ROUND 5

 早速翌日隆太さんとローマンサラゴサジム通称ロマンサジムへ向かった。隆太さんはメキシコの女性と結婚しペンションアミーゴで奥さんと生まれたばかりの男の子と暮らしながら週に何度かロマンサジムに通って汗を流しているとの事。

 胸躍りながらロマンサジムへと向かったがその道のりは想像以上に厳しかった。例によって地下鉄を何度か乗り継ぎシウダーデデポルティバという名の駅に下りた。シウダーは市、デポルティバはスポーツの意味らしくあたりにはバスケットコートやテニスコートがずっと奥の方まで広がっていた。
 ここでも紫色の桜が咲き乱れている。その下を足早に通り過ぎる。すると目の前に忽然とサーキット場が現れた。以前はメキシコグランプリがここで開かれてたらしい。破れた金網をくぐり抜けジョギングする人や競技用自転車に乗り走り去る人たちを横目にだだっ広い道路を横断する。サーキット場を抜け学校の校庭のような所を通り抜けると今度は幹線道路だ。次から次へと猛スピードで車が突っ込んで来る。以前ここを渡りそこない轢かれて亡くなった人がいると聞き、さもありなんと思った。遠くに歩道橋が見えるがそこは渡らないみたいだ。タイミングを見計らった隆太さんの「よし行こう!」の掛け声と一緒に走って横断した。
 無事に渡ると一転して静かな通りに出る。そこを五分程歩いていると待ちに待った「ここだよ」の声がかかった。通りの建物になじんだその外観はボクシングジムには見えなかった。改めてここまで一人で来る事は不可能だとわかった。

 建物の中に入ると日の当たらない暗い部屋におじいさんが一人イスに座っている。まるで何十年もそこに座っているような雰囲気だった。隆太さんが何やら説明するとそのおじいさんが二階に上がれと言うように顔を階段の方へ向けた。

 「いよいよだな」こんなに緊張してジムの門をくぐるのは何年ぶりだろうか・・・・・。階段を踏みしめて二階へと上がった。するとそこはまるで天上の世界のように明るかった。そして灼熱地獄のように熱かった。暑いのではなく熱いのだ。見上げると天井が総ガラス張りだ。子供の頃入ったビニールハウスを思い出す。気のせいか呼吸が苦しい。早速隆太さんがイグナシオ・ベリスタイン氏を紹介してくれた。緊張しながら握手をした。本物だった。

 改めてジムを見渡すと見るからに強そうな奴らがゴロゴロいる。18才の時初めて東京に出てきてジムを見学した時の感覚を思い出した。
 更衣室はなく「その辺で着替えて」と言われそそくさと着替えて取り合えず鏡の前でシャドーを始めた。学校の屋上ではなく三年半ぶりのジムワークだ。しかも憧れのロマンサジムで・・・・・最高だった。

 そのままシャドーをやってると隆太さんが「こいつは凄いんだよ」と精悍な顔立ちの若者を紹介してくれた。現IBFバンタム級チャンピオンのラファエル・マルケスだった。当時はまだ世界ランクの下位だったがその完璧なスタイルとあふれ出る力強さは今すぐにでも世界を取れそうな気がした。
 初日という事もあり軽く済まそうと思っていたが三年半ぶりに打つサンドバッグの感触が懐かしくてけっこうやってしまった。
 練習を終えシャワーを浴び着替えを済ませる。そして帰る時になんと全員と握手をする。それがロマンサ流らしい。しかしサンドバックをがむしゃらに殴っているいかつい顔をしたボクサーの隣に行き握手を求めるのはどうにも気が引ける。しかしそれがこのジムのやり方だと言われればやるしかない。そろそろと近寄り「アスタルエゴ」(じゃあまた)と言うとみんなわざわざ練習の手を止めて新入りの私に笑顔で挨拶を交わしてくれた。「さすがメキシコだな〜」と恐れ入った。

 帰りは行きと違うルートだった。その方が早いらしい。途中隆太さんがジュースをおごってくれた。色とりどりのフルーツの中から好きな物を指定しそれに水と氷を一緒に混ぜミキサーにかける。出来上がったらビニール袋に入れストローをさす。それを歩きながらチューチューと飲む。練習後の開放感と充実感そして乾いた体にこれ以上の飲み物があるのか?そう思うぐらいうまかった。

 バス停まで行き待つ事数分緑色の大きなバンが来た。ペセロと呼ばれる小型乗り合いバスだ。窓は全開ついでに入り口のドアも全開だ。あらゆる窓とドアを開放したまま猛スピードで突っ走る。「あぶねぇ〜な〜」しかしそう思うのもつかの間メキシコの乾いた風がほてった体を包み込む。窓枠に肘をかけ走り去る町並みを眺める。ほほに心地いい風をシャワーのように浴びる。初めて味わうえもいえぬ爽快感だった。
 「メキシコに来て良かったなぁ〜」メキシコに来て以来何度目かの言葉が自然に口をついて出た。

 
 ジムワークの方は取り合えず一安心した。次はロードワークの場所を探さなくてはならない。宿の周りを探したが思いっきり走れそうな所は見当たらなかった。近くに革命記念塔というパリの凱旋門を小さくしたような建物があり、その周りを取り合えず走ってみたが石畳になっており走りにくい事この上ないし膝も痛めそうだった。
 どうしたものかと考えながら散策していると、金網に囲まれたグランドを見つけた。中では大勢の若者がサッカーをやっている。「ここしかない!」と思った私は翌日のまだ日も昇らない早朝にそのグランドへ向かった。
 開け放たれていた玄関を入ると腰に拳銃を下げた警察官が所在なげにイスに座っていた。
 「ここで走りたい」と言うと「メンバーじゃないとダメだ」と断られた。会員証の作り方を説明してくれたが写真が必要なのはわかったがそれ以外はさっぱりわからない。しかしこのまま引き下がる訳にはいかない。ボクサーは走らなければならないのだ。
 「私は日本のボクサーです。ボクサーは走らなければなりません。だからここで今走らせて下さい。」ファイティングポーズを取ったり腕を振ったりして訴えた。
 警察官は私の顔をジッと見た後、しょうがないなぁといった感じで苦笑いをして中に入らせてくれた。
 何度も「グラシアス」とお礼を言ってグランドに飛び出した。久しぶりの土だ。私以外誰一人いないそのグランドを思いっ切り走った・・・つもりだったがどうにも苦しい。すぐ息が上がるし体がやけに重い。標高2000メートルを超えるメキシコシティーの酸素の薄さが原因だった。ジムではあまり気にならなかったがダッシュをするとてきめんにその症状が現れた。子供の頃からこの環境でトレーニングしているメキシコのボクサーがタフなのは当然のように思えた。

 重い体を引きずりながら走っていると太陽が昇って来た。メキシコで見る初めての日の出だ。私は足を止め太陽に向かって手を合わせメキシコでの幸運を祈った。

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