祖母と私、そして辰吉丈一郎


あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹きくる風が私に云ふ
(中原中也『帰郷』より)

 辰吉丈一郎がブラウン管の中で土下座をしていた。横浜アリーナに詰めかけた四方の観衆に向かい、目の上を切り、顔を腫らした無惨な姿で……。その姿を見ながら、私は不覚にも涙を流していた。辰吉を哀れむ涙ではない。私は、私自身を哀れんでいたのだ。辰吉は自らの運命を自らの意思で選び、そしてその結果を、何ら言い訳することなく、自らの全身で引き受けている。一方で1か月後に23歳になる私は、未だ自らのちっぽけな運命すら選ぶことができず、迷い、ただ逃げていた。私には何かに対し、土下座をして落とし前をつけるものなど、ひとつとしてなかった。

 1996年3月3日、辰吉はメキシコの老雄ダニエル・サラゴサのWBC世界J・フェザー級王座に挑み、11ラウンドTKOに敗れた。網膜剥離で引退勧告を受けていた辰吉の、これが二度目の特例だった。1994年12月4日、薬師寺保栄とのWBC世界バンタム級王座統一戦に敗れたときは、これが最後と思われた。だが、不屈の精神で自らの意思を貫き通し、ラスベガスで2戦を行い、2戦ともTKO勝ち。辰吉の動きには支持もあったが非難もあった。そうして、辰吉はこの日を迎えていたのだ。私の中にも複雑な思いはあった。ルールに則り、過去に網膜剥離で引退を受け入れた少なくないボクサーたちは、どう思っているのだろうか、と。だが、その瞬間にはそんな思いは吹き飛んでいた。辰吉の姿に、ただただ涙を流すことしかできなかった。そして、二度目はあったが三度目はもうないだろう、これが辰吉の最後なのだ、という思いもあった。試合内容は正直、あまりよく覚えていない。試合に集中することができなかったからだ。私はこの試合の中継を母方の祖母が入院する病室で見ていた。

 その年、祖母は脳梗塞で倒れ、転倒した際に足も骨折し、岡山市街の外れにある小さな病院に入院してしまっていた。祖母と暮らしていた伯母と近くで暮らしていた二人の叔母が、交代で夜中から明け方まで看病していたのだが、さすがに体力が続かず、仕事があることもあって、その頃、京都の大学に通っていた私が、週の何日かを受け持つことになった。祖母にはもう意識がなかった。話すこともできず、立ち上がることもできず、顔には酸素を吸入するマスクが装着され、腕には点滴の管がつけられていた。そして、それが苦しいのか嫌がり、マスクを手で払いのけようとしたり、管を引き抜こうとしたりした。だから祖母の両手は病室のベッドのパイプに包帯で縛り付けられていた。それでも祖母はそうしようとすることをやめようとはしなかった。夜中に突然ベッドがガタガタと音を立て、祖母が苦しそうに声を上げる。そんな意識のない祖母の手を握り、なだめるのが私の役目だった。

 それが初めての日だったか、何度目かの日だったかは忘れてしまった。だが、とにかくそういう状況で、私は不謹慎とは思いながらも見たいという気持ちを抑えることができず、散々迷った末に病室のテレビのスイッチを入れたのだ。そして、辰吉の姿に涙してテレビのスイッチを切った数時間後、私は再び涙を流すことになった。その夜、何回目かの世話を終えた後、ふと気がつくと祖母の右足が布団からはみ出てしまっている。布団の中に入れてあげようと、私は祖母の足を手に取った。長い入院生活を続けていた祖母の足は、骨と皮という表現がぴったりの軽くて細い細い足だった。
「おばあちゃんは死ぬんだ」
不意にそのような思いが実感となってこみ上げてきて、私は泣いた。

 もともと細身だったが、身体の強い祖母だった。それは私が中学校の1年か2年の頃、岡山のO町にある祖母の家に遊びに行ったときのことだった。私より4つ年下のいとこの男の子と、私は腕相撲をしていた。私はクラスで一番というほどではなかったが、それでも腕相撲は強い方で自信があった。いとこはまだ小学校の3年か4年頃で、私に適うはずもなく、挙句の果てには両手で勝負を挑んできた彼にも勝ってしまった。それを見ていた彼の二人の妹も一緒になって三人がかりで私の右腕を何としてでも倒そうとした。それでも私が勝ってしまった。すると、得意満面になっていただろう私に、いつの間にか背後から様子を見守っていた祖母が声をかけてきた。
「私とやってみる?」
祖母はその当時で74歳か75歳である。負ける訳がないどころか、祖母の腕の骨を折ってしまわないかと私は心配だった。だが手を合わせた瞬間、その細身の腕に通った芯の強さを私は感じ取っていた。そして、やや手加減しながら力を入れたが、果たして祖母の右腕はびくとも動かなかったのだ。
「もっと本気で力を入れなさい」
ニコニコと余裕の笑みを浮かべながら、祖母は言った。私は悔しくてありったけの力を右腕に込めた。だが、それでも祖母の腕はぴくりとも動かなかった。そうして私が疲れてきた頃合いを見計らって、祖母はあっさりと私の腕を倒してしまった。

 祖母はO町から少し離れた岡山県下にある小さな田舎町の出身だった。戦争中は祖父が転勤した東京で暮らしたこともあったが、戦火が激しくなる頃、祖父を残して3人の娘を連れ、O町に疎開して戻った。その3番目の娘が私の母だった。O町に戻った祖母は、畑を耕し、女手ひとつで娘たちを守った。祖父は無事だったが単身赴任が続き、戦争が終わった後もずっと祖母はひとり農作業を続けた。やがて私が生まれ2歳になる頃、祖父は病気で亡くなってしまった。祖母は、ほとんど一人で女ばかり5人の子どもを育ててきたのだ。祖母の身体の強さは言うなれば、大地に根ざした母の強さだったかもしれない。

 私は高校を卒業した19歳の頃、しばらくO町で暮らしたことがある。祖母と二番目の伯母といとこが暮らす家に居候させてもらい、何をするでもなく、ただコンビニのバイトをしていたことがあったのだ。父親は大学に行けとうるさく言った。私はただ無目的に大学には行きたくなかった。自分はこれからどう生きていくのか。その方向を見定めたかった。その時間が欲しかった。だが結局、答えを見つけることはできず、しばらくして東京にすごすごと舞い戻った私は、大学受験の勉強を始めるしかなかった。その年が明け、私は無事に京都の大学に進学することになった。だが、自分は何も変わっていなかった。再び東京を離れることを選んだのも、また、ただ逃げたかっただけなのかもしれなかった。そして、それから何年か過ぎ、祖母の看病をしていた頃の私も結局、何も変わっていなかったのだ。

 医者は「もう長くはないかもしれない」とまで言った。だが、祖母はその後、奇跡的に回復し、話すことも、立ち上がることもできるようになった。見舞いに訪ねたO町の家で、だが祖母は私のことをなかなか思い出せなかった。居間にベッドが入れられ、何かにつかまりながら立ち上がってソファに座ってテレビを見たり、食事をしたりする以外、祖母は1日のほとんどをそのベッドの上ですごすようになっていた。だが、しばらく一緒に過ごすうち、私のことも少しずつ思い出してくれたようだった。
 そして京都に戻る日。私は玄関脇にある居間の扉を開け、「おばあちゃん帰るよ。また来るからね」と祖母に声をかけ、扉を閉めると荷物を持って、玄関を出ようとした。すると、背後で居間の扉が開く音がした。見ると、祖母が扉のふちにつかまりながら立っていた。わざわざベッドから起き上がって、私を見送ろうとしてくれていたのだ。「おばあちゃん、無理しないで寝てなよ」。そんな私の言葉には耳を貸さず、祖母はさらに玄関まで、ゆっくりゆっくりと歩みを進め、ついに下りてきた。手を貸そうとした私を、祖母は思いのほか力強く振り払った。
「私はまだ大丈夫」
何も言わなかったが、そう言っているかのような力強い意思が感じられた。そして、玄関の扉につかまりながら、伯母の車で駅まで向かおうとする私に向かって、祖母は優しい笑顔を浮かべながら、いつまでもいつまでも手をひらひらと振ってくれたのだった。伯母の手前、私はこみ上げてくる涙を必死にこらえた。

 私が勝手に最後と思った辰吉もまた、その後も周知の通りリングに上がり続けた。その年の暮れ、ラスベガスで再起戦を行うと、年が明けた4月には大阪で再びサラゴサの牙城に挑んで判定に散った。そして、1997年11月、バンタム級に戻った辰吉は、タイの無敗の若き王者シリモンコンを大阪城ホールに迎え、大方の予想を覆して7ラウンドTKO勝ちに下し、ついに世界王座を奪還した。「辰吉、行け!倒せ!」。その試合を京都の自分の部屋でテレビ観戦しながら、私は我を忘れて大声を上げ、また知らずに涙を流していた。それは、私がようやく大学を卒業する年だったのだが、卒業後の進路はまだ決められないでいた。私はまだ迷い、逃げていた。そんな自分を忘れ、辰吉の凄まじいまでの生き様を前に、ただただ感動し、涙が流れたのだった。

 この1月18日の夜、祖母がついに亡くなった。あれからすでに9年近い時が流れ、祖母は92歳になっていた。今から2、3年前に再び倒れ、祖母はO町の家で意識をなくしたまま、ずっと寝たきりの生活を送っていた。しばらく前から医者からは再三、もう長くはないと言われていた。だが、祖母はその驚異的としか言いようのない生命力で、なお生き続けた。
 荼毘に付された祖母の足の骨は綿状になり、ほとんど原型を留めていなかった。斎場の男が「骨粗しょう症で骨が弱って……」などと淡々と説明した。あのときと比べれば、さらに衰弱はしていただろうが、こんな足で立ち上がって、あの日、私を見送ってくれたのかと、思い出すと私はまた涙が溢れそうになった。
 私は今では、会社に勤めるようになり、1年ほど前には結婚もした。そしてその傍ら、このような箸にも棒にもかからないような駄文を書き連ねる機会を、この『Talk is Cheap』で3年ほど前から頂いている。では、あの頃から何か変わったのかと自分に問うと、はなはだ心許ない次第である。


 そして、辰吉丈一郎は今なおリングに上がろうとしているという。まだヒザの古傷が癒えていないそうで、一昨年以来となる再起戦の日程は、正式に決まっていない。もうリングに上がらない方がいいという声も少なからずある。だが、辰吉は自ら望み続ける限り、また、リングに上がるのだろう。辰吉がそのボクサー人生にどのような幕を引くことになるのかは、おそらく彼にしか決められないのだ。その辰吉の姿をこの目で見届けたいと、私は今、勝手に思っている。



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●船橋 真二郎 (ふなはし しんじろう)
1973年東京都出身。99年5月〜00年9月までサッカーJリーグ・大宮アルディージャのオフィシャル誌の企画編集を担当。01年10月、J2からJFLに移籍した選手の苦闘とその選手の所属先となったJリーグ入りを目指す地域クラブチームの現状とを取材した記事がサッカー専門誌(web)『Foot Ball Weekly』に掲載。03年9月『ワールドボクシング』誌に記事掲載。『Talk is Cheap』には02年5月より参加。


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