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グッティとスパーリングをした翌朝、ベッドから起きようとしたら脇腹にズキンと痛みが走った。咳をしただけでも痛い。肋骨にひびでも入ったのだろうか?ひょっとしたら折れているかも知れない・・・・・・・。
試合に向けて少しでもスパーリングをやってカンを取り戻そうとしていた矢先のケガだけに気分が滅入った。
大事を取ってロードワークは休む事にした。しばらくして朝食を取るために一階の食堂に下りる。ペンション・アミーゴでは宿泊者にパンとコーヒーが出る。
スパーリングは当分出来ないなぁ等と思いながら素朴で飽きのこないそのパンをかじっていると、宿泊者の人に「昨日ボクサーが入ったよ」と教えられた。「あぁそうですかぁ」と気のない返事をした。「聞いたら3戦しかしてないって言うから4回戦ボーイだろうね」とその人は続ける。アミーゴにボクサーが入った事よりも肋骨の事が気になる私は「あぁそうですねぇ」とまたもや気のない返事をした。
そろそろ部屋に戻ろうとした時、寝ぼけまなこで食堂に入って来た若者の顔を見て驚いた。
なぜならその若者は名古屋の松田ジムに所属する石原英康選手だったからだ。ちょうど今朝ボクシング雑誌で石原選手の記事を読んだばかりだったので顔を見てすぐわかった。
昨日アミーゴに入って来たボクサーとは石原選手の事らしい。しかし3戦は3戦でも、デビュー戦で当時の日本チャンピオン、スズキ・カバトにノンタイトル戦で議論付きの判定ながらも勝利し、そして3戦目に後の世界チャンピオン、セレス小林に挑戦。もし勝てば辰吉丈一郎の持つ4戦目での日本タイトル奪取の記録を破る事になったのだが、記録更新は成らなかった。
そのセレス小林戦からまだ一ヶ月も過ぎていない。「なんでまたここに?」と聞くと、なんとこれから世界チャンピオンのエリック・モラレスのキャンプに参加すると言う。
セレス戦で痛烈な敗北を喫し傷心の石原君に、少々荒治療だが立ち直るきっかけを掴んでもらおうと松田会長がセッティングしてくれたらしい。
松田会長の優しさと期待の程がわかる。しかし親の心子知らずで、石原君はキャンプに向けて燃えるどころかぐったりとして疲れている感じだった。
石原君に聞くと一昨日メキシコに着き他のホテルに宿泊していたが、まったく言葉が通じず黙り込む石原君をメキシコ人の世話係りの人が心配し、日本人宿であるこのペンション・アミーゴに連れて来てくれたらしい。
「その人がもうすぐ迎えに来るんです」と言いながら急いでパンを食べる。するとメキシコ人のオジサンが迎えに来た。石原君はパンをかじりながら急いで二階に上がって行った。
心細そうに日本人宿の中庭に一人ぽつんとたたずむその人の事をかわいそうに思った私は、石原君が来るまでの話し相手を務める事にした。
話してみるとその人はただのオジサンではなく、のちに世界チャンピオンになるホルヘ・アルセのチーフトレーナーを務めるティボルシオ・ガルシアさんだった。
自分もボクサーだと話しボクシング談義に花を咲かせていると、やっと石原君が降りて来た。するとガルシアさんが「お前も一緒に来るか?」と言うではないか。「えっ!俺も!」と聞くと「一緒に来い」と言う。石原君も急に明るくなった。私はその場の勢いで即決すると急いで部屋に戻りボクシング道具一式をかばんに詰め込んだ。
あのエリック・モラレスのキャンプに参加出来る。夢のような話しだ。本当に俺が参加してもいいのかなぁ?と思いながらも沸き立つ興奮を抑え切れなかった。
階段を降りる時に脇腹にズキンと忘れていた痛みが走った。しかしこのチャンスを逃したら一生後悔する。なんとかなるだろう。そう自分に言い聞かせた。
かくして私と石原君の10日間に及ぶ笑いと涙のキャンプ生活が始まる事となった。
キャンプ地はメキシコシティーからバスで2時間ほどの所にある高地トルーカだ。あの伝説のチャンピオン、フリオ・セサール・チャベスが必ず試合前にキャンプを張る場所として有名だ。
そのまだ見ぬ高地トルーカに行く。バスの中で考えただけでまたもや興奮して来た。バスは山道をひたすら登る。のんびりとした山並みを軽快な音楽をかけながらバスは走る。そしてゴミゴミとしたメキシコシティーからわずか二時間ほどでまったくの別世界トルーカに辿り着いた。
途中タクシーに乗り換えて走る事数十分「セントロ・セレモニアル・オトミ」と書いてある入り口の前で警備員にモラレスのキャンプに参加する事を説明し門をくぐった。
中は国立公園のようにだだっ広く綺麗だった。タクシーを降りるとあまりの寒さに震えた。風が冷たく日本の冬並みの寒さだった。軽装で来ていた私と石原君はお互い「寒い、寒い」と言い合って宿泊施設に入った。
ちょうど着いたのが昼過ぎ頃だったのでみんな部屋で休んでいるみたいでシーンと静まり返っていた。この部屋のどこかにモラレスがいる、そう思うと寒さと緊張で身震いがするようだった。
私と石原君は二人とも小さいながらも個室を与えられた。ベッドと小さな机と椅子があるだけの質素なその部屋は、うす暗い電灯と底冷えのする寒さのせいか高級な刑務所のように思えた。10日間はどんな事があってもここから出る事は出来ない。そう思うとなおさら囚人になったような気がした。
しかし寒くてたまらない。早速ガルシアさんに何か着る物が欲しいと訴えると、近くにあるみやげ物売り場のような所に連れて行ってくれた。しかし坂道が苦しい。いまだかつて経験した事のない息苦しさだ。石原君と二人でハーハーと息切れしながら坂道を登った。
メキシコに来て一ヶ月程が過ぎすでに高地順化された私でさえ苦しい。メキシコに来てまだ二日目の石原君の苦しさはどれだけのものがあるだろうか。すでに蒼白になった石原君の顔を見ながらこれからの10日間の苦闘を案じた。
やっとの思いで辿り着いた土産物屋には当然のように民族衣装のような物しか売ってなかった。ポンチョと毛糸の帽子と手袋を買った。さっそく身に着けるとすっかりメキシカンになった。
施設に戻るとちらほらと人が見える。ガルシアさんが私と石原君を紹介するが民族衣装を着込んだ私が日本人だと知りみんな驚いていた。
モラレスの顔はまだ見えない。時間が来たら呼びに来るとガルシアさんに言われて部屋に戻った。
ベッドの上で冷えた体をほぐそうとストレッチをしているとガルシアさんのノックが聞こえた。いよいよだ。緊張の面持ちで部屋を出る。石原君も同じようだった。
少し歩くと屋外にガラス張りになったジムが現れた。もうみんな集まっているようだ。中に入ると張り詰めた様な緊張感が漂っている。そして本当にあのモラレスがいた。何度もビデオでその試合を観た若きメキシコの英雄がそこにいた。
石原君に「本物のモラレスだよ!」と言うと「そうですね」と素っ気無い返事が返って来た。一応挨拶をしようかと思ったがそんな雰囲気ではなかった。私と石原君は隅の方に行き無言のままバンテージを巻き始めた。
準備の出来たモラレスが軽くシャドーを始めた。食い入るようにその姿を見つめる。その動きの全てがあまりにもゴージャスだった。
自分の事はそっちのけでモラレスの一挙手一投足を見ていた。
しばらくするとガルシアさんが来て私に言った。
「スパーリング出来るか?」
「えっ、誰と?」
ガルシアさんは私を試すかのような顔で言った。
「エリック・モラレス」
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