Vol.13 洛翠ボクシングジム会長/酒井健一さん 2



 啖呵を切ってやめたものの、酒井さんは生活に張りを失い、仕事までやめてしまうと、しばらくは無為な日々を送った。これではいけないと、やがて電気会社に就職し、エアコンを取り付ける工事を担当するが、それでも何か大切なものを失った喪失感は変わらなかった。
「やっぱり、このジムに愛着があったんですね。仲良くなった人もたくさんいましたしね。仕事の帰りに、ジムの前を毎晩のように車で通って帰るのが習慣のようになってしもうて(笑)。でも会長が怖くて、許してもらえへんやろうなと思って、なかなかジムに戻ることができなかったんです」
 だが、1年も過ぎる頃になると我慢しきれず、意を決して洛翠ジムに松島会長を訪ね、謝罪をする。絶対に怒られるだろうと覚悟していた酒井さんだったが、松島会長は「この日を待ってくれてたかのように」優しく迎え入れてくれた。松島会長にしてみれば、少し頭を冷やせ、というほどのことだったのかもしれない。
 二人の関係はどこか、無口で頑固な父親と、生意気盛りの息子とのぎこちないコミュニケーションを思い起こさせる。

 1994年3月27日、1年半振りの試合を地元京都のKBSホールに迎え、酒井さんはようやく判定でプロ初勝利を収める。だがジャッジは割れ、2−1のスプリットデシジョン。酒井さんの言葉を借りれば、「楽に勝とうと横着かましてしもうて」。自分からは前に出ず、足を使って相手をポイントアウトするボクシングに変化はなかったのだ。そして、拳の怪我もあって間隔が空き、1995年2月2日に行われた復帰2戦目は1−0の判定でプロ3試合目の引き分けに終わるのである。アマチュアの約7年間の経験で培ってきた自分のボクシング理論に絶対の自信を持っていた酒井さんは、松島会長を含め、洛翠ジムのトレーナー陣の言葉には一切、耳を貸さなかったという。アレクシス・アルゲリョ、シュガー・レイ・レナード、ルペ・ピントール、カルロス・サラテ……。往年の名選手たち、それもスタイリッシュなボクシングスタイルの選手の試合が収められたビデオテープが、酒井さんのトレーナーだった。
 次の試合が1995年5月15日に決まっていた。その2か月前のことだった。前年から入退院を繰り返すようになっていた松島会長が、急逝するのである。後を継ごうとする者はなく、洛翠ジムの閉鎖も決まった。だが、すでに試合が決まっていた酒井さんを含む2名の選手は、本間久美子マネージャーの尽力で、洛翠ジム所属選手としてリングに上がることが認められ、京拳ジムや京都大学の体育館を借りて、試合に向けたトレーニングを続けた。
 酒井さんには心残りがあった。洛翠ジムと契約して、日本のリングで元日本王者のピューマ渡久地らを倒した元OPBF東洋太平洋王者の権昌夫と、一度もスパーリングで手合わせできなかったことだ。酒井さんの願いを最後に実現させたのは本間マネージャーだった。韓国に帰国していた権の所属するジムに酒井さんを連れて行き、約3週間、その地に滞在する機会を作るのだ。そして、これが酒井さんの遅すぎた転機となるのである。
「権さんのパンチはとんでもなかったですよ。実は大学のとき、大阪帝拳でデビュー前の辰吉ともスパーリングしてるし、京都で世界戦をやったときのユーリとも、洛翠ジムでの公開スパーでやってるんです。でも、権さんのパンチはそれまでに経験したこともない質で。石で殴られたみたいに痛いし、踏ん張った後ろ足にほんまに電流が走ったようになるんですよね」
権と酒井さんは熱のこもったスパーリングを展開する。酒井さんは、元OPBF王者を本気にさせるのだ。「下がったら殺される」というほどの恐怖心を酒井さんは抱いた。そして、自然と体は前に前に動き、権に対して真っ向からの打ち合いを挑んでいた。
「韓国に行って、権さんと互角に渡り合えたことは、ものすごい自信になりましたね」
 5月15日、大阪府立体育館で行われたスーパー・バンタム級4回戦では、そのままの動きで前に前に前進し、3ラウンド16秒、プロ初のTKO勝ちを飾った。権からプロの凄みを体で叩き込まれた酒井さんが、ついにアマチュアのボクシングスタイルから脱却できた瞬間だった。だが、結局これが酒井さんの最後の試合となる。
 その後、韓国から権昌夫が再び招聘され、後楽園ホールで松島会長の追悼試合が行われた。そして、松島会長を送るテンカウントのゴングとともに、洛翠ジムも1988年6月3日の開設以来、約7年の短い歴史を閉じたのである。

 ジムを復活させるまでの8年間は、葛藤の繰り返しだったという。ときには本当にやっていけるのだろうかと自信を失い、諦めかけたこともあった。だが酒井さんには大きな心残りがひとつあった。それは、松島会長に最後まで自分が勝った姿を見せることができなかったことだ。ジムに復帰し、プロ初勝利を飾った日、松島会長は入院しており、会場に来ることができなかったのだ。
「会長はずっと、ぼくの勝ちを望んでくれてはったんですよ。その会長に手を上げる姿を見せられなかったんが、ほんまに悔しかったですね。会長にはほんまにお世話になったと思うてますし、その会長が洛翠ジムを開くとき、街中やなしにこんな下町の方がええと選んだのがこの場所やったんです。だから、ぼくはこの場所にこだわったんです」
「会長はね、『あの子は選手としてもいいもの持ってるけど、教える方がもっと向いてる。いつか、うちのジムのコーチになってくれへんかな』って常々、言ってたんですよ」
と本間さんが振り返る。その酒井さんが今、こうして松島会長の遺志を継いでいる。何か運命的なものを感じてしまう。酒井さんは続ける。
「最後にTKOで初めて勝って、このままやめてしまうのもって、ずっと引きずってたんですよ。だから、実は大阪のいくつかのジムで練習をしたんです。でもぼくにとってはこの洛翠ジムが、やっぱり良すぎたんでしょうね。結局、どこのジムにも馴染めなかった。まあ他のジムでもあるんやろうけど、建築現場のおっちゃんから、お医者さんとか、ほんまにいろんな人たちが、更衣室なんかでだらだらと話をして(笑)、誰とでも仲良くなれた。そういうなんというか、独特の和がこのジムにはあったんですよ。今でも仲良くさせてもらってる人もいっぱいいますしね。そんな雰囲気がぼくは好きやったんです」

 開設に関わったもうひとりのOBは、事情があって離れてしまったが、現在はジムがオープンした頃に久しぶりに再会した南京都高校の同級生、角田浩司さんがもうひとりの会長として加わっている。角田さんが高校当時に在籍していたのはサッカー部。洛翠ジムとも直接の関わりこそなかったが、しばらく前にフィットネスクラブで約3年間、ボクササイズを習った経験があり、会員を教える立場にも立っていたのだという。酒井さんがボクシングジムを経営していることを聞いた角田さんは最初、会員として入会した。だが「飲み込みが早いし、センスがあった」という角田さんに、酒井さんは一緒にやらないかと声をかける。アマチュアで1戦を経験した後、角田さんは本格的に教える側に回った。仕事もやめ、現在はジム1本であるという。
「始めたのが遅かったから、もう選手として目指せるものはなかったしね。教える方で、やっていこうかなと。まあ経済的には正直、厳しいんやけど、好きでやってることやからね」
 そして、本間さんも週に2回、ジムを手伝いにやって来る。もともと松島会長の仕事の、秘書的な役割を務めていたという本間さんがボクシングに携わるようになったのは、松島会長が東京の荒川にボクシングジムを開いてからだったという。それまでテレビでもボクシングを見たことはなく、どんなスポーツなのかも知らなかった本間さんは最初、ときに血を流しても殴りあう選手たちを見て、「なんていうスポーツなんだ」と驚き、見ていられなかったという。だが、ジムでハードなトレーニングを毎日のように一生懸命に頑張る男たちの姿を見守り、彼らがやがて試合に勝って喜ぶ姿、負けて悔しがる姿を見るにつれ、次第にボクシングの魅力に引き込まれていった。そして、「スポーツの中のスポーツ」というほどにボクシングに惚れ込むようになる。松島会長が京都に洛翠ジムを開いて1年が経った頃から、本格的にマネージャーとして携わるようになった。本間さんは、かつての洛翠ジム時代の約7年を振り返って、こう言う。
「ジムに来たら、疲れも嫌なことも全部、吹き飛びましたよね。私にとっては、選手が成長していく姿を見るのが何より楽しみやったし、皆ええ子たちばかりやったしね。私自身、ボクシングに賭けてたあの時代は、ほんまに楽しい人生を送らせてもらったと思ってるんです。私にとって洛翠ジムは、生きがいでもあったんですよ」
 最初にジムの名前につけた『クロスア』は、「交差する」という意味の『クロス』と、「最高の」という意味を託した『A』を併せた造語だった。名前や場所、用具や配置などは受け継いだが、もちろん今はプロ協会加盟のジムという立場を受け継いではいない。再びプロ協会加盟のジムとして復活するには、1000万円という高い加盟金が最大のネックのひとつになるだろう。だが、いつの日か、最高の選手が集うジムに育てていきたいという大きな夢を酒井さんも角田さんも受け継いでいる。いつの日か、きっと。そして、選手希望ではなくとも、健康増進やダイエットなど、それぞれの目的を持った様々な人たちが、それぞれにとっての最高の目標を達成するために交差する場所としてのボクシングジムをこの地に復活させ、再び育てていきたいという願いも、同時に込められていたはずである。
 今はまだ、少しずつではあるが、かつてと同じように、下は小学生から上は50代のおじさん、また稲田扇さんのような女性会員など、様々な人たちが集まってきているところ。かつての洛翠ジムのメンバーたちも、少しずつジムに帰ってきているという。元プロの泉雅勝さんもそのひとり。たまにジムに顔を出しては、練習生を相手にミットも持つ。そして、アマチュア登録のジムとしての洛翠ジムの初陣は、昨年秋に龍谷大学の体育館で行われた京都府の新人戦。この大会に5人の選手を送り出し、3人が決勝に残り、1人は優勝という結果を残した。
「まずはこういう大会なんかで、上位を常にうちの選手で埋めて、あのジムとはやりたくないなって、言われるようになりたいね」
と角田さんが意気込む。そして、酒井さんは言う。
「まずは練習生を含めて、選手層をもっと厚くすること。いずれプロでやりたいっていう選手が出てきたときに、ほんまはプロに加盟しているのがいちばんなんやけど、そうやなかったら、うちでアマチュアを経験してもらって、基本的な技術をしっかり身につけさせてから、他のジムを紹介してあげるだけ。まあ焦らずにやりますよ……ほんまは焦りたいんやけどね(笑)」

 京都市北部の東寄りを南北に走る叡山電鉄というローカル線に、茶山という駅がある。そこには、洛翠ジムというボクシングジムがある。ボクシングを愛し、洛翠ジムを愛したひとりの若き会長を中心に、かつてマネージャーを務めていた女性と、彼の思いに共感したもうひとりの会長の下、約8年間の空白を越え、今、再び歴史を刻んでいる。




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●船橋 真二郎 (ふなはし しんじろう)
1973年東京都出身。99年5月〜00年9月までサッカーJリーグ・大宮アルディージャのオフィシャル誌の企画編集を担当。01年10月、J2からJFLに移籍した選手の苦闘とその選手の所属先となったJリーグ入りを目指す地域クラブチームの現状とを取材した記事がサッカー専門誌(web)『Foot Ball Weekly』に掲載。03年9月『ワールドボクシング』誌に記事掲載。『Talk is Cheap』には02年5月より参加。


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