Vol.13


洛翠ボクシングジム会長/酒井健一さん

《今から約10年前、ぼくは京都市の北の外れにある大学に通う学生だった。京都市北部の東寄りを南北に走る叡山電鉄というローカル線に、茶山という駅がある。宮本武蔵が吉岡一門と決闘したことで有名な一乗寺下り松から程近い所で、かつてそこには、洛翠ジムというボクシングジムがあった。1995年に松島聖悟会長が亡くなったのと時を同じく、ジムはその歴史を閉じている。(中略)実家のある東京を離れ、ひとりで何かに挑戦してみたいという気持ちもあって、ぼくはその洛翠ジムに通うようになっていたのだ》
 私が以前、一昨年の『Talk is Cheap』(2003年11月号)に書いた文章の中に、このような記述があった。そして、掲載から約1年が過ぎた昨年秋のこと。偶然、この文章を見かけたのであろう稲田扇さんという女性から、サイト宛にこのようなメールをいただいた。
《左京区にある洛翠は、洛翠をこよなく愛した酒井という男の手によってまた復活しています。資金不足で大変ですが・・・。私は、今ここに通うジム生ですが、洛翠をこよなく愛して、ハンマー一つから始まって昔のジムとそっくりに計算して作りあげた彼を大変尊敬し、感動しました。今、また同じ場所にあります》
 洛翠ジムを以前と同じ場所にほとんど元の形で復活させたというこの「酒井」という男性に、私はいつか会いに行きたいと思っていた。

 それは、私がまだ京都の大学に通う学生だった頃、わずか2,3か月程度でやめてしまった洛翠ジムを、ふと思い立ってふらりと訪ねてみたことがあった。だが、ジムがあった建物の中は空っぽ。看板もリングもサンドバッグも何もかもが姿を消し、表には「テナント募集中」の掲示があった。そのときはまだ、詳しい事情を知らなかった私は、予想外の光景を前に呆然と、そして寂しい思いをしたものだった。

 2月5日、私は久しぶりに茶山駅に降り立った。懐かしいにおいをかすかに鼻腔に感じる。それは、近くの染物工場のインクのにおいとジムの裏手にあった養豚場のにおいとが混じりあった、独特のにおいのはずだった。だが、決して不快なにおいというのではなく、当時の私にとっても、訪ねたこともないのにどこか懐かしい、故郷を思い起こさせるようなものだった。後で聞いたところ、養豚場は一昨年に閉鎖になったそうなので、かつてのにおいとは微妙に異なっていたはずだが、姿を消したはずのあの洛翠ジムを再び訪ねるのだ、という奇妙な興奮が、私に懐かしいにおいを思い出させたのかもしれなかった。この角を左に曲がれば、その先に……。洛翠ジムは確かにそこにあった。

 高校から大学にかけ、アマチュアのリングに上がっていた当時はバンタム級だった、という酒井健一さんは、
「今ではミドル級を超えるくらいになってしまって」
と照れくさそうに笑った。こう言っては失礼だが、今では確かに一見しただけで即座に元ボクサーだったと想像しにくい体型ではあるかもしれない。だが、話を聞かせていただくうちに、この人は確かにボクサーだったのだと思わせる、ある種の純粋さと、気負いのない自然な意思の強さといったものを、酒井さんの中に確かに感じるのである。
 現在のジムがオープンしたのは、2003年の5月頃だったという。最初は、「京都クロスアジム」という名前だった。当時は以前と同じ名前を使用することに何となく気兼ねがあったのだそうだ。だが、今から1年前の2004年2月には、やっぱり愛着があったから、という「洛翠ジム」に戻した。
 松島会長が亡くなって丸8年が経った2003年3月。酒井さんが待ちに待っていた時が、ついに訪れる。かつて、洛翠ジムがあったスペースに、「テナント募集中」の掲示が出されたのだ。もともと洛翠ジムは二つだったスペースを一つにして使用していた。その間、そのいずれかには必ず居酒屋などの店舗が途切れることなく、出たり入ったりしていたという。酒井さんは二つが同時に空く時を、仕事中や仕事帰りなど、機会を見ては前を車で通ってうかがっていたそうなのである。酒井さんはその場で不動産屋に電話をし、すぐに契約を済ませる。幸か不幸か、当時、酒井さんの勤めていた会社は倒産が決まっており、「これしかない」という思いを後押しした。
「ジムをまた同じ場所でやることになりました」
酒井さんは真っ先に、かつて洛翠ジムでマネージャーを務めていた本間久美子さんに連絡をする。その報せは洛翠ジムが閉鎖になって以来、ボクシング界から離れていた本間さんにとっても嬉しいニュースだった。
 酒井さんのジム作りはまず、スペースを仕切っていた壁を、ハンマーで叩き壊すことから始まった。そして、床に昔の配置通りに図面を引き、排水溝を掘り、ブロックを積み上げ、壁にきれいにクロス(壁紙)を貼った。費用を抑えるために、鏡の取り付けやシャワー室の設置以外はほとんど、材料を自分で買ってきての手作りだった。昔やっていた仕事の経験も思わぬ形で活きたという。洛翠ジムのOBと二人、酒井さんはそれこそ寝る間も惜しんでジム作りを進め、わずか2か月で完成にこぎつけた。そしてそこに、かつて洛翠ジムで使用していたリングを組み立て、サンドバッグを吊るす。
 実は最後に洛翠ジムの鍵を閉めたのは、酒井さんだったという。本間さんに「いつか絶対ジムをやりたいから」と訴え、ジムで使用していた用具のほとんどを酒井さんが引き取っていたそうなのだ。自宅の狭い部屋で、ばらしたリングやサンドバッグなどの用具とともに、眠っていた時期もあったという。やがて、友人の家の倉庫に預けられ、以来ずっとこの日を待っていた用具たちも、ようやく元の場所に帰ることができたのである。本間さんが言う。
「言ったことは結構、やる子やったし、他にそういうことを言ってくる子はいなかったしね。それなら、自分で大切にしまっておいて、いつかやり、ってこの子に託したんですよ。でも、ほんまにこうやってジムがまた、できるとはね。そうは言っても半信半疑やったですから(笑)」
 サンドバッグの位置など、以前とは微妙に異なる配置もあるにはあるが、稲田さんからのメールにあった通り、ジムは確かに昔とほとんどそっくりの姿だった。本間さんが私に言う。
「これ、あなたが昔、練習したリングよ」
そう思ってリングを眺めると、何か感慨深い思いがこみ上げてくる。
 しかし、なぜ酒井さんはこうまで同じ場所に、洛翠ジムにこだわったのだろうか。そこには、ボクシングはもとより、洛翠ジム、そして志半ばで亡くなった松島会長への想いがあった。

 1968年9月16日、京都府宇治市出身の酒井さんがボクシングを始めたのは、ボクシングの強豪校、南京都高校ボクシング部でのことだった。『あしたのジョー』『リングにかけろ』などのボクシング漫画は好きでよく読んでいた、という酒井さんではあったが、「まさか自分が実際にやることになるとは思ってもいなかったんです」という通り、それが直接の契機ではなかった。南京都高校に進学した酒井さんが最初に入部したのは少林寺拳法部だった。ブルース・リーやジャッキー・チェンが好きで、もともと強さに対する憧れがあった。だが“型”だけを繰り返す練習に失望し、すぐに退部。それからしばらくは、「帰宅部ってやつですね。アルバイトも何もせんと、だらだらと生活してました」。そんな酒井さんの様子を見かねたのが母だった。「何でもいいですから、この子に何かスポーツでもやらせてください」。三者面談の際に、母は担任の教師にこう訴えた。酒井さんは心の中で、おいおい何を言い出すんや、と焦った。担任の教師が、ニコニコしながらこう答える。「お母さん、いいスポーツがあります。私に任せてください」。母はその教師がボクシング部の監督でもあることは知らなかった。
 半ば強引にボクシング部に入部させられた形の酒井さん。もともと、小柄だが運動神経の良かった酒井さんに目をつけていた担任の教師から、再三、ボクシング部に誘われていたのだそうだ。当然、最初は嫌々ボクシングをやっていた酒井さんだが、
「昔はすぐにカーッと熱くなって、周りのことが目に入らなくなるような性格だったんですよ」
という生来の気の強さと、負けず嫌いとが、自身を次第にボクシングに引き込んでいくことになる。
 酒井さんをボクシングに引き込むきっかけとなった最初の出来事。それは入部から約3か月が経ち、初めてリングに上がって先輩を相手に、左ジャブだけで“差し合い”をしたときのことだった。
「結構、ボクシングをなめてたんですよね。当時の先輩たちは結構、強い人たちばかりやったんですけど、下からリングの上の2年、3年の先輩たちをずっと見てて、でも、まあ言うても腕2本だけやし、そんなにたいしたことないやろって感じで上がったんです。そしたら左1本だけで、ボコボコにされたんですよ(笑)」
それからは、「このままでは終われへん」と以前より真剣に練習に取り組むようになった。
 次の出来事は、2年になって初めての公式戦、インターハイ京都府予選に出場したときのことだった。「2回か3回勝てば、京都代表になれた」というその1回戦で、酒井さんはあっけなくRSC負けを喫してしまう。相手は、後にプロのリングでも活躍する、当時から京都拳闘会で練習をしていたという1学年上の中出岳だったから無理もない。負けたままでは終われないという意識が再び働いたのは当然だが、一方で酒井さんは、中出のスタイリッシュで華麗なボクシングスタイルに魅了され、憧れたという。
「中出さんを追いかけて、しつこいくらいに続けちゃいましたね」
 次に迎えた国体予選1回戦の相手もまた中出だった。今度は判定負け。結局、中出の壁を越えることはできなかったが、この中出との対戦が、ボクシングの駆け引きの奥深さを理解するきっかけとなり、ボクシングが面白くなっていったという。中出が卒業した翌年、3年になった酒井さんは、順当に京都府予選を勝ち上がり、インターハイ、国体に出場を果たすと、いずれもベスト4という結果を残した。高校卒業後は大阪商業大学に進学し、ボクシング部に在籍。リーグ戦以外、大きな大会に出場することはなかったそうだが、1年の最初からリーグ戦に出場し続け、さらに4年間、ボクシングを続けることになった。そして大学を卒業し、クロスやカーペットなどを扱う、インテリア系の会社に就職した酒井さんは、そこでリングを離れるのである。
「ずっと毎日のようにボクシングをやってきて、もうええかなって感じでした」

 だが、リングを経験した者の宿命か、ボクシングをやめてからも専門誌は買い続けていたという酒井さんはしばらくすると、
「『ボクシングマガジン』とか『ワールドボクシング』を見ているうちに、闘争心というのか、またやりたいっていう気持ちが湧いてきて」
 京都市内で働いていた酒井さんの目は、『ボクシングマガジン』の1ページ全面に掲載されていた洛翠ジムの広告にとまる。
「林小太郎とかボーイ・デグノスなんかが、世界ランキング何位とかって載ってたでしょ?それを見て、自分はどこまで通用するんやろうって。まあぶっつけ本番でやったら、やられるやろうから、しばらくジムで練習せなあかんなとは思いましたけど」
もともと酒井さんにはプロになろうという気持ちはなかった。世界ランカーと契約しているジムに入り、彼らを相手にスパーリングで力試しをしてやろうと考えていたのだ。
 こうして洛翠ジムに入門した酒井さんだったが、ジムで南京都高校ボクシング部の後輩、泉雅勝さんと再会して、進路が変わる。泉さんは3か月後にプロテストを受ける予定になっていた。「酒井先輩も一緒に受けませんか」。結局、泉さんに引っ張られるような形でプロテスト(C級)を受験し、合格。デビュー戦も早々に決まり、大学を卒業した年の暮れ、1991年12月26日には、なんばグランド花月でフェザー級4回戦が組まれた。
「試合の方はこれがまたさっぱりで(笑)。ジャブ突いて、ポイント取って、足使って逃げたら、勝てるやろっていう甘い考えやったんですよね。自分からはガンガン前に行かんと、前に出てきた相手を下がってかわしたりして、見映えも悪かったと思うんです。結局、アマチュアのスタイルから抜けきれなかったんですね」
デビュー戦は三者三様の引き分け。年が明けた4月には西日本新人王予選に臨むが、これまた三者三様の引き分けで敗者扱いとなり、次に進むことはできず、9月の3戦目に0−2の判定で初の黒星を喫したところで、「お前はクビや」と松島会長から宣告される。その会長に対し、負けん気の強かった酒井さんも「それなら、やめたるわ」と応じた。
 再びボクシングを始めたときの目的だった世界ランカーとのスパーリングは、日本での試合を前に韓国から来日し、洛翠ジムで調整を行う林小太郎との間ですでに何度も実現していた。後に鬼塚勝也の世界タイトルに挑戦する上り坂の林を相手に、「実は小太郎を3回倒してるんですよ」というほど、酒井さんは分のいいスパーリングを行ったらしい。
「ガンガン前に出てくる相手には弱かったんですけど、小太郎は出入りする、韓国人にしてはちょっと変わったボクシングしてたでしょ?そういう相手とは噛み合うんですよ。何回も見てて、手の内もわかってましたしね」
松島会長の酒井さんにかける期待は大きかったに違いない。それだけに、落胆はそれ以上に大きかったのではないだろうか。
「会長からすれば、勝てる試合を逃げて自分から落としてるっていう風に見てたでしょうね」
結果的に松島会長とケンカをするような格好になった酒井さんは、洛翠ジムへの出入りまで禁止され、結局ボクシングをやめることになる。

>>次ページに


■ 前後のページ |


TOP PAGE

Copyright (c) Talk is Cheap all rights reserved