第3実験「異文化」
 小学校時代、アメリカからやって来た転校生が、異文化を強烈に求めて来た。
「あんたたち、何でピースなんかするの?それって日本人だけだよ?」
 カメラの前、二本指を立てていた僕らはたじろいだ。
 その土地、その世界のルールに従うことがない限り、インターナショナルも生まれづらい。そう、自分では満足していても「アマチュア臭い」と言われてしまうのだ。

 考 察 

『プロと異なるルールとそれに応じた技術文化』

 今回はプロとアマを比較した具体的な技術面の違いを考えたい。アマからプロに行くことが正しいとも誤っているとも思わないが、今回は、そういった、アマからプロに行く選手への参考意見として書いたつもりだ。(なあ、八重樫君よ)

 現在、プロはヘッドギア無しで8オンスグローブ(重量級は10オンス)、アマはヘッドギア有りで10オンス(重量級は12オンス)で競う。ここでパンチの要点に様々な食い違いが生じる。以前のアマ選手(成年の部)は、ヘッドギア無し、8オンスで試合をしていたことが、プロで転向後、すぐに成功した選手が多かった理由の一つだ。
 アマチュアスポーツには様々なものに対し、「何かとうるさ…」もとい、「何かと厳しい」というイメージがないだろうか。ボクシングでは、ルールにも非常に厳格だ。
 まず初歩的なことでは、「アマチュアで厳しいルール」イコール「オープンブロー(専門用語の具体的な説明は省略で)」だと思っていたが、ある程度経験のある選手が、これで反則負けになることは少ない。トップクラスになっても、付きまとい続ける反則ルールは、ほとんど接近戦に凝縮されているのだ。
 アマでは至近距離で打ち合う際に、相手との接触の仕方に規制がやたらと多い。具体的に挙げると、”おでこ”を付けるとヘディング、肩を付けに行くとショルダリング(?)、手で相手をはね退けるとプッシング、クリンチは基本的にホールディングとなる。勿論、ウィービングも頭を下げたら駄目。度が過ぎれば、当然プロでも反則になるが、これらは、どれも現役時代に元世界王者の畑山隆則氏が、多用していた技術ばかりである。つまりアマでは、プロで多々見られる打ち合いが、ほとんど許されていないと言っても過言ではないのである。
 これにより、「いかに相手の正面に立たないか」、「いかに自分のポジションを維持するか」がより重要となり、自然とそれらが培われていく。現役選手で絶品なのは、高下優作選手(日大)らで、彼の「動きを止めたりしてるのにパンチが届かない」と嘆く。
 また、相手がプレッシャーの強いスタイルで前進して来ないため、アップライトスタイルの欠点を殺せてしまう。それもあって基本的にアマ選手の重心はやや高く、そしてやや後ろにある。ただ、プロとアマでスパーリングをする場合は、接近戦、それに加えて言えばアッパーが、これまでの戦法において盲点となり、結果的にひ弱さを露呈する可能性が高い。「頭を下げてきたらどうしたらいいのか」が、マニュアルに入っていないらしい。この時、今までの技術の中で「対処する」よりも、むしろ張り合って「対抗する」方向で考えた方が、もしプロに行くのなら適切だと思う(実はこの辺りを特に言いたい)。
 逆に、アマのみで許されている打ち合いもある。例えば、至近距離でのパンチのみの打ち合い(『紅の豚』のクライマックスシーンの様な光景)が、そうではないだろうか。プロでは、ルール上は問題ないものの、大きなリスクが伴ってしまうが、アマではパンチ一つ一つに対する危険性が軽減するため、単発のクリーンヒットは相殺できる。ここで、相手の攻撃をバックステップで回避し、また踏み込んで攻撃するという繰り返しが出来れば、ひとつの攻防一体となる(長いラウンドだとこだわり過ぎたらスタミナ的に厳しいけど)。
 ちなみに、去年、大東大主将を務めた高江達二選手(現K−1ファイター志望)は、重量級にも関わらず、パンチを故意に顔面で受け、そこからしつこい連打を打ち返すという戦法で、全国的にもトップレベルで活躍した。体の中で最も勝敗の鍵となるウィークポイントを、ディフェンス部分として突き出すその戦法を、彼は「顔面ブロック」と言っていた。プロでは間違いなく悲観的に見られるが、彼の顔は今でも意外なほど整ったままなのである(ドランカーっ気も全くないです)。
 それは極端な例としても、確かにより多くのパンチを当てるために小さな被弾を辞さない、「損して得を取れ傾向」は昔より強い。「このグローブとこのヘッドギアならばここまでなら貰っていい」というのが、歴史を重ねる上で少しずつ見積もれてきたからだと思う。だからデメリットとして、ポジションの確保以外のディフェンス面において、現代のアマ選手はプロ選手に比べ、著しく劣っていると思う。アマの試合は、小さなパンチのヒットのシーンが多い。
 ではアマ選手は、接近戦でプロで大成しにくいかという話になるが、当然ノーだ。プロ転向選手は、アマの試合で見出したボクシングセンスで、すぐに埋め合わせられる自信、そして大きな可能性を持って、新しい技術に望んで欲しい。時間は多くかからない。一番言いたかったので、もう一回言うが、「対処ではなく対抗」である。スパーではなんとかなってしまうから危ない。郷に入りては郷に従い、そして男ならケンカに張り合って欲しい。

 アマの試合で、プロの醍醐味を求めると、興ざめ必至である。自分もアマで初めて試合を見たとき、正直なところ、そこまで大きな面白みには出会えなかった。もし、自分の所属する部が出てなかったら、「たまにはこんなのを観るのもいいかな」レベルの満足度合いだったと思う。しかし自分は今、この連載をしている。多くの人に、アマの醍醐味を見つけて欲しい。




++ ピックアップ ++

正山 照門 (しょうやまてるかど・中大)
・インターハイ&国体バンタム級優勝(高校3年)
・全日本選手権フェザー級優勝(大学3年)
・同選手権同級優勝&大学リーグ戦フェザー級階級賞(大学4年)
1982年1月28日、福岡県福岡市生まれ。

「プロに行く。アマ上がりに負けの文字はないけん、必ずベルトを獲る!」


 「アマの試合って、見ていてつまらんでしょ?」
 専門誌の記者に歩み寄って、いきなりこんなことを言うのがこの正山だ。そして、進んで面白い試合を試みる男でもある。獰猛かつクールな眼で相手を見据えると、会場にただならぬ緊張感を呼び込んでみせるのだ。
 確かに、既にアマスタイルとして高い完成度を持っているはずだ。ならば何故、プロでの活躍も期待したいと思うのか。それは、並外れた気が強さと、柔軟で優れた心身を兼ね備えているからだ。これが、高次元で融合した結果、プロへの大きな適応力となるのではないか。さらに天性のタイミングという最大の武器、そして、抜群のカリスマ性も加わるである。

 プロ転向の発表は歌舞伎町の奥地で行われた。
 大学の後輩達を呼んだ久々の飲み会。一向は、彼の幼馴染みが運営するホストクラブへ向かった。
 部員とホストは次第に打ち解け、やがて賑やかさな空間が出来る。その盛り上がりを一旦止め、立ち上がった正山は発表した。
「すいません、ちょっと聞いて欲しいんですが」
 周りの視線が集まる。
「自分はプロに行くことにしました!」
 まず驚きの「え!?」の声である。そして拍手が出た。
 この日、彼は就職の内定も取り消していた。

 アマチュアボクシングは、ひとえに勝利のみを追求する世界である。しかしその中で、彼のスタイルは少し異質な空気を持っていた。やたらと周りの反応を意識するのである。
「そうやって自分自身にプレッシャーを与える。おかげで判定までいくだけで文句を言われた。」
 異質だったからこそ、その魅力が引き立ったのは間違いない。パキスタンで行われたアテネ五輪予選では、地元のギャング(?)にまで応援された。ひいきな判定に敗れた際、ギャング達は相手選手に大きなブーイングまで浴びせたという。
 決して発表できないものばかりだが、「ぶっ飛んだ思想」で有名だった。これも取材する記者をしばしば楽しませるためだった。
「相手がガチャガチャ打ち合って来たらそれに付き合うし、綺麗なボクシングをしに来よったらそれに付き合う。相手の土俵で勝つ。」
 こんなビッグマウスが次々と出る。しかしその割りには、自己の実力分析が妙に適確な感もある。過信めいたものがほとんど感じられないし、体育会系としての上下関係、礼儀もしっかりと弁えている。正山はやはり計算して、自分に鞭を入れているのだ。

 正山は小学校時代、中国拳法を2年間経験し、地区で優勝2回、準優勝1回。だが帯の色は最後まで”白”だった。筋金入りの不真面目である。
 ボクシングは東福岡高校へ入学後に始めた。しかし、ここでもしばらくは不真面目。自称「幽霊部員」のリングは、路上ばかりにあったという。
「部活よりもケンカの日の方が多かった。まあケンカでは負けたことはなかったけどね。」
 血気盛んな性格だった高校時代を振り返る中で、思わず頷かせるような精神論も出る。
「俺はデカい奴とばっかりケンカをした。やけんボクシングの試合くらいじゃビビらん。デカい奴は、自分が体格で勝ってる奴とばっかケンカするけん、同じ体格の人間と戦うことになるとすぐビビる」
 ――しばらくして、こんな”幽霊部員”にも転機は訪れた。
 高校3年の選抜大会も九州予選で敗退。しかし、ここまで一度として全国大会への出場がなかった男が、一気にやる気になった。
「お前をチャンピオンにしてやる」
 かねてから気になっていた存在、今でも絶対的に師事する松隈コーチがこういうと、怠け心に強く突き刺さったという。それからは、「他の奴の五倍」の練習を開始した。
「松隈さんの教えは今振り返っても別格。明日は何を教えてもらえるんやろうって毎日楽しみになった。試合中も、”自分3、セコンド7”で動けた。」

 努力は実り、インターハイでは見事バンタム級優勝。続く国体でも同級を制覇し、高校時代を2冠王で終えた。
 「ボクシングは例えば左ジャブを打って来たら、こう(と言って対処法を見せる)の一つだけじゃ駄目。臨機応変に対応せんと。引き出し、引き出し」
 そんないかにもボクシングが好きな持論を発するようになったのもこの頃からだ。



 高校卒業後の進路は中央大学法学部。当校のボクシング部は、既に、1部リーグの下位に低迷していたが、彼は多くのスカウトからここを選んだ。
「阪神から巨人を倒すのが性に合うと思った」
 阪神とは中大、巨人とは、当時連覇記録を更新し続けていた日大を指した。
 この後の最大の壁は、その日大の輩出した、二度の五輪代表経験を持つ辻本和正である。
 「打倒辻本」がモチベーションの正山は、順調にアマのトップとしても成熟を始める。しかし結局、辻本には3戦3敗。攻略することのないまま、向こうから消えていった。
「辻本さんは強かったね。合宿でも重量級のトップクラスにスパーで押しとった。あの人に負けた後に悔しくなって走り始めても、向こうは8年前からそれをやっとう。それだけで気が遠くなった。努力した奴の強みやろね。」

 大学3年生の正山は、フェザー級を制して初優勝を飾った。
 NHKからインタビューを受けた彼は、ここでも豪快に言ってのけた。
「自分のボクシングは相手を倒すボクシングです」
 ヒールな新王者の背中には、日連からの推薦を拒否し、九州ブロック代表のワッペンを縫い込ませてあった。

 これで追われる身へと切り替わった。すると、予想外に歯車を狂わせる「研究される立場」を自覚する。ああでもない、こうでもないと考え過ぎる“持病”も、この頃多くなったという。技術面は成長期から、安定期に変わった。

 横綱相撲を取るはずの大学4年目は、順風満帆に進まなかった。関東大学リーグ戦で法政大学の松尾亮に敗れると、国体でも土肥飛鳥に敗れる。特に松尾に対しては、嫌な警戒心を与えられた。
「こっちの攻撃を本当によく覚えてる。ああいうやつは毎回、学習してくる」
 かくして次の全日本選手権は、最もナーバスになって迎えた。しかし新たなライバル松尾は途中で破れ、三度目の対戦はなかった。そして、正山は2連覇に成功する。
 再び向けられたNHKのマイク。
「持ち前の倒すボクシングが出来ましたか?」
 ビッグマウスが期待される。しかし、このとき、前回と大きく異なる態度を取った。
「いや、今は勝つことだけで嬉しいです」
 そう言うと、安心感いっぱいの笑顔を見せただけだった。


 アテネ五輪に集中するため、大学卒業は一年遅らせた。「プロに行くなら大学に行かずに」と言っていた彼は、そのまま就職するつもりだった。しかし友人の起業などに感化され、新たな進路にプロボクシングを選んだ。

 そう言えば、拓殖大学の八重樫東がプロに行くときのこと。彼からこんな伝言をもらった。
「アマチュア上がりに負けの文字はないけん、必ずベルトを獲得するように伝えとって」
 あの言葉は今、自分自身の背中にも重くのしかかったことになる。






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