彼らの肖像 Vol 12




Text By 船橋真二郎
Photo by 丸山 耕




平丸 勝基(ひらまる まさき)さん

「長かったですね……。うーん、でも、あっという間だったかな。ぼくにとってはとにかく初めての経験ばかりだったから、1日1日が勉強という感じでしたね」
11月1日で、開店からちょうど丸1年の和風ダイニング・バー。28歳とまだ若手のオーナーが、この1年をこう振り返った。協栄ジム所属のプロボクサーとして、3年前まで日本ランキングに名前を連ねていた平丸勝基さんである。店を訪れる客の中には、噂を聞きつけた格闘技ファンも少なくないそうだが、比較的多いのは「女性やカップル、それに年輩のお客さん」という。店のある中野区の鷺宮は、新宿から西武新宿線を利用して8つ目。都心からそれほど離れていないとはいっても、どこかローカルな雰囲気も漂う、閑静な住宅街である。サラリーマンが仕事帰りに一杯やるような土地柄でないことも理由のひとつなのかもしれないが、和風の凝った内装と落ち着いた雰囲気を見れば、その客層に支持されるのも納得できる。それに、平丸さん自身が厨房に立って、腕をふるう料理。気取りのない、手作りの温もりが感じられる料理はどれも美味な上、例えば、上質な静岡県産の雅ポーク(和もち豚)、コラーゲン豊富という岩手県産の地鶏を使用するなど、素材にもこだわる。平丸さんは現役時代、「自炊のため」にと居酒屋のアルバイトで料理を勉強し、また、しっかりと栄養面の研究もしながら、減量に取り組んでいたという。そのノウハウは店のメニュー作りにも活かされている。中でも、ちらほらと目につくのが“疲労回復”、“スタミナアップ”、“ダイエット”などをうたったメニュー。実は「最初はそういうメニューばかりで、『ヘルシーに飲む』『飲みながらやせる』っていうのがコンセプトだったんです。でも、なかなか思い通りにはいかないですね(笑)。お客さんの好みもあるし、この1年の間に、少しずつメニューを変えてきたんです」。試行錯誤の1年目。今では常連客も数多くつき、アルバイトを3人雇うようになった。「お客さんが入らなくて、不安になった日もありましたけど、トータルすれば1年目としては上々ですよ」。平丸さんは笑顔で自己評価した。

 小柄だが、がっちりとした上体。ギョーザ状につぶれた耳。一見すると、ボクサーというより格闘家を連想させる。「本気で少林寺を目指してました」。小学生から中学生の頃まで、平丸さんが抱いていた夢、いや、目標である。「ちょうどその頃は、ジャッキー・チェンとかブルース・リーが流行っていて、そういうのを見たときに、『すげえな。格好いいな』と思って、真似をするようになりましたよね。学校では、カンフーごっこみたいなことを友達とやって、他の人たちが『痛い』とか『疲れた』とか言っても、ぼくは『まだやりたい、まだやりたい』って感じで(笑)。毎日のように、10人ぐらい相手にしてました。闘うっていうことが好きだった」。後のランキングボクサーの原点である。
 1976年7月12日、新潟県小千谷市の出身。小学校4年生の頃に父親の転勤で新潟市内の学校に転校するが、闘うことに目覚めた少年の思いは変わらない。「中学を卒業したら、中国に行く」。頭にあったのはそれだけ。中学の頃には、学校が終わった後、近くの公園までランニングして行き、映画の中の主人公を真似て、木に向かって一心にパンチを打ち込んだ。が、結局、両親はもとより、親戚中から説得され、仕方なく高校に進学。最初は空手部に入部する。だが、寸止めの空手に満足できず、1年持たず退部。この頃から、「将来、格闘技でご飯を食べていけるのは何か」と現実的な方向を探り始め、まだ漠然とはしていたが、プロボクサーという結論に行き着いていた。
「新潟にはプロボクサーを目指す環境がないから、体を鍛えるつもりでうちに来い」。空手部を退部後も、学校でひとりトレーニングに打ち込んでいた平丸さんに声をかけたのは、レスリング部顧問の教師だった。「今どき、ひとりで体を鍛えるなんて珍しい奴だ、と。男同士が絡み合って、何が面白いんだって思ってたくらいだから(笑)、やりたくはなかったんですけどね。レスリングをやれば、首が鍛えられて、太くなるし、ボクシングにも役に立つからって、強引に入部させられたんです」。ところが入部初日、一通りのルールを教えられただけで、すでに1年経験してきた同級生に勝ってしまう。これが平丸さんの心に火をつける。「実際にやってみると、面白いんですよ。コツをつかめば、体重60kgのぼくでも、90kgからの大きな相手を押さえ込んだり、持ち上げたりできた」。もともと素質があったのか、小学生の頃から、格闘センスが磨かれてきたのか。おそらく両方だろう。すぐにインターハイや国体に出場するまでになり、その年の終わりには全国高校選抜大会で4位という成績を残した。一方で、レスリング部の練習が終わった後は、空手とキックボクシングを教える町の道場にも通っていたという。「朝の7時に家を出て、夜の9時過ぎに家に帰る生活」。まさに格闘技漬けの日々である。
「もともと卒業する気もなく、部活のためだけに」高校に通っていた平丸さんの転機は高校3年目。この年のインターハイで、レスリングは最後にしようと決めた。つまり、高校をやめようと決めたのである。「大学に行って、レスリングを続ければっていう話もあったんですけど、自分はもっと、ビッグになりたかった」。その目標が明確になったのは、その年の9月に行われた、鬼塚勝也の最後の試合がきっかけだった。「テレビを見る暇なんかなかったんで、ボクシングをきちんと見たのはそれが初めて。今まで見たことないくらいパンチは速いし、強いし、それでも倒れないし。とにかくすげえなって。そこに自分が立ったらって想像したら、ワクワクしましたね」。ボクシングそのものに引き込まれた平丸さんの目指す道は決まった。ボクシング。協栄ジム。そして、世界チャンピオン。12月には東京に協栄ジムを訪ね、年が明けた1月、正式に入門する。

 ところで「平丸勝基」という名前。本名ではない。先代の故・金平正紀会長が、「世界チャンピオンにふさわしい名前をつけよう」と、姓名判断までしてつけてくれたリングネームなのだそうだ。それも、なんと入門からわずか2、3か月後のこと。「すごいうれしかったですけど、ぼくには小さい頃から鍛えてきたっていう自信があったから、世界チャンピオンになれるもんだと思ってましたよね。会長は選手の気持ちを乗せるのがほんとに上手な人で、それはわかってたけど、ぼくも、うまく乗っかって(笑)。最初はとんとん拍子でした」。入門から8か月後の1995年9月25日、勇利アルバチャコフの世界タイトル防衛戦の前座、日本武道館でプロデビュー。判定で勝利を収めると、続く12月の2戦目には1ラウンドKO勝ち。入門からわずか1年の間に、2勝を記録することになる。アマチュア経験ゼロの選手としては、異例といえるのではないだろうか。その後も2月、3月と試合を重ね、連勝。この4連勝には、現日本ランカーの鮎川圭祐(現・ナカハマ)、木嶋安雄(角海老宝石)との対戦も含まれていた。
だが、満を持して臨んだ新人王初戦、「最初っから倒してやろうと突っ込んでいったところに、逆にカウンターをもらって」。開始からわずか42秒、まさかのKO負けを喫してしまう。「天狗になってたところは、あったかもしれないですね」。次に、再起を期して臨んだ相手は、後に世界タイトルに2度挑戦することになる仲里繁(沖縄ワールドリング)だった。「その頃からパワーはとんでもなかったですね。体ごと吹っ飛ばされるというか、なぎ倒されるような感じ」。2度のダウンを奪われ、判定負け。次の試合で初の6回戦のリングに立つも、2ラウンド開始早々、偶然のバッティングによる、相手選手の負傷で試合はストップ。引き分けに終わった。これで、3試合続けて勝ちに見放されたことになる。しかもこの試合で、平丸さんは左の鎖骨を骨折し、入院する破目に。舞台は一転して暗転。並の選手なら、気持ちが挫けてしまうところかもしれない。だが、「もう新潟に帰れとか、ボロクソに言う人も中にはいたんですけど、ぼくはまだ、こんなところで世界を諦めるつもりはなかったですね」。
復帰後、4試合連続でKO勝ち。この時期、協栄ジムに移籍してきた元日本フライ級チャンピオンで、勇利アルバチャコフにも挑戦した渡久地隆人(現・ピューマ渡久地ジム会長)を相手に、スパーリングを重ねた経験が大きかったという。そして迎えたのが、元日本スーパー・バンタム級チャンピオンの新井泰(角海老宝石)だった。「ぼくが4回戦だった頃にチャンピオンだった人。その頃は、こんな人に勝てんのかなって思ったこともあったけど、試合のときは元チャンピオン。負けられないな、と」。39度の高熱という最悪のコンディションで迎えた試合だったが、見事、ベテランに判定勝利。日本ランキング入りが見えてきた、そんな矢先だった。闘病生活の末、1999年3月、金平正紀会長が逝ってしまう。「リングネームもそうですけど、食事に連れて行ってもらったり、家に遊びに行かせてもらったり、ほんとに目をかけてもらってたんで、会長のためにも、改めてがんばろうと思いました」。直後の4月、後の日本スーパー・バンタム級チャンピオン、渡辺純一(楠三好)との10回戦に臨んだ。渡辺にとっては、西岡利晃(現・帝拳)の日本バンタム級タイトルに挑み、2ラウンドKO負けを喫した後の再起戦。モチベーション的にも勢いでも、平丸さんの方に分があったともいえる1戦だったが、4ラウンドTKO負けに終わってしまう。「パンチ力はすごかったですね。足の先まで電流が走ったくらいだから。ただ、あの試合はストップが早すぎました。効いてもないところで止められて」。それでも、ステップアップするための重要な1戦を落としてしまったという結果は変わらない。その後も試合を重ねるも、日本ランキングには、なかなか入ることができずにいた。
 実は平丸さんと佐藤修は、同期の入門。年齢も同じでプロデビューの舞台も同じだった。その佐藤は1999年12月、元世界ランカーを判定に退け、引き分けを挟み14連勝で世界ランク入りを決める。「一緒に世界を獲るつもりだった」佐藤が、世界に向かって順調に突き進んでいた2000年、平丸さんはA級ボクサー賞金トーナメントに優勝。ようやく日本ランキング入りを果たした。「回り道はしたけど、これをきっかけに、世界を目指す気持ちに変わりはなかったですね」。
再び上昇のきっかけをつかんだ平丸さん。だが、10月にタイ人を1ラウンドKOに下し、翌年2月の試合を目前に控えていたある日、今度は思いも寄らないアクシデントに見舞われる。平丸さんの乗っていた自転車が、猛スピードのバイクに追突されてしまうのだ。「訳もわからず放り出されて、頭から地面に叩きつけられたんです。自転車もぐにゃっと曲がってしまって。一般の人だったら、もう命に関わるぐらいの事故だったんだけど、結局、ぼくは入院もしなかった。レスリングで鍛えた首のおかげですね」。予定されていた試合は当然キャンセル。だが、驚異的な回復を見せ、早くも4月には10回戦のリングに上がる。相手は現日本スーパー・バンタム級チャンピオンの中島吉謙(角海老宝石)だった。だが、「試合中、もし頭を強打されたらっていう怖さがちらついて」。この試合を判定で落としてしまう。肉体面で目に見える問題はなくとも、精神的な面での影響まで、拭い去れるわけはなかったのだ。
「結局、あの事故が、ぼくのボクサー生命を奪ったのかもしれないですね」
9月に決まったモンスター西山(上滝)戦を前に、平丸さんは勝っても負けても、この試合を最後と決める。ただ、西山との対戦は2度目、ラフなサウスポーの前に1戦目は負傷引き分けに終わっていたが、「負けるはずのない相手」というのが平丸さんの評価。「勝ったら続けるだろうなっていうのは、どこかにありましたけどね」と微妙なボクサー心理もあった。だが、思うように体が動かず、結果は判定負け。結局、この試合が最後となった。
「あの試合を最後にしようと思ったのは、頭のこともあるんだけど、試合前に結婚して、年末に子どもが生まれる予定だったのもあるんです。それに、トレーナーとぼくのボクシング論に食い違いもあって。前の年は絶好調だったけど、その年にいろんなことがいっぺんに重なってしまったんですね。ただ、世界チャンピオンになるためにやってきて、こんなところで負けたんだからと、納得してやめました。ボクシングが本当に好きだった分、すっぱりと。シャワーを浴びながら、思いきり泣きましたけどね」

 引退から間もなく、飲食系の仕事に就く。その後、ひとつ、ふたつと会社を変えるうち、「独立しようか」と思い立ったのが去年の5月頃。「やると決めたら、ボクサーの気魂で」。開店までは、それから半年足らずだった。その間に、かつての僚友、佐藤修は、東洋太平洋タイトルをステップに、世界の頂点に立った。「ぼくは気持ちにムラがあるところがあって、練習するときはとことんやるけど、気分が乗らなかったり、調子が悪いと、『明日でいいか』となる。佐藤くんにはそういう波が、まったくなかったですね。そこがいちばんの差。世界チャンピオンになる自信はありましたけど、そういう面も含めて、運もそうだけど、トータルしたら、ぼくの力はこの程度だったんだと思いますよ」。テレビで、初めてボクシングを目にしたときから数えてちょうど7年。その間、世界チャンピオンという夢を、決して見失うことはなかった。不慮の事故もあって、自分がついに目指していた場所にたどり着けないことを悟ったとき、平丸さんは潔く、身を退いたのだ。平丸さんは言う。
「自分の力は、すべて出し切りました」
今、名刺に記されている名前は「小杉公基」。ボクシングで、世界の頂点に立つという夢はかなわなかったが、本名に戻って、今度は新たな道で出直しを図る。その決意は、『喰いどころBar平丸家』という店の名前からも読み取れる。
「まだ最初のコンセプトを諦めたわけではないですし、それに、これは借りた資金を返済してからの話になるけど、ここで終わるつもりはないですよ。まだ若いし、こんなところで満足してたら、つまらないですから。将来的には、カラオケとか喫茶店とか、何か他の事業も手がけて、もっと、この『平丸』という名前を広めたいんです」
例えるなら、と小杉公基さんが言う。「今はまだ、4回戦」なのだ、と。そう、店に託した「平丸」という名は、世界チャンピオンにこそふさわしいのである。

≪喰いどころBar平丸家≫
■住所:東京都中野区鷺宮4-3-20
■営業時間:17:00〜0:00
■定休日:月曜
■アクセス:西武新宿線鷺ノ宮駅
北口を出てすぐの中杉通りを右へ曲がり、ルノアールの角を左に入ってすぐの右側。

※取材させていただいたのは新潟県中越地震の前日、10月22日でした。平丸勝基さんは、本文中にも出てくる通り、被害の大きかった小千谷市の出身。後日、改めてお店を訪ねてうかがったところ、ご両親はすでに仕事を引退されて、今は東京で暮らしていらっしゃるそうで、ご無事とのこと。ただ小杉家のふたつある家のうち、ひとつは倒壊、もうひとつも一部損壊の被害に遭ったそうです。ご親戚の方々は無事だった家に集まっているそうですが、一部の方々は、その家の近くで、テントでの生活を強いられているそうです。
改めて、被災されたすべての皆様に、心よりお見舞い申し上げます。



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