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当時WBOスーパーバンタム級チャンピオンだったマルコ・アントニオ・バレラの練習するジムは驚くべき事に市営のカビ臭い古ぼけた体育館の片隅にあった。
案内してくれた繊大さんに思わず「本当にここであのバレラが練習してるんですか?」と聞いてしまう程の質素なジムだった。
練習しているのは2,3人程で全員プロだがガラーンとした体育館の一角で黙々と練習しているその風景は世界チャンピオンが所属するジムには見えなかった。
しかし小さなジム特有のアットホームさが漂っている。バレラを子供の頃から指導しているルディーさんと、繊大さんがそれぞれの役割を分担し選手の指導に当たる。
練習の準備をしているバレラに挨拶をする。日本で何度もビデオを観た憧れのボクサーが目の前にいた。
繊大さんが「お前のファンだってよ」と私の事をバレラに紹介した。「童顔の暗殺者」のニックネームを持つだけあって目の前のバレラは幼い顔立ちだった。手を差し出すと口元だけ笑って握り返してくれた。
今日はスパーリングは休みだとの事でバレラと繊大さんとのミット打ちを眺める。一糸乱れぬとはこの事なのかと思わせる程二人の息はピッタリだった。しかしミット打ちでこんなに凄い音がするとは・・・・・そう感嘆する程バレラの放つパンチは凄まじかった。
この殺風景なジムで破壊的なパンチを放つバレラと人知れずスパーリングをする事になるのかと思うと緊張感が押し寄せて来た。
私も来るべきその日に備えて練習を始めた。ボクサーの数が少ないので気を使わずに好きなだけサンドバッグを打てる事が嬉しかった。
今この瞬間、憧れのバレラのジムでそのバレラと一緒に練習をしている。そう思うだけで嬉しくて顔がにやけて来るのを止める事が出来なかった。
練習が終わるとなんとバレラが自宅に誘ってくれた。繊大さんと三人でバレラの運転する車に夢見心地のまま乗った。
10分程で着いたバレラの家は周りに建つ家よりもはるかに大きい。しかしその家はバレラが建てたのではなく会社を経営する父親が建てた物らしい。外国のボクサーに共通する貧しい境遇とはまったく無縁に育ちながらも恐るべき強さを発揮し続けるバレラを改めて尊敬した。
バレラの部屋に案内される。そこにはベッドの上に大きなゴリラのぬいぐるみが置いてあった。嘘か本当か繊大さんが言うにはバレラは寝る時必ずそのゴリラを抱いて寝るそうだ。
バレラの事がまったくわからなくなった・・・・・・。
バレラのジムで練習を始めて数日後ついにスパーリングをする事になった。
グロービングを始めたバレラは自分を高めるように険しい顔に豹変していった。ここまで来たら待った無しだ。私も試合の時と全く同じ様に緊張感を高める。ただでさえ静かなジムで誰一人言葉を発さずピーンと張り詰めた緊張感が漂う。
先にリングに上がりバレラを待つ。自分の中では世界戦をやるぐらいの気持ちだった。
リングの上で対峙したバレラの目は完全に座っている様に見えた。恐怖感が体を包む。繊大さんの「ティエンポー(タイム)!」の掛け声を合図にスパーリングが始まった。
バレラは軽くステップを踏みながらジャブを放つ。しかしその目は獲物が飛び込んで来るのを待っている獰猛な獣のようだった。下手に手を出したらやられる。そう感じた私は逆にバレラを前に出さして迎え撃つ事にした。
私は足を使うのをやめバレラが出てくるのを待った。しかしその闘い方がバレラのプライドを刺激したらしい。体を激しく振って入って来た。ジャブを合わせるがブロックされる。そしてあっと言う間に私の懐に入って来た。バレラ得意の左ボディーがレバーをえぐる。強烈だ。思わず「ウッ!」と声が出る。続けざまに左ボディーが飛んで来る。なんとかブロックするがバレラはノーファルカップの上からでもかまわずに強烈なパンチを叩きつけて来る。バレラのくちびるはねじれ白いマウスピースはむき出しだ。何度もビデオで見た相手を仕留める時の顔だった。私はコーナーをなんとか抜け出しバックステップを踏む。しかしバレラの追い足は驚くほど速くそして鋭い。「倒されてたまるか!」その一念でなんとかこのラウンドをしのぎ切った。
あっと言う間にインターバルが終わり繊大さんの「ティエンポー!」の声が再び体育館に響き渡る。2ラウンド目もバレラは出て来た。しかし1ラウンド目程の勢いは無い。もう私を倒すのは諦めたようだ。しかしそれでも隙あらばと狙っているのはヒシヒシと感じる。一瞬の油断もゆるされない。まるで試合の時のような緊張感だ。いやそれ以上だった。そして息をするのにも気を使うような3分間がやっと終わった。
バレラは凄まじく強かった。「どうでしたか?」繊大さんも口には出さなかったがそう顔に書いてあった。
練習を終え開放された虚脱感に覆われて暗い体育館の外に出ると、メキシコの澄み切った青空が目に眩しかった。
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