだヤクザ物か・・・・・」とその本を棚に返した。

 しかし帰宅後、どうもあの本の事が気になる。やっぱり買っとけば良かった・・・・・そう思い翌日再びその本屋に入ると遠くからでもすぐ見つけられた。なぜならその本だけが光って見えたからだ。

 本が光るなんてことは始めての経験だったが、とにかくその本を買い帰宅後早速読み始めた。

 ページをめくるのももどかしい程話しに引き込まれて行く。

 内容は実在の人物の竹村英雄氏が事件に巻き込まれ日本を脱出し、数奇な運命に翻弄されながらアジアを舞台にベトナム戦争やカンボジアのポルポト派の住民虐殺事件等に絡み、その命を熱く燃やし続けるまさに血沸き肉踊る物語だった。

 二日にかけて読み終えた私は体中が熱く燃えている事に気が付いた。

 「そうだ!俺も竹村さんの様にアジアで熱く生きよう!ちっちゃな日本だけでやろうとするからダメなんだ。」

 今まで海外でボクシングをやろうと思えばメキシコやアメリカぐらいしか考えていなかったが、同じアジアの人間である私はアジアを舞台にすべきだ、と思った。

 「アジアでボクシングが最も盛んな国と言えば・・・・・タイだ。そうだ!タイに行こう!」

 今まで心の中で鬱屈していたもやもやが一気に晴れて行く。

 私は早速タイの情報を集め、ロードワークも久々に始めた。

 目標が出来るとこうも違うものか・・・・・自分でも驚くぐらい私は別人の様に生まれ変わった。

 「早くタイに・・・・・」はやる気持ちを抑えながら体を一から鍛えなおし、タイ語の勉強も始めた。

 そして二ヶ月程が過ぎタイ行きのチケットを予約して準備万端整った頃、何度かタイの情報を私に送ってくれていた河合さんから連絡が入り、「今週タイのボクシング事情に詳しい人がタイから選手を連れて大阪に来るので、タイに行く前にその人に話しを聞いてみたらどうですか?」と言う。

 少し悩んだがチケットを変更し、大阪に寄ってからタイに飛ぶ事にした。

 ついに故郷宮崎を後にする日が来た。メキシコから帰国後すでに9ヶ月が過ぎていた。

 妹が運転する車に乗り空港へと向かう。途中この前まで働いていた工事現場を通り過ぎる。遠くに私のメキシコ土産のカウボーイの帽子をかぶり仕事をしている父親の姿が見えた。

 タイ出発に際し父親とはほとんど言葉を交わさなかったが、お互い何が言いたいかわかっているような気がした。

 30才にして初めて父親と親子の絆の様な物を感じた。

 9ヶ月にわたる月日もあながち無駄ではなかったようだ・・・・・。

 空港へ向かう途中後ろに子供の頃から飽きずに眺め続けた霧島山が見える。その端麗で雄大な姿をその目にしっかりと焼き付けた。

 空港に着く。途端に母親と妹の口数が少なくなる。搭乗口での別れの時は必ず二人共目を真っ赤にして私を見送ってくれる。

 普通の仕事をしていればこんなに心配をかける事もないのに・・・・・と、いつも申し訳なく思う。

 19才の時東京に向けて宮崎空港を飛び立ってから、30才の今までわがままばかりで親孝行の一つもせず、兄らしい事も何一つ出来ず、ずっと心配のかけ通しだったが、今度のタイでそれも終わりだ、そう自分に言い聞かせ宮崎空港を飛び立った。

 伊丹空港に降り立ちその足で河合さんと合流しエディージムに向かう。エディージムには4回戦ボーイの時にお世話になった村田英次郎会長がいる。会長室で河合さんのラストファイトになったソムサック戦のビデオを観る。ソムサックは端正な顔立ちとその風貌に相応しいスタイリッシュなボクシングをする。「なかなかいいボクサーだ・・・・・・」そんな感想を持ったソムサックと1年後にPABAタイトルを賭けて闘う事になるとは想像も出来なかった。

 村田会長は私の為に送別会を開いてくれた。昔と変わらぬその優しさに感謝した。 

 そして翌日タイのボクシング事情に詳しい方と会い話しを聞いた。その人が紹介出来るジムは3つあると言う。

 1つはチタラダジム、ギャラクシージム、そしてチュワタナジムだった。

 チタラダジムには元世界チャンピオンのソット・チタラダがいて、ギャラクシージムにはタイの英雄カオサイ・ギャラクシーがいて、チュワタナジムにはあまり有名ではないが元世界チャンピオンのダオルン・チュワタナがいた。

 その人が話しを続ける。タイでは外国人に関してはジムによって月謝がまったく違う事。そしてその値段がべらぼうに高い事。

 その内訳はチタラダジムが一日100バーツ(約300円)ギャラクシージムが1日200バーツ(約600円)チュワタナジムが一日300バーツ(約900円)だと言う。

 それを聞いて思わず「それ本当ですか!」と声を上げた。

 メキシコでは月謝はせいぜい高くて千円ぐらいだったのでタイもそれぐらいだろうと高をくくっていたが、タイではメキシコの月謝分が一日の練習代だと言う。

 出来るだけ長くタイにいたい私は一番月謝が安く当時一番有名だったチタラダジムに行こうと考えた。

 そして私は念の為にマッチメークの力が一番あるのはどこか聞いた。するとその人は間髪入れずに「それはチュワタナだよ」と答えた。

 私は悩んだ。ボクサーが上に行く為には選手の実力が必要なのはもちろんだが、それ以上にジムのマッチメークの力が物を言う。

 私のボクシング人生を限られた資金で悔いなく終わらせる為には出来るだけ長く滞在し完全に燃え尽きたい・・・・・。

 しかしすでに選手寿命が尽きようとしていた私には、無駄な時間は残されていない。私はマッチメークの力に賭ける事にした。

 「チュワタナジムでお願いします」

 その人は「わかった」と言ってうなずいた。 

 チュワタナジムの連絡先を聞いた私は妻を連れて大阪の街を歩いた。練習代の事を考えると気分が滅入り無言になる。

 「大阪に行ったらおいしいお好み焼きが食べたい!」と、宮崎にいる時からずっと一人ではしゃいでいた妻が「私今日はお腹一杯だから何もいらない・・・・・」と健気に言う。

 「お前がそんな事を心配するな」と言いながらほろ苦い想いを飲み込んだ・・・・・・。

 その日の夜は河合さんの自宅に泊まる事になった。一緒に銭湯に行き夜中の3時までメキシコの懐かしい写真等を見ながら語らった。

 そして翌日の早朝関空へと向かう。河合さんはわざわざ空港まで見送りに来てくれた。

 搭乗口で河合さんに「頑張って来て下さい!」と言われ「ありがとうございます」そう言ってガッチリと固い握手をした。

 機上の人となり、まだ見ぬタイに思いを馳せる。「なんとかなるはずだ。タイが俺を呼んでいる」

 私のボクシング人生最後の、そして最高に熱い1年間にわたる闘いの日々が、始まろうとしていた。


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●池田高雄(いけだたかお)
昭和44年宮崎生まれ。平成元年プロデビュー。リングネームは憧れのボクサー高橋ナオト氏にあやかり池田タカオ。B級、A級各トーナメントを制し95年にクリス・サギドの持つ東洋タイトルに挑むも判定負け。同年引退。3年半後にメキシコに渡り紆余曲折を経て妻を連れタイへ。タカオ・チュワタナの名で1年間に9戦し、2001年空位のPABA王座を後のWBAスーパーバンタム級王者のソムサックと争い7ラウンドTKO負けを喫し完全引退。元日本、東洋、タイ、ともに1位。

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