| 思い出のボクシング Down Under | |
| By 丸山 汎 | |
| 人がボクシングを始めるのには、どんな理由があるだろう。 小さい頃から好きだった、兄弟や家族に勧められて、家の近所にボクシングジムがあった、強くなりたくて ― その理由はさまざまだろう。 自分が初めてボクシングジムに足を踏み入れたときの光景は、今でもはっきりと憶えている。ボクシングというものに出会ったのは、もう12、3年前のことになる。 91年7月、自分は単身日本を離れてオーストラリアに渡った。19歳。中学、高校の頃から漠然と海外を見てみたいという憧れがあった。高校を出てから1年半ほどが経っていた。実家の長野県から東京に出て来てしばらく働いた後、ついに飛行機に乗り込み、オーストラリアの東の海岸線の中ほどに位置する、クィーンズランド州のブリスベンという街に着いた。特に知り合いがいたわけでもないこの地で、自分は結局97年までの6年を暮らすことになる。ボクシングジムを初めて訪れたのは、最初の1年が過ぎた頃だった。 オーストラリアに行っていなければ、自分はきっとボクシングを始めることもなかったと思う。それまで特に格闘技に興味をひかれたこともなかったし、そのしばらく前に日本で試合を行った“マイク・タイソン”という名前でさえ、うろ憶えに知っているぐらいのものだった。 オーストラリアに渡って半年間、市内の英語学校に通った後、偶然受けた英語のテストに(実力もなかったのに)受かってしまい、日本でも行っていなかった大学に、通うことになった。でもそんな暮らしの中、当時の自分は、自信というものをまったく失っていた。 言葉も満足にしゃべられず、相手の言っていることもわからず。生活費を稼ぐためのアルバイトと学校との往復。毎日大学での授業が終わると、住んでいたアパートに戻って、ベッドに死んだように突っ伏した。19歳だったが、自分は幼かった。違う国に来て見ても、自分の何が変わるわけでもなく、異国の町の中で、まさに「右も左もわからない」生活だった。大学でも、体も大きく大人びた現地の学生たちの中で、一人、幼稚園児が混じっているような気がしたし、また、差別というものも初めて経験した。今であったら当時ほど気に病むこともなかったかもしれない。だが初めての外国での暮しの中で、アジア人に対するそのような言葉や態度を投げかけられるたび、当時の自分は敏感に反応し、身を固くしていた。 「ボクシングか…」。初めてそう思ったのは、その頃偶然見たある映画がきっかけだった。 当時の生活の中で唯一の息抜きだったのは、週に一度、火曜の夜の『映画半額デー』に、市内の映画館に行くことだった。今考えてもかなり暗い生活だが、日本の感覚からいうと、4、500円で映画を見られるのは魅力で、また映画は、言葉がわからなくても、見続けていればなんとなくストーリーがわかる気がした。 その日見たのは、超がつくほどのB級アメリカ映画。借金を抱える父親のために、シカゴの高校に転校してきたばかりの息子が、アンダーグラウンドでの賭けボクシングに出て活躍するようになる―、というあらすじ。今思い出しても笑ってしまうような陳腐な内容だったが、自分は結局、同じ週に3回もその映画を見に行くことになる。自分の中に当時あったのは、「変わりたい」という思いだった。「強くなりたい」とも思った。オーストラリアの社会の中で、コミュニケーションがうまく取れず、失敗ばかりしている気分だった中で、人には言えない理由だった。 翌週には、早速電話帳を開いて、市内のボクシングジムを探し始めていた。 なかなか本格的なボクシングジムというものは見つけられなかったが、あるスポーツクラブを訪ねると、カウンターにいた黒人の大柄な男に、「バリーの警察は調べたか?」と言われた。聞くと、市内の繁華街からも離れたところにある、通称バリー(Valley=谷=)という名の、やや治安の悪い地域にボクシングジムがあるらしい。青少年の非行防止のために、警察がその建物の一部を提供してジムを開いているとのことだった。 そのまま公衆電話から電話をかけ、バリーの警察署に向かったのは、もう6時をまわっていた。当時は夕方になると、道端に立ちんぼのお姉さんたちが出るような場所で、商店街も、開いている店より、シャッターを下ろしている店のほうが多かった。そのさびれたバリーの一番外れに、“バリー・ジム”はあった。 ブリスベンの治安は日本とそれほど変わらず比較的良かったが、おそらく市内でも犯罪率は一番高いエリアのその警察署にくっつくように、薄汚れた体育館はあった。入り口のカウンターにいた警察官に「ボクシングジムがあると聞いたんだけど」というと、「ついて来なよ」と、体育館の端にある扉の前に連れて行かれた。「今ならコーチもいるはずだ」。そう言いながら若い警察官が観音開きの鉄のドアを開けると、ダンダンダンダン!! スピードボールの音とともに、熱い湿った空気が押し寄せてきた。 以外に広いジム内は込み合っており、サンドバックを叩く男たちは、警察官とともにジムに入ってきた見慣れぬアジア系の少年に、一斉に目を向けた。頭を剃り上げた男たちや、そのスキンヘッドに刺青を入れた男。黒人や白人に交じり、原住民アボリジニ系の刺青だらけの鋭い目つきの若い男もいる。アジア系は一人もいない。殺気立った空気の中で、一瞬だけ鋭くこちらへ目を向けると、男たちは練習へ戻った。 「まずいところに来ちゃったな」。正直そう思った。だが案内してもらった手前、すぐに帰るわけにもいかない。壁際にあったベンチに腰をかけ、辺りを見回した。 多くの世界タイトルマッチのポスターに混じって、壁はびっしり、かつてそのジムに所属したのであろうボクサーたちの白黒写真で埋め尽くされている。目の前に吊るされた、6、7本のサンドバッグに、男たちが群がり、向かい側の壁際にはスピードボールが2つ。奥にあるリングは床が木で出来ており、スパーリング中の2人の男を、コーチらしき男たちが、見つめていた。 「ターイム!」ゴングの代わりなのだろう。3分間ごとに音楽を吹き込んであるらしい、ジムの隅のラジカセから、インターバルを告げる声が流れると、リングの横から、それまでスパーリングを見ていたコーチらしき男が、例の警察官と歩いてきた。 「G’day, mate!! How are ya(ようマイト=友達の意味=!元気か?)」。オーストラリア独特のあいさつで、そう右手を差し出したのが、そのジムをあずかるコーチのスティーブンだった。年のころは35ぐらい。短パンにTシャツでサーフ・ブランドのマークの入ったキャップをかぶり、若い頃のロバート・デ・ニーロを思わせる、といったら褒めすぎかもしれないが、強い目つきと、屈託のなさが特徴的だった。 「Do you want to box, mate? (ボクシングしたいのか?)」そう聞くと、「じゃあ上履きになるような靴を持って、夕方の5時にジムに来な」。また右手を出して握手をし、リングに戻っていった。 オーストラリアの日々を思い出すとき、このスティーブンのことが、自分にはとりわけ思い出される。そのことは次号に譲るとして、この日を境に、僕のオーストラリアでの生活は、そしてその後の人生も、まったく違うものになったのだった。 (以下次号) |