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まさか行った初日にいきなりモラレスとスパーリングをする事になるとは夢にも思っていなかった私は、ガルシアさんの言葉に一瞬たじろいだ。
しかしわざわざキャンプに連れて来てもらって今さら「肋骨が痛いのでスパーリングは出来ません」等と言えるはずもない。
「エスタビエン(OK)」と言った後急いでアップをした。ふとモラレスを見るともうスパーリングの準備を始めていた。
世界チャンピオンを待たせるわけにはいかない。汗一つかいてない顔にワセリンを塗りこみヘッドギアーを着ける。
ガルシアさんと石原君にグローブを着けてもらっているとふと専門学校時代に学んだ「折れた肋骨が肺に刺さると死ぬ」というフレーズが頭をよぎった。
あのモラレスの強打をこの肋骨に受けたら・・・・・と考えただけで横っ腹が痛くなって来た。
取り合えず肋骨にはもらわないようにしようと決めてリングに上がった。
リングの状態を確かめる前にゴングが鳴る。目の前にはヘッドギアー、グローブ、ノーファルカップその全てを青のレイジェスで統一したモラレスがいた。
とにかく体を温めようと距離を取って無闇に動いた。アップを兼ねた私の無駄な動きをモラレスは高いガードのまま微動だにせず見つめる。
ジャブを出すが痛めた左の肋骨を無意識にかばってしまいどうもパンチが伸びない。どうしたものかと思っていると青いグローブがいきなり目の前に飛び込んできた。十分距離を取ったと思っていたが予想を超えるモラレスのパンチの伸びに驚いた。
そしてふとヘッドギアーの奥のモラレスの目を見た瞬間、息を飲んだ。
二つの黒い瞳の中に青白い炎がゆらゆらと揺れていた。
そしてその目を見た瞬間背中に板でも入ったかのように体が硬直した。私は飲まれた。
金縛りを解こうと動くが上半身が言う事を聞かない。そうこうしているうちにモラレスが自らロープを背負い「打って来い」と言わんばかりに手招きをする。
やっと金縛りの解けた私は「では遠慮なく」と言った感じでロープに詰まったモラレスに4,5発のコンビネーションを放った。
その全てのパンチをブロッキングだけで防がれた。体の向きをクイックイッと動かすだけでいとも簡単にいなされた。
メキシカンのディフェンスの奥義がそこにあった。
何度かそんなやりとりをしているうちに驚きの連続だった3分間が終わった。コーナーに戻るともう座りたい程の疲労を感じた。いくら深く息を吸っても酸素が体の奥まで入ってくれない。手と足の先がだるくしびれる感じだ。石原君が心配そうな顔で私を見つめる。
シーンと静まり返った中、再びゴングが鳴った。もう肋骨の事は頭から消えていた。メデューサの如きモラレスの目は見ないようにしてパンチを放ち続けた。力のこもらない私のパンチをディフエンスの練習をするかのようにモラレスはたやすく防ぎ切った。
グローブが重い。ガードを上げるのも面倒だ。もうどうにでもしてくれ・・・・・・そんなやけくそな気持ちになってノーガードでパンチを出し続けた。
そしてやっと長い長い3分間が終わった。結局モラレスは軽いパンチしか打たなかった。私はなんとか無傷でリングを下りる事が出来た。とにかくこの重いグローブを早くはずしてもらいたかった。
グローブをやっとの思いではずしてもらうと座り込みたいのを我慢しながらモラレスのスパーリングの続きを眺めた。
モラレスは他のボクサーとのスパーリングでもほとんど手を出さなかった。日本だったら会長やトレーナーに怒鳴られるところだが、もちろん誰も何も言わずにモラレスの動きを見守っていた。
スパーリングが終わるとミットが始まった。まだ若いトレーナーと一つ一つの動きを確かめ合いながらの共同作業を繰り返していた。
少し離れた所から時々指示を出す眼光の鋭い小柄なオヤジがモラレスの父親だった。
まったく冗談の通じなさそうなその威厳のある風格は、単調な山ごもりのキャンプにピリピリとした緊張感を生み出すためには必要不可欠な存在だった。
ジムワークが終わった頃にはすっかり暗くなっていた。用意された食事を終え部屋に戻り横になる。しかし寒くて眠れない。昼間買ったポンチョと帽子と手袋を着けて薄い毛布にくるまってなんとか寝た。
翌朝ガルシアさんのノックで目覚めた。これからロードワークだと言う。窓の外を見るとまだ真っ暗だった。寝ぼけまなこの石原君と共に外に出た。全員が揃うとモラレスが走り出した。モラレスの後ろにいた私はそのスピードに驚いた。
速いから、ではなくあまりにも遅かったからだ。早歩きより少しマシなぐらいのそのスピードはちょっと考え事でもしようものならモラレスを追い越してしまう。
みんなじれったそうに着いて行くが私と石原君にはありがたかった。しかしそれでも息苦しい。私と石原君はガルシアさんと三人で最後尾をのろのろと歩いているのか走っているのかわからないスピードで着いて行った。
5キロ程の道のりを正味一時間ぐらいかけて走り終えた。
朝のロードワークが終わりシャワーを浴び食事を終えるとガルシアさんが「今日は日曜日だから練習は休みだ」と言う。
石原君と二人でホッとしていると他の連中が来てクロールのまねをしながら「これからプールに行くから一緒に来い」と言う。
「プール!?」こんな寒い中冗談じゃない。私は断ったがガルシアさんが行って来いと言うので仕方なくみんなと一緒に車に乗り込んだ。
私と石原君は運良くモラレスと同じ車だった。休日とあってか練習の時の緊張感が嘘の様に車内は賑やかだった。まだ若いモラレスのお母さんが運転し音楽をガンガンかけて山を降りる。途中モラレスがいきなり大声で歌いだしたのには驚いた。
30分以上走ると賑やかな街に出た。そして本当にプールに入る事になった。そこには巨大なウォータースライダーがあり大勢の家族連れでにぎわっている。こんな寒い中わざわざなんでプールに・・・・・と思ったがメキシコの人達のパワーには圧倒された。
しかし来月にはウェイン・マッカラーとの大事な指名試合を控えているはずなのにモラレスは風邪でもひいたらどうするのか?等と思ったが本人はまったく気にする様子もなく楽しそうに着替えていた。
さすがにみんな寒そうにしていたが我れ先にとウォータースライダーへ乗り込む。石原君が一番楽しそうだった。
震えながらのプール遊びを終えると今度は映画館へ向かう事になった。
映画を観ながらポップコーンをほおばる。昨日、今日とまったく信じられない出来事の連続だった。
暗闇の中で、楽しそうに映画を観るモラレスの横顔をそっと見ながら「メキシコに来てよかったなぁ」としみじみと思った。
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