わたしの・すきな・ふうけい in L.A.

Text Photo By 宮田 有理子




「ひとつだけ、悔いがあるんですよね。ボクシングをやってた中で」

 LA留学生活の師匠とあおぐ元B級ボクサー、西脇大輔さんが、ぽろっとこんなことを言った。
 ダウンタウンにある旅行会社H.I.S.ロサンゼルス支店に勤める29歳。名刺にある肩書きはSupervisorで、スーツ姿が板についている。
 98年3月、英語習得とボクシング修業のためにアメリカに渡ったのだという。LAジムでは、イスマイル・バスケス、マルティン・カスティーヨ、イシドロ・ガルシア、アレハンドロ・ゴンサレスにカルロス&ホセのナバーロ兄弟ら、錚々たる面々とスパーリング。試合が決まっては消えるアメリカのボクシング界で2度リングにも上がった。カレッジの休みには帰国して後楽園で試合する“二重生活”を送り、2000年10月に横浜アリーナで行われた畑山隆則対坂本博之戦の前座で敗れたのを最後に、ボクシングをやめた。そしてロスに戻り、就職。9.11の同時多発テロで空港が封鎖された時には、日本に帰れない観光客の誘導にかけずりまわったそうだ。 
 会社ではきっと、頼りにされる存在なのだろう。「今の仕事は、海外旅行を楽しみたい人々の無理難題に答え、お客や業者に頭を下げる仕事、予測しうるミスの根を一つ一つつぶしていくような仕事」だという。
 いつも準備万端で、理路整然としていて、自信があって、慌てふためく顔は見たことがない。みんなで野球を見に行く時は、両チームの選手データを用意してくれるし、たとえば交差点で対向車とニアミスしそうになっても、「ルール上、あっちの右折のしかたが間違ってるから裁判になっても勝てる」と涼しそうな顔のまま言う人である。 
 そんな西脇さんのボクサー人生、4年半、12戦5勝(1KO)6敗1分の中で、たった一つ、悔いていること。

「ポテトチップス一袋、食べちゃったんです。東日本新人王準決勝の当日に」

 
 専門誌の元編集者で、顔と名前を覚えるのが得意な私でも、C級から全ボクサーを判別できるわけではない。雑誌の片隅に掲載していた“海外での日本選手の試合結果”の中に「西脇大輔」の名前があったことと、たまたま当時つくった世界戦パンフレットに顔写真入りで掲載した前座選手の一人だったことで、顔写真とともにその名前を覚えていたのだと思う。今年2月にLAジムで会った「西脇大輔」は、多少ふっくらとしていてもたしかにあの「西脇大輔」で、はじめまして、とあいさつするのは何か変な感じがした。
 
 幼いころは野球少年だったそうである。ところが、小学6年生だった1986年7月、巨人戦を見ようと思ってつけたテレビが、浜田剛史がレネ・アルレドンドを1ラウンドでぶっ倒すところを映し出してしまったのだから、どうしようもない。この衝撃的なKO奪取を見てボクシングを始めたというエピソードは、何人ものボクサーから聞く話である。それにしても、このビデオを「オレのバイブル」と言って、毎年7月に再生するという人を、私は知らない。
「かっこいい…」としびれはしたものの、生来慎重派だった西脇少年はすぐに行動には移らない。「おデブさんだからムリ」とあきらめ、“マニア”への道を行く。スポーツ新聞に『ボクシング・マガジン87年2月号』の広告を見つけ、本屋でゲット。隅から隅まで読み尽くし、リング・ジャパンの会員にもなった。「毎月会報がもらえるんです。すると、ジョーさんの理論に“すげー”となるわけですよ」。中学生のころは授業中、ひたすら全階級の世界王者の名前を暗記した。会社を経営する家に生まれ育ち、成績優秀でもあった彼は、ボクシングを見るのが生きがいで、将来プロモーターになるにはどうすればいいかを考える、やばい高校時代を送った。高1の冬にはタイソンの試合を見にラスベガスに行き、ついでに、ブライアン・ミッチェル対トニー・タイガー・ロペス戦を見るためだけにサクラメントにも飛んだ。が、知識が増えれば増えるほど、ボクサーは特別な存在で、自分がやるものではないと思うようにもなっていったという。
「左目の視力が悪かったし。でも、大学に入って、ヒマをもてあましてしまって。プロになれなくてもいいからやってみようと思ったんです」
 94年春、大学2年生になったボクシング・マニアの青年は、金子ジムに入門。グローブをはめてみると、本当はボクシングをやりたかったのだということに気づいた。しかし、美しい技巧を見慣れた身には自分が教わる基本動作が異相のものに感じられ、入門2ヶ月くらいで始めたスパーリングでは、パンチはそう簡単によけられるものではないと思い知る。それでも毎日、夢中でジムに通った彼は、アマチュアでの2試合(2勝)を経て、95年秋にライセンスを取得。96年4月2日にはついに、プロデビューを果たすのである。
「緊張しましたね…。2ラウンドにダウンを奪ったんだけど、ボディを打たれて3ラウンドでスタミナが切れて。勝ったけど、よたよたの判定勝ち。はずかしかったなあ。でも、その1勝が新人王トーナメントの出場資格だったから、やっぱりうれしかったですよ」
 “知っている”分、大それた夢を持てなかったという西脇さんにとって、「新人王」は、なりたい、と思える目標だったのだ。就職活動に励む周囲に背を向けてボクシング漬けの毎日を送り、デビュー以来4連勝。佐藤修を破って上がってきた市橋玄にも勝った。次の準決勝をクリアすれば、渡辺純一と決勝で戦える…。
 そんな、96年11月1日の東日本新人王バンタム級準決勝だった。ノートにその毎日の練習メニューと食べたものを書き留めて、あとにもさきにも調整ミスなどしたことがないというボクサーは、その日に限って、彼はポテトチップスを一袋、一気食いし、ムネヤケを感じながら戦ったのだ。

「だから負けた、とは思わない。それを負けた言い訳にするわけじゃない。弱かったから負けたんだと思います。でもね、なんで、あんなことをしてしまったのか、わからないんですよね。まあ。たぶん。油断、ですよね。市橋に勝って、もう決勝にいけると思ってしまってたかもしれない」

 その初黒星から、彼は勝ちと縁遠くなってしまった。中央大学法学部を卒業し、コンビニとガススタンドでアルバイトしながら、翌年度の新人王にも参戦したが、最初の試合で引き分け敗者扱いになった。そして次の年の春、閉塞感から抜け出して、自信を取り戻すために、アメリカに渡ったのである。 

「……で、今に至ります。たぶん、あの時勝って、決勝に行ってたら、今、ここにはいなかったでしょうね。もともと規定通りの道を進むのが好きな人間なんです。ボクシングだけが自分の中で唯一、レールからはずれてやったこと。ボクサーだった、そういう時間は、充実してました。何てったって、負けるのがこわいですから。あれよりこわいことはないと思いますね」

 たかだか30年そこそこ生きてきただけで「人生は…」などと語ることはできないが、振り返れば分かれ目の連続だった、とは思う。他人にとっては些細なことでも、当人には大問題だったりする。けれど、その時、成功だ失敗だと、喜んだり悩んだりしたことがすべて、今の自分につながっている。みんな、そういうことを人知れず抱えて、日常を送っている。
 たぶん今、西脇大輔さんは、あの時、コイケヤののり塩を食べてしまった自分のことが、それほどきらいではないのではないかと思うのである。



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