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日本2階級を制覇している横山啓介と、彼の古巣のジムを主宰する沼田義明会長。およそ3年ぶりに再会した師弟の間に、もう以前のようなわだかまりはなかった。横山の愚直と歪み、沼田会長の無造作と無限大の優しさ。それらを互いに理解し、受け入れているはずだった。
だが、ふたたび手と手を取り合って昔日の夢を追おうとしないのはなぜだろうか。
どこかでまだつまらぬ意地を張り合っているのだとしたら、過去に自分から師の元を去った横山が先に折れるのが筋である。それともまだ、あの籍をおくジムで侮蔑に耐えながらトレーニングしたほうがましだとでもいうのか。
あるいは、この業界でまかりとおっている「移籍金」なる下賤なカネにより、横山の首に見えない輪がつながれているのかもしれない。もしそれだけがネックなら、わずかだが助けになる用意がボクにもある。
出すぎたマネとは自覚しつつも、それらの疑問や提案を横山にぶつけないわけにいかなかった。
2002年5月。ジムの帰りに二人で寄ったチープな寿司屋で腹が満たされてきたころ、ボクはディープな話を切り出した。
しばらく視線を一点に落として耳を傾けていた横山は、「それはありえない」と言って静かに微笑んでから、また口を開いた。
「だって、沼田さんのところに戻っても、教えてくれる人がいないもん…。とにかく、もういまのジムにいても戦えないし、どっか別の移籍先をさがします…」
聞けば、横山のボクシング・キャリアに深く関わってきた人物は二人。沼田会長の現役時代にもセコンドを務めた杉崎昭敏氏と、同じくスパーリング・パートナーを務めた辻本英守氏(元日本ライト級チャンピオン、故人)だった。ともに沼田会長とは昵懇の間柄にあるものの、数年前に横山が沼田ジムを飛び出したのと相前後して辻本氏は大阪の出身ジムへ、杉崎氏は都内の異なるジムへと招かれていった。
そして沼田会長は「杉崎さんのいるところなら」と、のちに横山のジム移籍を容認したのだった。ジム間でやりとりされる「移籍金」は、選手の懐にビタ一文入らないどころか、選手本人がその大半を負うのが通例である。このときの横山は拍子抜けするほどの安価でジムを移っていたが、それこそは沼田会長の人となりや失意と愛の表れだった。卑しい折衝を重ねるような御仁では毛頭なく、ダイコンを叩き売るように厄介払いをしたのでもないことを横山が知らないはずがなかった。
旧知のトレーナーがいないとしても、沼田会長本人がいるではないか。それとも「精密機械」の異名をとった元世界チャンピオンに、指導者としては欠陥があるとでもいうのか。あらためて教えを請うことができない誠の理由とは…。
この問いに対する横山は苦しそうな笑みを浮かべるばかりで、どうも釈然としなかった。しかし、それから半年ほどした年の瀬。ボクは沼田会長と初めて対面したことにより、師弟の間に存在していた壁にぶち当たって呆然とするのだった。
□ □
ある取材で沼田ジムを訪ねたのは、桁違いの借金と引き換えに横山が新天地へ渡ってすぐのことだった。初めて会った沼田会長は意外に大きくどっしりしていて、テレビで解説をしていた当時の繊細なイメージはなかった。その声と眼鏡の奥の優しく垂れた目は以前のままで、一枚だけの舌がよく回るため、打ち解けるにも時間はかからなかった。
正規の取材を終えてボクが横山の話を始めると、窓の外を眺めていた会長は少し驚いた顔をこちらに向けた。それでも移籍のニュースはすでに耳に入れていたらしく、ボクがどんなに直球を投げても一枚舌とその回転力は変わらなかった。
「横山はね、ものすごい不器用なの。ただ前に出てガムシャラに攻撃するボクシングしかできない。それなのに勘違いして足つかったりジャブ打ったり、ボクシングを考えようとして迫力もなくなっちゃったでしょ…」
「横山クンは世界チャンピオンになれませんかね?彼はそのためにまたジムを移籍したんだと思いますけど」
「横山がいいのはハートがあるんですよ。だから日本チャンピオンにもなれた。オレもあのころは横山が世界チャンピオンになると、ほんとに信じてましたから。横山にかけてたんです…」
「これから減量苦のない階級に上げて、ガムシャラさを取り戻しても無理ですか?」
「無理。もう年齢的にも遅いの。あとは衰えていくだけでしょ。第二の人生があるんだし、壊れていくのが怖い。もう早く借金返して、辞めてもらいたいよ」
「では会長、もし横山クンが『再入門させてください』と正式に頭を下げてきていたら、どうしました?」
「いや、それはダメですよ。横山はもう終わりの選手なの。北野戦(日本ライト・フライ級タイトルマッチ)の前にうちに練習きたけども、6回戦相手にパンチもらいすぎてたし、もう終わりだなと思った。ほんとはね、借金なんかしないで北野にタイトルとられた時点で辞めなきゃいけなかったの。ボクサーだから錯覚があるのはしょうがないけど、ケジメつけないと…」
「もう元には戻れなかったんですかね?古い話になりますけど、横山クンが沼田ジムを飛び出したそもそもの原因は、敬愛していた会長にヒザの痛みを認めてもらえずに天狗呼ばわりされたからだと本人から聞きました。すごいショックで悔しかったと…」
「スポーツは結果しかないの。オレは絶対に理屈は言わなかったし、滑った転んだ、痛い腫れたの話は嫌い。負けたらね、もう1回やって勝てばいいだけのことでしょ…」
余談が核心に迫れば迫るほど、会長のまくしたてる勢いに反してその顔に悲哀の色が広がっていった。ボクのほうも腑に落ちなかった部分の謎がようやく解けたというのに、やるせなさと罪の意識から意気消沈するばかりだった。
あくまで世界タイトルへの野望を抱き続ける横山と、もう時代はすぎ去ったのだから傷ついてくれるなと願う沼田会長。師弟はそのうめがたい温度差を、3年ぶりに再会した時点でおそらく肌で感じてしまっていたのだ。だから、横山は古巣ではない別天地を求めたのである。
そしてこのボクは、横山の身の上を案じて正義を気取っていたつもりが、実は勝手に描いた師弟のハッピー・エンドに自分ものっかることしか考えていない愚か者だった。なのに知ったふうな顔でしゃしゃり出て、初対面の沼田会長に対して最後にこんなことまで口走っていた。
「横山クンに代わる選手、二人目のチャンピオンが早くほしいですね」
「なかなかね、そんな素質のある選手は出てきませんよ。もうみんなヘボ」
沼田会長はそう言って先に席を立つと勘定を済ませ、喫茶店をあとにした。ボクも続いて外に出ると、冷たい雨が音も立てずに降りだしていた。会長は駅へ向かうボクに「じゃっ」と小さく手を挙げ、横断歩道を渡っていった。その背中はさっき、2時間ほど前に見たよりも心なし丸く小さくなっていた。
(つづく)
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