戦士と語る=現場編=その24

元東洋太平洋バンタム級チャンピオン
Text By 新田 渉世
Photo By 山口 裕朗


BOY's水戸ジム
中島俊一会長

 「水戸にボクシングを根付かせたい。水戸で『ボクシングと言えば中島』と言われるように頑張ろうと思っている・・・」

 相模原ヨネクラジムの高橋白安トレーナーからご紹介いただいたのは、かつてヨネクラジムに所属し、1988年〜1990年の間に日本Sフライ級王座を6度も防衛した名チャンピオン 中島俊一さん。現在は、茨城県水戸市で「BOY’s水戸ジム」を経営する会長さんとして活躍中の中島さんを、“写心家”山口裕朗氏とともにお訪ねした。(※山口氏の肩書きは、本人の希望によりこれまでの“フォトグラファ”から、“写心家”=心を写す人=に変更致しました)

私がまだSフライ級4回戦ボーイの頃から、自分と同じ階級の日本王者として活躍されていた中島さんだ。今回は何となくドキドキワクワクしながら、肌寒い水戸駅に降り立った。
 目抜き通りのなだらかな坂道を登り切ると、ビルの4階に「BOY’s水戸ボクシングジム」の看板が見えた。クラッシックな雰囲気の階段を上りジムにたどり着くと、少しだけ(?)増量した元王者がニコニコと我々を出迎えてくれた。
 
今回、諸々の事情により、恒例の「ちょっと一杯」の時間を持つことが出来ない為、代わりに私はあるお願いを中島さんにぶつけてみた。
「スパーリングで僕の挑戦を受けて下さい!」―のっけからこんな失礼な依頼をぶつけてしまったにもかかわらず、中島さんは快くこの挑戦状を受け取って下さった。同じ元ボクサー同士、グローブを合わせれば心は通じるはず。そして現役時代に「いつか挑戦したい」と思っていた気持ちを叶える意味で、今回は是非お願いしようと企んでいたのだ。
お互いにトレーニングしていない体同士、もちろん本気でやったわけではないが、私のパンチをかわしながらジリジリとプレッシャーをかけてくる名王者の迫力は、やはり並みのそれではなかった。現役時代は、これに加えて更にしつこい連打が襲って来たことを想像すると、恐ろしいものを感じた。
しかし、私は2Rのスパーリングの間、日本王者 中島俊一を意識しながらトレーニングしていた現役時代のいろいろな思いが心の中を駆け巡り、まさに感無量だった。

昭和36年、茨城県日立市生まれの43歳。中島さんは、中学生の頃にモハメド・アリの影響を受けてボクサーになることを夢見るようになった。ボクシング好きの親戚の叔父さんにサンドバッグとそれを吊るすバッグスタンドを庭に作ってもらい、自己流の練習を重ねていた。
やがて上京して明治大学に進学した中島さんは、同大学のボクシング部に入部し、本格的なボクシングの練習をおこなうようになった。
しかし、アマチュアのデビュー戦では、それまでの自己流の練習が間違っていたことを思い知らされる。初回から全力でパンチを振り回していった中島さんは、第2R以降ガス欠で失速し、惨めな判定負けを喫してしまった。ディフェンスやペース配分のことなど考えたこともなかった中島さんだったが、この時はその重要性を体で覚えさせられたという。

大学卒業後、もともとプロ志望だった中島さんは就職せずにヨネクラジムに入門した。ヨネクラジムの米倉会長が明治大学ボクシング部OBだったこと、またその関係で明治大ボクシング部がしばしばヨネクラジムに出稽古に出かけていたこと、などから中島さんは迷うことなくこのジムを選んだのだった。
初めの3年間はアルバイトで現場仕事をしながらジムに通ったが、その後はジム後援者の不動産会社に就職し、安定した生活基盤の中でボクシングに専念することが出来た。後援者の会社ということで、勤務時間は定時で上がれるよう配慮してもらっていたという。
ヨネクラジムでは、後援者の会社で社員として働きながら活動する選手が多い。ボクシングに専念出来る環境を提供するヨネクラジムのやり方は、私もジム会長として見習いたいと思っている。「まあ、バブルの頃だったから出来たんだろうけどね・・・」中島さんは
そう言って笑っていたが・・・。
 30戦23勝7敗。30歳で引退するまで、日本タイトル6度の防衛を含め、数々の強豪と戦った。後の世界チャンピオン レパード玉熊、鬼塚勝也、アジアの巨人 カオサイ・ギャラクシー・・・。私がドキドキワクワクしながら中島さんに挑戦状を叩きつけた理由を理解していただけることだろう。

 現役時代はヨネクラジムの2階に住み込み、“個性を伸ばす”指導方針を持つ米倉会長に師事してメキメキと実力をつけ、着実に勝ち星を重ねていった。「米倉会長に『お前はトリッキーにやらないとダメだ』って言われていたからね。俺の場合はそれが良かったんだね」
 当時はまだ当日計量がおこなわれていた時代で、中島さんの試合前の食事は「焼肉とにんにく、そしてコーラ」と決まっていた。「試合前はスパゲティがいい」という説が主流になっていた頃だが、中島さんは自分のスタイルを崩さずに結果を残していった。カオサイ戦の前には、「何でお前はコーラばっかり飲むんだ!」と米倉会長に怒られたらしいが・・・。
 
 「影響を受けた選手はいますか?」との質問に、中島さんはヨネクラジムで同時代に活躍した元WBA・WBC世界ミニマム級チャンピオンの大橋秀行氏の名前を挙げた。「彼はモノが違ったからね。よくスパーリングでボディブローを決められたけど、そこからいろいろ学ばせてもらった。他のチャンピオン達よりも印象は強いね」一貫して変わらない謙虚な口調で中島さんは語った。
 
 鬼塚勝也との激闘を演じたラストファイトを最後に中島さんは引退。翌月、米倉会長の仲人で結婚をした。相模原ヨネクラジム練習生だったという奥さんとの間に2人の男の子が生まれ、現在は中島さんのご両親とともに6人で生活している。
 ジムは午後2時から10時。祝祭日は午後2時から7時まで。お休みは日曜日のみで、現在は中島さんひとりでジムを切り盛りしている。「田舎は厳しいね。強くなりたいヤツはみんな東京へ行っちゃうからね・・・」今いる練習生の月謝は、ジムの家賃と諸経費で消えてしまう。余計なお世話だが、6人家族の中島家の家計が心配で思わず「大丈夫なんですか?」と聞いてしまった。
 「もうひとつビジネスをやっていてね、そいつのお陰で何とかやっていけるんだ」中島さんは有限会社を立ち上げ、人材派遣ビジネスをおこなっているのだそうだ。「搬入の現場仕事に人材を派遣する仕事でね、電話一本で回せるようになっているんだ。始めてからもう12年くらい経つかな・・・」東京にひとり協力者がいるそうだが、何しろ中島さんはビジネスマンの横顔も併せ持っていたのだ!

 引退後、しばらくの間ヨネクラジムでトレーナーをしていた中島さんだが、カムバックを考えたことはなかったのだろうか・・・?
 「会長に『おい中島、今度試合やってみるか?』って聞かれて、一瞬真剣に考えてたら、『冗談だよ、ハハハ』って、やられちゃったことはあったね」と、照れ笑いしていた。ビジネスマンの横顔を持つ中島さんも、やはり根っからの“ボクシング人”だった。

 「まあ、田舎でジムをやっていくのは大変だけど、いつかこの水戸にボクシングを根付かせたい。水戸で『ボクシングと言えば中島』と言われるように頑張ろうと思っている・・・」
少しだけ(?)増量した元王者は、そう言ってニコニコと笑った。



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