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試合が始まって数ラウンドが経過した頃、向かい合った2人のボクサーの力量差を早くも痛感させられることになった。
挑戦者ランディ・マングバットは前に出る。そしていつものように渾身の力を込めて左フック、アッパーを打ち込む。動きは良い。パンチにスピードがあるし、力感もある。どうやらランディはこの大一番に万全のコンディションで臨むことが出来たようだ。
だが、マングバットがどれだけ豪打を振りかざそうとも、WBC世界フライ級王者ポンサクレック・シンワンチャーはまるで狼狽の色を見せないのである。
ランディのパンチは空しく空を切る。或いはガードの上を鮮烈な音を立てて叩く。いずれにしても、チャンピオンの顔面には届かない。
やはり、これが現実か・・・・・・。
決して初っぱなから一方的な展開になった訳ではない。だが、挑戦者の強打は寸前で外される。たまに1発が標的を微かに捉えようと、すぐに反撃が2、3発の連打となって返って来る。単発のランディ。連打のポンサクレック。しかも場所は敵地タイ。これではポイントなど取れる筈は無い。
マングバットのコーナーにいた僕は、前半3Rが終了した時点で、早くも判定での勝負を諦めた。実際にはまだほぼ互角に近い内容だ。しかし、ほんの僅かな差だが、すべてのラウンドは王者に流れているだろう。そして、そのほんの僅かな差を毎ラウンド作れる事こそが、世界王者とそうでない者、ポンサクレックとマングバットを大きく隔てている違いなのだろう。
展開はもう変わらない。残るはパンチャーズ・チャンスのみ。しかし、何より距離感に優れたチャンピオンに対し、マングバットは致命打になる一撃を見舞うことが出来るのか?
待ちに待ったWBC世界フライ級タイトルマッチ。遥々タイ国までやって来て迎えた、ランディ・マングバットの最初で最後の世界挑戦。
だが、この時点でまだ30分近い試合時間を残してはいたが、展開は既に絶望的な様相を呈し始めていた。

この試合の前日、決戦前夜は思いのほかのんびりと過ぎて行った。
ギリギリの時間帯に試合地ハジャイに辿り着いた僕は、村山さんや上間さんと旧交を温めると、その後ホテルのロビーにあるバーに向かった。そこでは翌日の試合を担当するオフィシャルや新聞記者たちが、カラオケを楽しんでいた。
酔いから頬を赤く染めた彼らの輪の中に加わると、余りに長閑で、明日が世界戦だという事実を思わず忘れそうになったくらいである。まだ夜11時を少し廻ったあたりだが、マングバットは既に明日に備えて床についていた。
「ランディは・・・・・・勝てるんですかね・・・・・・?」
バーで隣りに座った村山さんに、カラオケの画面を眺めながら僕は訊くともなしに訊いた。
「明日は、どんな試合になるんでしょう?」
「どうかなぁ・・・・・・ポンサクレックはやはり実力のあるチャンピオンだからね。苦しい試合になることは間違いないだろうな。正直言って、もう少し前、ランディの力が全盛期の時に挑戦させてあげたかった、そんな悔いも俺にはあるんだけどね・・・・・・」
この時点でまるで既に敗北を覚悟したような、そんな村山さんの言葉もそれほど意外ではなかった。この試合が7度目の王座防衛戦になるポンサクレック・シンワンチャーだが、マングバットとの対戦は初めてではない。過去、まだ両者共に無冠の時代に2度顔を合わせ、2度ともポンサクレックが完勝している。
マングバットも村山幸親さんをマネージャーに迎えて以来、別人のような強豪ボクサーに成長した。しかし、成長しているのはチャンピオンも同様である。更に敵地での挑戦試合、しかもタイという場所柄、そして苦手意識。様々なファクターがこの試合の戦前の予想を一方的なものにしていた。
そしてもうひとつ、日本の姫路で行われた前哨戦を、マングバットは不運な判定ながら落としてしまっている。28歳を迎えたランディは、残念ながら既に下り坂か。せめてあと1年早く世界挑戦出来ていれば・・・・・・そんな想いも、苦楽を共にして来た村山さんにはあったのかもしれない。
「でもね、俺はもうほとんど満足なんだけどなぁ。ボクシングにはド素人だった俺が、ランディに出逢って、そして世界タイトルの大舞台にまで辿り着く事が出来た。責任は果たしたって想いもある。勝っても、負けても、本当はもう悔いなんて無いんだよ・・・・・・」
静かな夜だった。軽く酒を呷り、カラオケのマイクまで手にした決戦前夜の村山さんは、既に満たされていて、幸福そうにさえ見えた。
村山さんも、僕とまったく同じように、心の底ではもうとっくに気付いていたのだろう。ランディは、翌日のタイトルマッチでおそらく勝てないだろうということに。
そう、僕たちは知っていたのだ。
ランディ・マングバットは必死に努力して、信頼出来る仲間を得 て、そして決戦の地に辿り着いた。だが、相手が悪い。時期が悪い。そして何より、場所が悪過ぎた。タイは本気でタイトルを奪おうと思う者が向かう場所ではなかった。
だけど、それなのになぜ、僕たちは遥かハジャイまで飛んだのだろう?
僕はいったい何が観たかったのだろうか?
タイトルマッチは後半戦に突入していた。
ペースは変わらない。一見、一進一退の攻防が続いたが、常に一歩上を行くのはやはりチャンピオンだった。挑戦者のポイントのビハインドはいよいよ明白である。
しかし、ランディは決して前進を止めなかった。
2004年6月4日。タイ国、ソンクラー県ハジャイ。WBC世界フライ級タイトルマッチ。最後の戦いだった。挑戦者ランディ・マングバットは、どれだけ空回りしようと、前に出て、パンチを振るい続けた。
(続く)
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