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この会場につめかけたプエブラの人たちにとっておそらく初めて見る日本人のボクサーであろう倫太郎君に視線が集まる。近くにいるだけで痛いほどだ。倫太郎君がリングに上がった。完全に日が傾き真横からメキシコの熱い夕陽がまるでスポットライトのように倫太郎君を照らす。
口を真一文字に結び、目は一点を見すえる。その姿はまるで若きサムライを想わせる。
遠い異国の地で一人リングに上がり、今まさに闘わんとするその姿は武者震いがするほどの感動を私に与えてくれた。
闘いの始まりを告げるゴングが鳴った。お互い相手に対する予備情報はない。相手の力量を見極めようとにらみ合いながらジリジリと近づく。今か今かと会場全体が固唾を飲んでその光景を見つめる。お互いのパンチが射程距離内に入った瞬間、せきを切ったかのように激しい打ち合いが始まった。
リング下から観ていて冷や冷やするような力の入った危険なパンチの交換が続く。
そして危険なそのパンチをもらって倒れたのは相手の方だった。ジムの連中が興奮して全員で叫ぶ。立ち上がってきた相手に倫太郎君が襲いかかる。相手はまだ勝負を捨てていない。ガードを固めながら時折りいかにも固そうなパンチを振り抜いてくる。このラウンドで仕留めようと倫太郎君がなりふりかまわず攻め続けた。
私は「ガード!ガード!」と叫ぶがジムの連中の叫び声にかき消される。相手はなんとかこのラウンドを乗り切った。
コーナーに戻って来た倫太郎君の息は荒い。今の攻撃でかなりのスタミナを使ったようだ。ここは酸素の薄い高地だ。イヤな予感がする。
2ラウンドに入ると相手も地元の圧倒的な声援を受けて盛り返してきた。相変わらず危険なパンチの交換が続く。何度か危ない!と思うシーンがあったが倫太郎君はそれをことごとく乗り切った。
6ラウンドで行われるこの試合の前半3ラウンドが終わった。ポイントは敵地とはいえダウンを奪った倫太郎君がリードしている。この流れで行けば勝てるはず。怖いのは今だにその力を失っていない相手の起死回生を狙った一発だ。私は倫太郎君のそばに行き「ガードだよガード!」と叫ぶがジムの連中が全員おのおのバラバラの意見を私より大きな声で叫ぶからまったくらちがあかない。
4ラウンドが終わる。ポイントは取った。あと2ラウンドだ。相変わらず私の声は一人闘う倫太郎君には届かずじまいだった。
そして5ラウンド。倫太郎君の攻撃はやまない。メキシコの高地でもそのスタミナは衰えなかった。相手の目から急速に光が失われて行く・・・・・。相変わらずリング下はうるさい。しかしそのうるささは半年間一緒に汗を流し続けた間柄だからこその声援だったことに気が付いた。
レフリーが二人の間に割って入り倫太郎君の攻撃をとめた。そして倫太郎くんの腕を頭上に高々と上げた。勝った!ジムの連中はお祭り騒ぎだ。会場からも口笛と大きな拍手が沸き起こる。倫太郎君の満面の笑みをこの時初めて見た。
その表情は叫びたいのをこらえてるようにも、半年間求め続けた勝利の味を噛みしめているようにも見えた・・・・・・・。
リングを降りてきた倫太郎君の笑顔がじつにいい。彼のこれまでの道のりを知っているジムの連中全員が満足そうな笑顔で祝福する。ヘスス・チャベスが「グッドファイト!」と声をかける。いつも仏頂面のハビエルもニコニコしている。子供達が寄って来て倫太郎君に握手を求める。たくさんのその小さな手を倫太郎君はしっかりと握り返していた。
控え室に戻る途中で方々から倫太郎君に声がかかる。その全ての声に手を振って笑顔で答える。この日この瞬間の為に倫太郎君は異国の地で半年間耐えてきたのかと思うと、控え室までの道のりがもっと長くあって欲しい。そう思った。
メインに登場したスルドーも無事に勝利をおさめ、やんやの歓声を耳に残したまま私達一行は意気揚々と引き揚げた。
途中寄り道をする事になった。なにやら体が凄く元気になる飲み物があるらしい。みんなが「ビタミン、ビタミン」と説明する。まだ見ぬその不思議な飲み物を求めてスルドーの地元の友人宅を訪ねまわるがあいにくどこにも置いてないみたいだった。夜道を集団でウロウロとさまよい続ける。そしてやっと手に入った。
それを飲むためになぜか人けのない真っ暗なビルに忍び込みそろりそろりと屋上へ上がる。まるでこそ泥になった心境だった。そこでコップになみなみと注がれたプルケと呼ばれるその怪しげな白く濁った液体をみんな一気に飲み干す。いよいよ私と倫太郎君にもそのコップが周って来た。恐る恐るそのコップに鼻を近づけた瞬間、ヨーグルトを腐らせたような異臭が鼻を突く。とてもじゃないが飲めそうにない。飲んだら即腹を壊しそうだ。こんな物を飲むためにあんなに歩き周ったのかと思うと疲労感が倍増した。
倫太郎君も匂いを嗅ぎながら顔をしかめている。みんなが早く飲め飲めとせかす。「飲めない」と断ると更に飲め飲めとせかされた。
すると倫太郎君が「じゃあ行きます!」と覚悟を決めて一気に飲み干した。「オエー」と一言言った後ガッツポーズをとる。ジムの連中が喝采を送る。この日の倫太郎君に怖いものは何もなかった。ジムの連中は倫太郎君のその姿を見て私にはもう興味を失くしたようだったので、屋上からプルケをジャーっと捨てた。
プルケを飲んだジムの連中はホッとしたのか地元の連中と座り込んで雑談をし始めた。私と倫太郎君は屋上から満天の星空を見上げた。透き通ったプエブラの夜空に北斗七星が見える。
瞬き続けながら輝くその七つの星たちは、先の見えない私達のボクシング人生を導く道しるべのように思えた。
深夜の帰りのバスの中でも私達はボクシングを熱く語り合った。ジムの連中が「うるさい!」と言って後ろから何度も座席を蹴る。しかしそんな事はおかまいなしに私達はボクシング談義を続けた。
ハビエルの家に着いてもその勢いは止まらなかった。一つのベッドに二人で入りながら明け方までそれは続いた。
遠い異国の地で志を同じくする男に出会えた喜びは計り知れない。
「メキシコに来てよかった」とまた思った。
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