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メキシコから帰国した私は成田からその足で金子ジムに向かい移籍の話しをしたが問答無用に却下された。今思えば何年も連絡を取らずいきなり現れて「移籍させてくれ」では話しもまとまるはずがない。
「急いては事を仕損じる」だが早く移籍して後楽園ホールのリングに立ちたいと願う私は焦って周りが冷静に見えていなかった。
交渉決裂後ジムを飛び出した私はその足で移籍を希望していたジムへ向かいその胸の内を語ったが、何の根回しも無く突然訪れた私はていよく追い払われた。
翌日もそのジムに向かい移籍を懇願したがこの業界のしきたりを甘く見ていた私に移籍の道は開かれなかった。
ジムの外で待たせていた妻を連れトボトボと駅へ向かい茫然自失でベンチに腰掛けた。
「これからどうすればいいんだ・・・・・・俺のボクシング人生はもうこれで終わりなのか・・・・・・」そう思うと完全に思考が停止してしまった。
目の前に止まりそして発車して行く電車を何度見送っただろうか、ふと気が付くともう一時間も経過していた。東京での滞在はお金がかかる。財布を見ると故郷の宮崎に帰れるだけのお金がギリギリ残っていた。
立ち上がれない程打ちのめされた時、必ず目の前には故郷宮崎の懐かしい風景が現れる。
私は妻を連れその足で羽田へと向かった。
浜松町でモノレールに乗り換える。一人で一番前の席に座る。遅れてやって来た妻が後ろに座った。そして「こんなにボクシングを愛している人が、なんでボクシングが出来ないの・・・・・」とすすり泣きをしながら言う。
その言葉を聞いた瞬間、今まで抑えていたものが一気に溢れて来た。目の前に真っ直ぐに伸びる太い一本のレールがグニャリと曲がり、そして何も見えなくなった・・・・・・・。
宮崎に帰った私はしばらく何も手がつかなかった。
メキシコであんないい経験が出来たんだからもういいじゃないか、何度もそう自分に思い込ませようとしたが、ダメだった。
どうしても後楽園ホールのあのリングにもう一度立ちたい。心の底から湧き上がって来るこの熱い想いを抑える事は出来なかった。
移籍には百万単位の金がかかる。そんな大金等どこにもない。途方に暮れて無為に日々を過ごしていたが、そんなある日父親が「ここに百万あるからこれを持って早く東京に行って来い」と言う。
私が小学生の時に離婚した父親はその後土木会社を営んでいたが、折りからの公共工事の削減で仕事が減り最近従業員を半分に減らしたが経営は非常に苦しいようだった。
どこにこんなお金があったのかとしつこく聞くと、再婚した奥さんが脳に腫瘍が出来、余命幾ばくも無い事を悟り父親の老後の為にとコツコツと貯めていた貯金だと言う。
その奥さんも私が帰国する一月前に他界されていた・・・・・。
私が中学生の時「将来はプロボクサーになる」と言うと「危ないからやめろ」と反対され「お父さんにそんな事を言う資格があるのか!」と言い放った事もあった。
その後日本での現役時代、田舎に帰る度に「早くボクシングをやめろ」と一貫して私がボクシングをやる事に反対してきた父親が、亡くした奥さんが貯めた大事なお金を差し出しもう一度ボクシングをやれ、と言う。
私は父親に対して初めて大きな感謝の念を持った。しかしそんな大事なお金を私の我がままの為に使うわけにはいかない。
しばらく悩んだ後、私は父親の会社で働き給料をもらいそのお金を貯めて東京に行く事に決めた。
次の日から慣れない土方仕事が私の日課となった。
日本でのボクサー引退後父親に、将来は治療家の道に進みたいと話したところ「どうせすぐ死ぬ年寄りを一生懸命治してなんになる?お前にはそんな仕事は向いていない。それより土木の仕事はおもしろいぞぉ」と熱く語っていたが、確かに青空のもと土の匂いをかぎながら汗をかき、10時にお茶を飲み昼には木陰で弁当を食べ3時にはのどかにお菓子と共に再びお茶を飲み、夕焼けが出始めた頃家路に着くそのパターンは本来あるべき仕事の姿だった。
しかし休憩中飲んだコーヒーやお茶の空き缶をみんな無造作にポイッと捨てて行く。私はそれらを拾い集めて会社に持って帰ると、父親に「ゴミを持って帰って来る奴があるか!ゴミは捨ててくるもんだ」と言われ土木業界の人達のモラルの低さを嘆いた。
自分達が住む美しい山や川を切り崩し用もないのに道路を舗装したりするその仕事内容に疑問を持った私はある日父親に「こんな仕事をしてなんの意味があるのか?」と聞いた。すると「意味なんかない。働く事に意義があるんだ」と言われ、変に納得した。
しかしそんな穏やかな日々を過ごしながらも私の心はいつもどんよりと曇っていた。
雄大な霧島山をバックに美しい夕焼けが空一面に広がる。故郷の都城でしか見れない貴重な景色を眺めながらもどうしても心から感動出来なかった。
ボクシングをやりたいのにやれないという苦しさは専門学校時代にも味わったが、あの時はメキシコに行くという目標があったが今は何も無い。
仕事中メキシコでの充実した日々を思い出し「みんな今頃どうしているだろうか・・・・・・」等と感傷に浸る毎日だった。
そんなある日近所にボクシング部のある高校があり、そこにふらっと散歩に行った。窓から中を覗いていると監督が私の事を知っていて今度練習に来なさいと言う。早速翌日から久々のジムワークが始まった。
いくら高校のボクシング部とはいえよそのジムでは気を使う。私は一番端っこにあるサンドバッグだけをひたすら叩き続けた。
今までの鬱屈した想いをぶちまける。自分でも驚く程のパワーを感じる。現役時代よりも強くなっている様な気がした。
ジムワークを終え家路に着く道すがら「早くリングに上がりたい・・・・・・」抑えようの無い熱い想いが沸々と湧き上がって来る。しかしどうしていいかわからず、どうする事も出来ず家に帰ると部屋の電気もつけずにボーっと座り込んでいた。
そんなある日メキシコで知り合った河合さんから電話があり、今度タイでWBFのチャンピオン、ソムサックに挑戦する事を聞いた。応援に行きたかったが自分の事で精一杯でそれどころではなかった。
その頃倫太郎君から「メキシコを去って再びラスベガスに向かう」との手紙が届いた。みんなそれぞれの道を進んでいる。「俺はこんな事をしていていいのか・・・・・」すでに30才になっていた私は焦りといらだちで体がよじれそうだった。
数週間後河合さんから連絡が入りバッティングで試合続行不可能となり3ラウンド負傷引き分けに終わった事を聞いた。更に河合さんは「タイなら試合が出来ますよ」と言う。
しかし私は「そうですか・・・・・」としか答えなかった。後楽園ホール以外のリングに上がる自分の姿がどうしても想像がつかなかった。私はどうしてもあの後楽園ホールのリングに、もう一度立ちたかったのだ。
*「チャイヨー」とはタイ語で「万歳」を意味し、タイのボクサーは国歌斉唱の後必ず「チャイ、ヨー!!」と3回叫ぶ。
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