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マルケスとのスパーリングを終え帰り仕度をしているとトレーナーのフェルナンドが「明日も来れるか?」と聞いてきた。
スパーリングパートナーとして認められたようだ。闘争心が込み上げて来た・・・・・。
翌日同じ時間にロマンサジムへ行くとすでにマルケスは到着していた。スパーリングの準備をするマルケスの隣りにピッタリと寄り添いかいがいしく世話をしている人の良さそうなオヤジがマルケスの父親だった。
自分の最高傑作の作品を愛でる様にマルケスの顔にワセリンを塗り込み、丁寧にグローブの紐を結んでいるその姿は息子を愛する想いで溢れていた。
おそらく何百回何千回と繰り返されて来たであろうあうんの呼吸で行われるスパーリング前の準備は実に手際が良く職人技だった。
マルケスを土台から支える物はその抜群のテクニックではなく、親子の絆だと知った。
スパーリングが始まった。昨日より気合が入っているのが感じられる。「圧されるな」私は自分に言い聞かせ前へ出た・・・・・。
4ラウンドのスパーリングを終えた後、心に残った物は「昨日よりやられたなぁ」そんな心地良い敗北感だけだった。
マルケスがリングの中でミット打ちを始める。私はサンドバッグを打ちながらマルケスを眺める。何度も何度も同じ攻撃パターンを飽きずに繰り返す。こうやって一つ一つの技を磨き上げて超絶な技巧を築き上げたそのマルケスの努力に感服した。
隣りでリカルド・ロペスがパンチングボールを軽快かつ激しく打ち出した。
ロペスが奏でるそのリズムをバックにサンドバッグを打つ。気合が勝手に入る。目の前ではマルケスがミットを弾き続ける。ロペスとマルケスが二人で叩き続けるその音を聞きながら、昔観た石原裕次郎の映画で二人のドラマーがドラムを叩きあうシーンを思い出した。
リカルド・ロペスとファン・マヌエル・マルケス、その名を歴史に残す名チャンピオン達と同じ時間に同じ空間に存在出来るその幸運を存分に味わった。
フェルナンドが「明日も来れるか?」とまた聞いてきたので「明後日来る」と答えた。一日完全休養を取り万全の体制でスパーリングに臨みたかった。今日の借りを少しでも返さなくては大手を振って日本に帰れない。「じゃあ明後日来い」フェルナンドがそう告げた。
一日中マルケスの事だけを考えて過ごした。初日のスパーリングでは後ろに下がりアウトボクシングをしようとしてマルケスにいいように攻められた。二日目は無闇に前に出てカウンターを取られた。今度は後ろに下がらず前にも出ずマルケスが出て来たところに速くて小さな左ジャブを合わせよう。そう決めた。
ジムへ行くと練習を終えたロペスがマンゴーを食べていた。そして私に直筆のサイン入りのポスターを差し出す。二日前、日本のワールドボクシングの増刊号をロペスにあげたそのお礼だと言う。その律儀さに驚く。その増刊号では全階級を通じて誰が一番強いかパウンド・フォー・パウンド特集をやっていて、確かロペスがロイ・ジョーンズを抑えて1位になっていた。私は拙いスペイン語で「あなたが世界中で一番強いボクサーだ」と説明すると満足げにうなずいていた。
ロペスは私にくれたポスターを広げるとファイティング・ポーズをとった自分の写真の目の部分を指差し何やら説明を始めた。よく見ると左目にはロペスのお父さんの顔が、右目にはお母さんの顔がそれぞれ小さく写っていた。
後に我が家の家宝となるそのポスターは、世界一強い男は家族愛に溢れた心優しき男だと言う事を私に教えてくれた。
そうこうしているうちにいつの間にかマルケスがスパーリングの準備を始めていた。今回も父親がピッタリと寄り添う様にして世話をする。
私はシャツを脱ぎ精神を統一する。今度こそ一矢報いてやる。そんな思いが体中に満ち溢れてくるのを感じる。
ワセリンを顔に塗り込みながら鏡越しにマルケスの方を見る。父親がまるで試合の時の様に真剣な表情でマルケスの耳元で何か指示を与えている。マルケスは黙って頷いた。不気味だ。私は鏡の前の自分に向き合い「ジャブを当てろよ」と指示を出した。
スパーリングが始まる。マルケスが肩をせわしなく動かしリズムを取る。このリズムに飲まれたら相手の思う壺だ。私は息を静かに吐き出しながら自分のリズムを作る。その対比は私にラテンミュージックと読経を連想させた。
無我夢中とはこの事を言うのだろう。私は無心になりまるで夢の中で闘っているような錯覚を覚えた。
その白昼夢の中で私のジャブがカウンター気味に当たる。マルケスのリズムが速くなる。「来るぞ」そう身構えた瞬間、右脇腹にいまだかつて感じた事のない衝撃が走ると同時に肋骨が「ピキッ」と不気味な音をたてた。「折れたな・・・・・」夢の世界から現実へそしてまた夢の世界へと意識が飛ぶ。
4ラウンドの夢が終わった。自分の持てる力を全て出し切った充実感と、このクラス最高の技を持っている男と4ラウンド渡り合えた満足感に包まれた・・・・・・。
マルケスの父親が私に「世界ランキングは何位だ?」と聞いて来た。今でも忘れられない最高に嬉しいお世辞だった。
フェルナンドに脇腹を痛めた事を話しスパーリングはもう出来ない事を告げジムを後にした。
夕焼けに向かって突っ走る小型バスの窓際で乾いた風に当たる。
メキシコでの長い闘いが今終わろうとしている。
もう再び見る事もないであろう愛すべきメキシコの夕焼けを、その目に焼き付けた・・・・・。
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