Text By 船橋真二郎 Photo by 丸山 耕 |

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「長かったですね……。うーん、でも、あっという間だったかな。ぼくにとってはとにかく初めての経験ばかりだったから、1日1日が勉強という感じでしたね」
だが、満を持して臨んだ新人王初戦、「最初っから倒してやろうと突っ込んでいったところに、逆にカウンターをもらって」。開始からわずか42秒、まさかのKO負けを喫してしまう。「天狗になってたところは、あったかもしれないですね」。次に、再起を期して臨んだ相手は、後に世界タイトルに2度挑戦することになる仲里繁(沖縄ワールドリング)だった。「その頃からパワーはとんでもなかったですね。体ごと吹っ飛ばされるというか、なぎ倒されるような感じ」。2度のダウンを奪われ、判定負け。次の試合で初の6回戦のリングに立つも、2ラウンド開始早々、偶然のバッティングによる、相手選手の負傷で試合はストップ。引き分けに終わった。これで、3試合続けて勝ちに見放されたことになる。しかもこの試合で、平丸さんは左の鎖骨を骨折し、入院する破目に。舞台は一転して暗転。並の選手なら、気持ちが挫けてしまうところかもしれない。だが、「もう新潟に帰れとか、ボロクソに言う人も中にはいたんですけど、ぼくはまだ、こんなところで世界を諦めるつもりはなかったですね」。 復帰後、4試合連続でKO勝ち。この時期、協栄ジムに移籍してきた元日本フライ級チャンピオンで、勇利アルバチャコフにも挑戦した渡久地隆人(現・ピューマ渡久地ジム会長)を相手に、スパーリングを重ねた経験が大きかったという。そして迎えたのが、元日本スーパー・バンタム級チャンピオンの新井泰(角海老宝石)だった。「ぼくが4回戦だった頃にチャンピオンだった人。その頃は、こんな人に勝てんのかなって思ったこともあったけど、試合のときは元チャンピオン。負けられないな、と」。39度の高熱という最悪のコンディションで迎えた試合だったが、見事、ベテランに判定勝利。日本ランキング入りが見えてきた、そんな矢先だった。闘病生活の末、1999年3月、金平正紀会長が逝ってしまう。「リングネームもそうですけど、食事に連れて行ってもらったり、家に遊びに行かせてもらったり、ほんとに目をかけてもらってたんで、会長のためにも、改めてがんばろうと思いました」。直後の4月、後の日本スーパー・バンタム級チャンピオン、渡辺純一(楠三好)との10回戦に臨んだ。渡辺にとっては、西岡利晃(現・帝拳)の日本バンタム級タイトルに挑み、2ラウンドKO負けを喫した後の再起戦。モチベーション的にも勢いでも、平丸さんの方に分があったともいえる1戦だったが、4ラウンドTKO負けに終わってしまう。「パンチ力はすごかったですね。足の先まで電流が走ったくらいだから。ただ、あの試合はストップが早すぎました。効いてもないところで止められて」。それでも、ステップアップするための重要な1戦を落としてしまったという結果は変わらない。その後も試合を重ねるも、日本ランキングには、なかなか入ることができずにいた。 実は平丸さんと佐藤修は、同期の入門。年齢も同じでプロデビューの舞台も同じだった。その佐藤は1999年12月、元世界ランカーを判定に退け、引き分けを挟み14連勝で世界ランク入りを決める。「一緒に世界を獲るつもりだった」佐藤が、世界に向かって順調に突き進んでいた2000年、平丸さんはA級ボクサー賞金トーナメントに優勝。ようやく日本ランキング入りを果たした。「回り道はしたけど、これをきっかけに、世界を目指す気持ちに変わりはなかったですね」。 再び上昇のきっかけをつかんだ平丸さん。だが、10月にタイ人を1ラウンドKOに下し、翌年2月の試合を目前に控えていたある日、今度は思いも寄らないアクシデントに見舞われる。平丸さんの乗っていた自転車が、猛スピードのバイクに追突されてしまうのだ。「訳もわからず放り出されて、頭から地面に叩きつけられたんです。自転車もぐにゃっと曲がってしまって。一般の人だったら、もう命に関わるぐらいの事故だったんだけど、結局、ぼくは入院もしなかった。レスリングで鍛えた首のおかげですね」。予定されていた試合は当然キャンセル。だが、驚異的な回復を見せ、早くも4月には10回戦のリングに上がる。相手は現日本スーパー・バンタム級チャンピオンの中島吉謙(角海老宝石)だった。だが、「試合中、もし頭を強打されたらっていう怖さがちらついて」。この試合を判定で落としてしまう。肉体面で目に見える問題はなくとも、精神的な面での影響まで、拭い去れるわけはなかったのだ。 「結局、あの事故が、ぼくのボクサー生命を奪ったのかもしれないですね」 9月に決まったモンスター西山(上滝)戦を前に、平丸さんは勝っても負けても、この試合を最後と決める。ただ、西山との対戦は2度目、ラフなサウスポーの前に1戦目は負傷引き分けに終わっていたが、「負けるはずのない相手」というのが平丸さんの評価。「勝ったら続けるだろうなっていうのは、どこかにありましたけどね」と微妙なボクサー心理もあった。だが、思うように体が動かず、結果は判定負け。結局、この試合が最後となった。 「あの試合を最後にしようと思ったのは、頭のこともあるんだけど、試合前に結婚して、年末に子どもが生まれる予定だったのもあるんです。それに、トレーナーとぼくのボクシング論に食い違いもあって。前の年は絶好調だったけど、その年にいろんなことがいっぺんに重なってしまったんですね。ただ、世界チャンピオンになるためにやってきて、こんなところで負けたんだからと、納得してやめました。ボクシングが本当に好きだった分、すっぱりと。シャワーを浴びながら、思いきり泣きましたけどね」 引退から間もなく、飲食系の仕事に就く。その後、ひとつ、ふたつと会社を変えるうち、「独立しようか」と思い立ったのが去年の5月頃。「やると決めたら、ボクサーの気魂で」。開店までは、それから半年足らずだった。その間に、かつての僚友、佐藤修は、東洋太平洋タイトルをステップに、世界の頂点に立った。「ぼくは気持ちにムラがあるところがあって、練習するときはとことんやるけど、気分が乗らなかったり、調子が悪いと、『明日でいいか』となる。佐藤くんにはそういう波が、まったくなかったですね。そこがいちばんの差。世界チャンピオンになる自信はありましたけど、そういう面も含めて、運もそうだけど、トータルしたら、ぼくの力はこの程度だったんだと思いますよ」。テレビで、初めてボクシングを目にしたときから数えてちょうど7年。その間、世界チャンピオンという夢を、決して見失うことはなかった。不慮の事故もあって、自分がついに目指していた場所にたどり着けないことを悟ったとき、平丸さんは潔く、身を退いたのだ。平丸さんは言う。 「自分の力は、すべて出し切りました」 今、名刺に記されている名前は「小杉公基」。ボクシングで、世界の頂点に立つという夢はかなわなかったが、本名に戻って、今度は新たな道で出直しを図る。その決意は、『喰いどころBar平丸家』という店の名前からも読み取れる。 「まだ最初のコンセプトを諦めたわけではないですし、それに、これは借りた資金を返済してからの話になるけど、ここで終わるつもりはないですよ。まだ若いし、こんなところで満足してたら、つまらないですから。将来的には、カラオケとか喫茶店とか、何か他の事業も手がけて、もっと、この『平丸』という名前を広めたいんです」 例えるなら、と小杉公基さんが言う。「今はまだ、4回戦」なのだ、と。そう、店に託した「平丸」という名は、世界チャンピオンにこそふさわしいのである。 ![]() ≪喰いどころBar平丸家≫ |