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万感は、胸に押し寄せ、涙はこみ上げた。
自分を受け入れ、サポートしてくれた新田ジムの新田渉世会長、孫 創基(そん ちゃんぎ)チーフトレーナー、ジムのスタッフやジムメイトたち、そして、自分の挑戦を無条件に応援し、また、勇気づけてくれた大勢の人々。溢れる感謝は涙にさえぎられ、言葉にならなかった。
柳直大はタオルに顔をうずめたまま、報われたこの瞬間を、ただただ静かに噛みしめ続けた。
2008年11月11日。東京・後楽園ホールで行なわれた51.5kg契約6回戦で、柳は吉岡健一(国際)に3-0の判定勝ちを収めた。立ち上がりからキレのある動きでサウスポーの対戦者を積極的に攻め、パンチを上下に散らして巧みに試合を運んだ。3回にはパンチで吉岡の左目の上を切り裂き、終盤の打ち合いにも果敢に応じて打ち勝つ、堂々たる勝利。4か月前、9年10か月ぶりにリングに復帰した柳の、実に11年ぶりの勝利だった。
柳は今、この勝利の意味と涙のわけをこう話す。
「胸にずっとつかえていたものを、吐き出せた感じでした。今まで自分がやってきたことは、すべて間違いではなかったんだと」
「このままでは自分に自信が持てないし、こんな状態では、この先、何をやってもうまくいかないと思ったんです」
柳がそう思い至ったのは、遠く海を越えたニューヨークの地でだった。98年9月の試合を最後に22歳で引退。1年後にアメリカに渡ってから数年が過ぎ、現地の日本食レストランで寿司シェフとして働く傍ら、思い立って、ブルックリンにある名門グリーソンズジムでトレーナー活動を始めた。
ニューヨークに来てから2軒目の職場に移り、時間に余裕ができたこと。それが、きっかけと言えるほとんどすべてだった。もしかしたら、心の奥底の気づかないところで、ボクシングへの火種は静かにくすぶっていたのかもしれない。だが、そのときは「自分がやるという発想はまったくなかった」と柳は振り返る。
ジムに金を払ってスペースを借り、日本人コミュニティにあるスーパーマーケットなどに貼り紙をして、生徒を集めた。体作り、ダイエット……健康目的の生徒たちを中心に、順調に数は増え続け、“柳ボクシング教室”は盛況だったという。柳の気持ちも次第に熱を帯び、やがて、ブルックリンに住まいを移すまでになる。そして、自分が教える時間帯以外でも、時間を見つけては足しげくジムに通うようになった。ジムの他のトレーナーたちの動きを観察し、参考にするためだ。「人に教える以上は技術も勉強しなくてはならない」と、選手たちの動きもつぶさに観察した。
そして、そうすることで柳は、図らずも、かつての自分の姿を突きつけられることになるのである。
柳がボクシングを始めたのは高校2年の春だった。中学3年のときにテレビで見た、辰吉丈一郎(大阪帝拳)がWBC世界バンタム級王座を初めて獲得したグレグ・リチャードソン(アメリカ)戦が決め手となった。辰吉の鮮烈なベルト奪取劇は、小学生の頃にはサッカーを、中学では陸上部に所属し、「何かのスポーツ選手になりたい」という漠とした望みはあったが、小柄だった少年に「いつか絶対にプロボクサーになる」という明確な目標を与えるのだ。
高校卒業後の95年4月、ライトフライ級でプロデビュー。見事、初回KO勝ちで船出を飾った。だが、その後は2年続けて東日本新人王予選で敗退。2連勝でB級に昇格した97年には、階級をフライ級に上げ、B級トーナメントにエントリーする。さらに2連勝して準決勝に進出するも、決勝の舞台に立つことは、かなわなかった。
思うように結果を出せない柳にチャンスが訪れたのは98年3月。のちに日本スーパーフライ級王者になる木谷卓也(金子)と、日本ランク入りを賭けて対戦した。「思いっ切り打ち合って、自分の力を出し切った試合」だったが、結果は0-3の判定負け。ランカー相手に力を出し切れた分、「自分の限界が見えた」。続くA級トーナメント初戦の準決勝で、元・日本ランカーの秋田勝弘(協栄)に「まったくいいところなく負けて」引退を決意。迷いはなかった。「やれることはやった」と、未練は感じなかった。
自分にはボクシングしかないと「思いつめ、とことん自分を追い込み続けた」5年5か月。柳は当時の自分をこう振り返る。
プロボクサーを志し、チャンピオンを目指した高校生の1日は早朝のロードワークで始まる。そして、放課後には電車に飛び乗り、自宅のある藤沢から世田谷のオークラジム(現・西城ジム)まで、片道約1時間をかけて通う日々だ。
「疲れ切って、勉強なんかする暇もなかったし、高校には友だちと言える友だちは一人もいなくて、遊びらしい遊びも一切しなかった」
「もし、今の自分が昔の自分にアドバイスするとしたら」
と、柳は言う。
「そんなに気合入れるな。もっと力を抜け。ちゃんと遊んで、しっかり勉強もしろって言いたいですね。多感な時期だから、いろんな経験をすることが大切だし、それで初めて自分を知ることができて、成長につながるんだと思うんです。何か一つのことだけに集中して、『これしかない、これでダメなら終わり』と思いつめるのは、もちろん良し悪しあると思いますけど、いかにも日本人的な考え方だと思うんですね。それがいいことだと、昔の自分も信じてましたが」
例えばグリーソンズジムで見た、ブルックリン出身の世界2階級制覇王者、ザブ・ジュダー(アメリカ)や同じく2階級制覇王者のホアン・グスマン(ドミニカ)は、それこそ鼻歌まじりでジムに来て、いかにもリラックスした様子で練習していた。「日本人のように悲壮感を漂わせて練習している選手は、一人もいなかった」。かつての自分と重ね合わせた。「どちらが、ここぞというときに力を発揮できるか?」。答えは明白に思えた。
ジムにはまた、30代でなお、現役を続けている選手が当たり前のように大勢いた。そんな選手たちに「衰えを感じないのか?」と尋ねれば、
「全然!まだまだこれからだ!!」
全員が全員、当然のようにそう答えた。
「俺はボクシングをやり切ったんじゃない。途中で投げ出しただけなんじゃないか」
柳はやがて、このような結論に達する。そして、ボクシングを投げ出してやめた自分に気づいた今、このままで、この先の人生に自信を持って進むことはできない、と決意を固めるのだ。
「俺はもう31歳で、長いブランクもあるんだけど、また選手としてやれるかな?」
柳はグリーソンズジムの友人たちに現役復帰への思いを打ち明けた。
“33歳のトレーナー兼選手”ジョンはこう答えた。
「当たり前じゃないか!お前なんかまだまだBabyだ。それに、長いことボクシングをやってなかったんだから、肉体的にも精神的にもフレッシュになってる。昔より必ず強くなれるよ!」
“天才ボクサー”マーティンからは、こう励まされた。
「まだやれることは、お前自身がいちばんよく知っているはずだ。たとえ他の誰かに『ダメだ』って言われたとしても、とにかく自分を信じろ。Believe
in yourselfだ」
北米王者にもなった“38歳の女子ボクサー”スザーナは優しくこう諭してくれた。
「あなたはまだ31歳で若いけど、20代そこそこの選手であなたほど人生経験がある選手がいると思う? いないでしょ? それが、あなたの自信になるのよ」
皆、柳の思いを理解し、勇気づけてくれた。
07年暮れには帰国を決意。年明け早々からロードワークを開始し、ブルックリンからマンハッタン……厳寒のニューヨークの街を走り続けた。帰国直前の1か月間にはみっちりとジムワークを行ない、現地で活躍するメキシカン、日本人のアマチュア選手たちとスパーリングも重ねた。まだ動ける自分を確認した柳は自信を深め、約8年半過ごしたアメリカを後にした。
復帰にあたって、新田ジムに新天地を求めたのにはきっかけがある。ニューヨークの日本の書籍を扱う書店で『ボクシングマガジン』を毎月購入するようになっていた柳は、復帰を決める以前、袴田巌さんの支援活動に尽力する新田会長の特集記事を現地で読み、感銘を受けていた。
その記事のことを思い出し、「この人の下でボクシングをしたい」という願いを持った柳は、帰国後すぐにかつて所属していたジムを訪ね、復帰の意志と移籍の希望を伝えて了解を得ると、新田ジムで新田会長に会い、思いを伝えた。
「(記事で)イメージしていた通りの素晴らしい人でした。自分の話を同じ目線で聞いてくれた」
その当時を新田会長はこう振り返る。
「話を聞いたら、向こうでトレーナーをやっていて新たに生まれてきた自分の考えを、もう一度ボクシングで表現したい、そういう気持ちでうちに来た、ということでしたので、それはぜひ頑張れと。コンディションをスパーリングができるまでに持っていくのも早かったし、彼のボクシングセンスと人生経験が、スパーリングにも表われていると感じたので、十分やれるだろうと思いました」
こうして08年7月、新田ジムから9年10か月ぶりにリング復帰を果たした柳は、復帰2戦目で11年ぶりの勝利を飾るのである。
「いつか、アメリカをこの目で見てみたい」
気がつけば、幼少の頃からアメリカへの憧れを強く抱いていたという。その憧れは、柳が13歳の頃に見た、アメリカの同世代の少年たちの青春を描いたロブ・ライナー監督の映画『スタンド・バイ・ミー』によって、彼の心に決定的に深く刻まれた。ボクサー時代には心の片隅に追いやられていたその憧れに導かれるように、引退後、アルバイトで資金を貯め、アメリカに渡った。
最初はテキサス州の田舎町への語学留学だった。だが、憧れの地をあちこちと旅行するうちに貯金は減り、意気投合した語学学校の先輩とともに日本食レストランで働き始める。結局、語学学校には3か月ほど通っただけで、グリーンカードを申請して働き続けた。そうして、約3年半をテキサスで過ごしたのち、ロサンゼルスに行くというその先輩と別れ、ニューヨークに移住した。
テキサスの田舎から大都会ニューヨークへ――。車で一人、約4日間をかけてアメリカ大陸を縦断し、ニューヨークの街並みが見えてきたときは、「よし!やってやるぞ!」と、最高に胸が高鳴ったという。いつしか、将来はアメリカで自分の飲食店を開き、ビジネスで成功してやろう、という目標を抱くようにもなっていた。
「アメリカで様々な人種の多様な考え方に触れ、外から日本を見ることができたことは自分の財産」
と柳は言う。ボクサー時代にはできなかったいろいろな経験を積み、様々な人たちとの交流を重ねたことで、人間的にも大きく成長した。
「今の自分は、昔の自分とはまったく違うんです。そのまったく違う自分がボクシングをしているんですよ。この歳になって、いい意味で力の抜き方もわかりますし、思いつめてやっても、うまくいかないことのほうが、多いと思うんですね」
今の自分がかつての自分とは違うこと、自らの成長を自身で確かめ、あるいは、自分に対して証明することができるのは、柳にとって、かつて心血を注いだ同じリングの上でしか、あり得なかったのかもしれない。
現役を続行するか否か。柳は今、迷っているという。11年ぶりの勝利によって、一方では、「次の人生への第一歩をすっきりと踏み出すことができる」心境にはなった。思いつめ、思いつめて、ボクシングだけに集中した5年5か月があったからこそ、アメリカでの充実した約8年半があり、だから、これまでの自分の歩みが間違いではなかったと、自信を持って言える今がある。
それでも迷いがあるのは、
「まだ、後悔する可能性があるからでしょうか? それを言い出したらキリがないですけど(笑)」
具体的には口にしなかったが、一つには、かつての自分が果たせず、09年の目標にも掲げたランク入りを、まだ、達成できていないからだろう。
吉岡戦後の09年3月、日本ランカーへの挑戦は実現した。小林タカヤス(川島)に、4回にダウンを奪われながらも後半盛り返し、判定負けはしたものの、「ランカーと自分の距離はそう遠くはない」と実感できた。だが、続く5月、日本ランキングに復帰したばかりの奈須勇樹(角海老宝石)には3回にダウンを奪われた後、立ち上がって粘りを見せるも、連打を浴び、レフェリーに試合を止められた。柳にとっては、生涯初のストップ負けでもあった。
「止められなければもっとやれるところを見せられたのに、とは思いましたけど、たらればを言っても仕方がないです。結果がすべてですから」
試合直後は「また頑張ろう」という気持ちが沸いたが、時が経ち、この1年の間に「二度もランカーとやらせてもらえたし、もう十分なのではないか」という気持ちが続いているという。
それでも6月初旬からは、少しずつ、ジムワークとロードワークを再開している。
「昔の自分だったら、すぐ『もういいか』ってなってたかもしれないですけどね(笑)。気持ちは揺れ動くものですから、またやりたくなったときのために、体だけは動かしておこうと」
奈須戦後、柳と話し合った孫トレーナーは言う。
「年齢的にも33歳だし、無理をする必要はないと思っています。(ボクシングに)改善できるところはまだあって、それもまだ途中段階ですが、ランカーに勝つために、もう一度リングに上がるのは、もの凄くエネルギーがいることですから。強い精神が支えになることなので、体を動かしながらゆっくり考えればいいと思う」
新田会長も口を揃えてこう話す。
「孫から『体を動かしながら考える』という話し合いの結論は聞いています。彼は、選手としてそんなに長い期間やっているわけではないし、まだまだ伸びしろはあると思っています。柳が善戦した小林選手はあの後、世界ランカーにもなっているんだしね(6月8日、小林は世界ランカーの升田貴久(三迫)に判定勝ち)。あとは本人次第ですが」
この1年余りを、柳は言葉に力を込めてこう振り返る。
「とにかく充実した1年でした。(新田ジムの)この環境にも感謝をしなければいけないですね。本当に幸せ者です。復帰して、本当に良かったと思っています」
もし仮に、このまま柳が区切りをつけたとして、この先、湧き上がってくるかもしれない後悔は、やらなかったから、という後ろ向きの悔いではなく、もう一度、チャレンジしたからこその、言わば上質な悔いであるはずだと思う。
次の一歩は再びリングに向けられるのか、次の人生に向かうのか。それは、
「自分でも、今は本当にわからない」
ほんの1、2時間ほど前に見た柳の、もの静かに自分と対話を続けているかのような練習風景が思い浮かぶ。心の奥底に残っているはずのボクシングへの火種が、再び真っ赤に燃え盛ることを願っているようにも、このまま静かに鎮まることを待っているようにも見えた。
(2009年6月13日取材) |