Vol.14小林昭善(こばやし あきよし) / レパード玉熊ジム

PHOTO BY 松田優子


「なんというか僕、すごいいい加減なんですよね。何かこういう理由があって、タイで試合をしたいとか、そういうカチッとしたこと、考えてないんですよ。なんかこう、『やってみたいなー』みたいな(笑)。そんな感じで……」
上目遣いにこちらを窺いながら、彼は申し訳なさそうにこう言った。
小林昭善がタイに遠征したのは今年の2月24日。バンコクから西へ約80km、車で2時間程の距離にあるラチャブリ県でバンタム級6回戦を行い、3ラウンドKO勝ちを収めた。
6月8日でプロデビューから丸7年になる小林にとっては、これが初めての海外試合。1か月後の3月27日には30歳という節目を迎えようとしていた。一昨年11月、当時日本ランカーだった萬藤厚史(ファイティング原田)にチャレンジし、判定に敗れてから3連勝と、ランク入りに向けて再び上昇してきたところでもあった。そろそろキャリアの終盤に差しかかってきたかもしれない今、何かしらの結果を残さなければ……。いまだノーランクという現状を打破するため、そのきっかけとなる何かをつかむため、彼なりに勝負をかけてタイへ行ったのではないか。そう捉えていたのだが。
タイと太いパイプを持つ有吉将之トレーナーを通して、試合を模索し始めたのは昨年の夏ごろから。だがタイらしいというか、試合は決まりかけては流れ、決まっては延期になり、ようやく正式に決定したのがたまたま30歳を目前に控えた2月だったというのが実際のところであったらしい。試合はもとより、海外自体が初めてだったという小林に、タイで試合を経験した感想を重ねて聞くと。
「そこらへんも、なんかこう気持ちがどうとか、そういうのも特にないんですよね。鈍いんですかね(苦笑)」
ますます申し訳なさそうな顔になる。
「行く前はドキドキ感があったんですけど。行きの飛行機が結構、空いてたんで、3人席か2人席だったかのところで横になって、ずっと寝てたんです。だから、起きたらそこはタイって感じで。特にそういう実感もなく。まあ九州とか名古屋とか、そういうとこに着いたみたいな感覚で(笑)」
思わずこちらも吹きだしてしまった。タイに着いたのは計量前日の夜。有吉トレーナーの他、ジムの練習生7名が同行したタイは、「言葉が違う程度で」日本と特に変わりなかったというのが実感だという。計量の際など、試合前の流れが日本とは異なる面もあるにはあったが、タイ事情に精通し、タイ語を操る有吉トレーナーがすべてに対処してくれたので戸惑うこともなかったのだ、と。
 試合は1ラウンドに相手の攻勢を許した小林が、2ラウンドに展開を盛り返してダウンを奪うと、続く3ラウンドに立て続けに3度のダウンを奪ってKO勝ちを決めたというもの。
― 1ラウンドはさすがに硬くなった?
「まあ、最初はガンガン来られて。けど、いつも前半取られることが多いんで」
― 試合前の緊張の度合いも、いつも通りだったっていうこと?
「そうですね。その辺やっぱり鈍いんですかね?(苦笑)」
今度は少し困ったような顔。
― タイでの試合を経験してから、何か変わったこととか、感じたことはある?
「(きっぱり)ボクシング的にはないですね。けど、精神的には強くなってると思うんですけど……まあ、特に実感はないですけどね(笑)」
 タイでプロデビューして、タイ人ボクサーのマッチメーカーもしている有吉さんという存在が身近にいたから興味を持つようになって、ちょっとタイで試合をしてきました、ハハハ。とでも言わんばかり。自分を飾るでもなく、クールな風を装うでもなく、飄々と思ったままを話すこのボクサーに、何となく好感を持ってしまった。

「周りは山ばっかり」の人口1万人にも満たない小さな町、三重県多気郡大台町の出身。プロボクサーを意識するようになったのは、中学生の頃だった。同じ東海地区の畑中清詞が初めて世界に挑戦した、ヒルベルト・ローマンとのタイトルマッチをテレビで見たのは小学生のとき。以来、ボクシングに興味を抱くようになった少年は、辰吉丈一郎に自分の未来を重ねるようになった……いや、「プロボクサーになりたいな」と思うようになった。これといってスポーツの経験もなく、特に腕っぷしに自信があるというわけでもなかったそうだが、「なれるんじゃないかなと漠然と考えていた」のだという。
それから時を経た高校卒業後、小林は大阪でアルバイトをしながら生活し、19歳になった頃、ジム通いを始める。だが、1年近く練習を続けたが、次第にジムから足が遠ざかっていく。
「バイト先の友達と遊んだりして、練習に毎日行くような感じではなかったんです。もちろんプロにはなりたかったんですけど。なんというか、目指すというよりは漠然となるんだろうなっていう感じで練習してて。で、そのまま普通に遊んで、流れてったって感じですね(苦笑)。なんか僕、今でもそうだと思うんですけど、1本に絞るっていうのが性格的にできないんですかね?これだと決めて突っ走るっていうのが、多分できないんだと思うんです。まあ、好きは好きで1本なんだけど、なんか他のことにもよそ見はするっていう(笑)」
挫折、ではない。「またいつかやるんだろうな」。そう考えていた。小林はしばらく大阪でバイトを続けながら、ぶらぶらと「今の生活からボクシングを抜いただけの普通の生活」を送る。ようやく上京するのは22歳のときだ。
「僕の中で、ボクシングといえば後楽園ホールっていうイメージがあって。今、タイでやりたいって思った発想と似てるかもしれないですね。東京でやってみたいなっていう」
 東京に数あるボクシングジムの中でレパード玉熊ジムを選んだのも、これといって取り立てた理由はなかった。専門誌を見ながら、いくつかジムの候補を挙げてはいたのだが。
「東京に友達がいたんで、しばらく泊めてもらってて。その友達が市ヶ谷だったか九段下の辺りに何か用事があって、一緒に来たんです。そのとき、『この近くに元世界チャンピオンのジムがあるらしいよ』って教えられて。それで見に行ってみようかなと思って」
それがきっかけといえるもののすべてだった。元WBA世界フライ級チャンピオンだった玉熊幸人会長のことも、ちょうど世界チャンピオンだった頃はテレビでボクシングをよく見てた頃だったのに、なぜか全然知らなくって、と苦笑いする。
「レパード玉熊っていう名前は知ってたんですけどね。なぜかファイティング原田とか、そこら辺の時代の人っていうイメージがあって(笑)。で、初めて見学に行った日に、多分、会長だったと思うんですけど、想像してたより全然若い人から、『じゃ、これ書いて』って渡されたのが入門申込書だったっていう。ま、いいかって感じで(笑)」
あの……なんといいますか、行き当たりばったり?
「うーん。僕って、思いがそんなに強くないんですかね?」
結局、候補に挙げていたジムには行かなかったんですよーと、相変わらず他人事のように笑う小林であった。

「思いついたら、思いついた方向を向くような、こっちに真っ直ぐ行くのかな?と思ったら、途中で違う方向に行って、じゃあこっちに行くんだろうなと思って見ていたら、いつの間にか違う方向に行ってるような、そんな感じだったよな」
地元の友人たちからそう振り返られるような、そんな子どもだったと小林は語る。なんとなく納得……。しかし、そんな性分だったはずの若者が、考えてみれば東京に出てきてからの約8年間、30歳になる今まで、ボクシングをやめることなく続けてきたのである。それも、ボクシングがわからなくなった、そんな苦しい時期を乗り越えて、である。
「6回戦の頃ですね。なんかこう、心と体が一致しないというか、変な感じになったんですよ。まあひとつの壁っていったら壁なのかもしれないですけど。その頃は練習の仕方もわからなくなったし、何を練習したらいいのかもわかんない感じで。有吉さんからいろいろとアドバイスされても、理解できないというか、何のためにこんなことやってるんだろうって。試合でも倒そう倒そうと変な試合ばっかりやって、自分でも何もわからなくなって」
デビュー戦から2試合続けて引き分け。その後の3試合をすべて判定で勝利した無敗の小林は2000年4月、東日本新人王ライトフライ級予選に臨み、後に東洋太平洋同級チャンピオンになる林田龍生(渡嘉敷=引退)の前に2ラウンドTKOで初黒星を喫することになる。2ラウンド、先にダウンを奪ったのは小林の方だった。この試合の前から、小林を見るようになっていた有吉トレーナーによれば、「勝てた試合だったんだけど。詰め切れなくて、もたもたしている間に」林田の右アッパーが小林のアゴを捕らえてしまう。そして、そのままロープに詰められて、レフェリーに試合をストップされた。
「林田に負けた影響かどうかは自分ではわからないですけど。昔は、偉そうな言い方したら、こういうコンビネーションで倒そうとか、こんなボクシングしてやろうとか、背伸びしてたと思うんですよ。技術に走るというか、そんな感じだったんです、前は。まあそれで負けてなかったし、そういうのは悪いことじゃないとは思ってたんですけど」
その時期は減量の方法もわからなくなり、練習がきつくなると「これで最後にしよう」と試合のたびに思いながら、練習をしていた記憶もあるという。
 小林がその壁を乗り越えることができたのは2003年11月、初めての8回戦で元日本ランカーの鈴木ワタル(協栄)と対戦した試合がきっかけだったという。
「そのときが初めてですね。練習のときからこういう風にこういう風にっていうんじゃなく、とにかく思い切り行こうって思ったのは。どんなんでもいいから勝とうってガムシャラに行ったのがひとつのきっかけになったと思います」
小林と同門の山形俊彦(=杜子春)に連敗するまで、デビュー以来、無傷の11連勝を続けていた鈴木に結果的には敗れてしまったのだが、判定は2−1と割れ、いずれのジャッジも1ポイント差の接戦だった。
「やる前は自分のレベルがどの程度なのかもわからないし、1ラウンドで倒されるかもしれないし、すごい緊張してたんですけどね。それに試合の3週間前に肋骨にヒビがいってて、あまり練習もできなかったんですけど。開き直って最初からガンガン行って、最後の方はスタミナ切れました(苦笑)。けど、あれで自分のいる位置がわかったというか、ひとつ上に上がれたかなという」
それからは、「結局は、思い切り行けばいいんじゃないか」と結論を出した。すると有吉トレーナーのアドバイスも素直に耳に入るようになった。自分であれこれ考える前に、有吉トレーナーの言うことを試合で出すことを考えればいいじゃないか、と。それで結果も出るようになってきた。それは、背伸びをせず、等身大の自分をようやく素直に受け入れられたということだったのかもしれない。
「とりあえず、武器になるものが僕には何もないんで。全然スピードとかもないような気もするし、パンチもなくて倒せないし、連打もできないんですよね(苦笑)。そういうことにようやく気づいたんです。今はとりあえず、ガードだけはしっかりして、後は有吉さんに言われたことを試合でしっかり出せれば大丈夫かなって。自分の中ではまだ半分も出せてないと思うんで、言われたことをまず出せるように」
最近、ボクシングが楽しくなってきた、という小林。キャリアの終盤などという意識は、この30歳のボクサーには、ほとんどないといっていいようである。

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