拳闘書感想譚
拳闘書感想譚
船戸与一著『夜のオデッセイア』
Text By 中津川 一路




『オデッセイア』は、ホメロスのギリシャ神話叙事詩。トロイ戦争から凱旋するオデュッセウスが海上で放浪と冒険を重ねて,苦難を乗り越え、故郷に戻り、妻と再会するという話・・・・らしい。
 恥ずかしながら、『オデッセイア』の正確なストーリーは把握してしいないので、この冒険小説がギリシャ神話をなぞっているのか、どうかはわからない。オデッセイアをモチーフにしたという映画「オー・ブラザー」は見たが、最後は妻と再会してめでたし、めでたし、だった。
 それを理由とすると、「夜のオデッセイア」はギリシャ神話とは、あまり関係ないように思える。同じ名前の車もあるが、この小説に出てくる「オデッセイア」は、単に8人乗りの朽ちかけたワゴンにしか過ぎない。自虐的に「オデッセイア」と名付けたとしか思えないような旅を、主人公は流れている。オデュッセウスは冒険を経て、故郷に戻るが、主人公「おれ」は、先の見えない、まったく希望のない道程を彷徨っている。
 ライト・ウェートのボクサーである「おれ」は、ボクサーとして誰でもそうだったように、かつてはボクサーとしての夢を見、全てをリングに賭けていた。しかし、策略にひっかかり新人王戦決勝に負けてから、マネージャー・野倉の持ち込む八百長試合を受け、ボクサーとして、人間として誇りを失い転落してゆく。八百長試合で、相手を倒してしまったことから組織に追われ、今はアメリカの興行地を流れながら、プロスペクトの調整相手、というか自分がリングに沈むという芝居を演じる生活を送っている。
 ある時、「おれ」の芝居を見破ったプロレスラー2人組、ウィスキー・ジョーとブランデー・ジョーに絡まれたことから、物語は動き出す。強引に道連れとなった二人に、「おれ」のかつての恋人、志垣直美や、志垣の姉の子供・ヒューイが加わり、あてのない旅は意外な展開を見せてゆく。
登場人物の誰にも過去と未来が重くのしかかっている。
二人のジョーはベトナムでの体験が元で、心に傷を負い、自分らを陥れたかつての上官への復讐を誓っている。志垣直美は、新人王を逃した「おれ」を捨て、対戦相手の秋月の元へ走り、その秋月にも捨てられ、NYへ流れてきている。ヒューイの母、志垣の姉はアメリカ人の男に騙され、心身ともボロボロになった末に死んでしまった。野倉の人生は後に語られるが、昨日も明日を語ることが辛くなるような面々が、オデセッイアに乗り合わせる。
 ジョーの叔母の家を訪れた際に、叔母の娘の恋人のイラン人に手紙を託される。その宛て先はダイナマイト・ボクシングジムのウッディ・ハッサン。 使いと、「仕事」を求めて、訪れたジムで、「おれ」はウッディ・ハッサンに手紙を渡す用を果たす。ハッサンはボクサーであり、対戦相手を探していたことから、マネージャーから対戦を持ち込まれ、「おれ」は対戦を受ける。なぜかハッサンにシンパシーを感じた「おれ」は、ロードワークを共にし、1週間後、芝居でない試合を迎える。そこで事件は起こる。
モサド、イラン人質事件、クルド人、キューバ難民、ブラック・パンサー、そこまでありか??と思わせるくらい種々雑多な問題が複雑に絡み、出現した巨額の金の争奪戦をメインに、「おれ」も、野倉も、志垣直美も、二人のジョーも、ヒューイも、久しく見ていなかった夢を見る。夢は連帯を生み、未来を感じさせるのだが、やがて欲望と死が交錯していく。特に少年ヒューイと野倉の絡みは泣かせる。


船戸作品では、多くの場合、主人公(誰が主人公は微妙だが)はニュートラルな立場の日本人で、証人であり、語り部である。主人公も挫折の只中にいたりするが、作中で、生き様やメッセージを発信するのは、脇に登場するマイノリティな民族や、虐げられる人々だ。それが、僕が船戸作品を好きな理由でもある。多くの場合、悲劇的な結末を迎えるのだが、作中に夢見た登場人物の希望は、余韻として漂い、絶望ではない、しかし、希望というには残酷すぎる曖昧な感覚がそこには残る。

この作品におけるボクシングの描き方は、非常にダーティなもので、前時代なものだ。八百長か・・と笑みを含んでしまった。こういう描き方をされちゃうんだなあ・・と。アメリカのコミッションが存在しない土地では、このようなことがあっても不思議じゃない・・・・と思う余地を残したあたりで、考えるのはやめておこう。
しかし、日本でもこういう一面が滅びたかというと、そうも言い切れない気もする。
確かに言い含められての八百長はありえないが、「役」を与えられて対戦相手を務める外国人ボクサーは作中の「おれ」に近いものがある。
作中にこんな会話がある。
「気分がいい。」
「え?」
「注射のない試合は気持ちいい。」
「おまえ変なことを考えてるんじゃないか?いいか、おれたちは食っていかなきゃならないんだぞ?」
「注射のない」という表現を、ちょっと変えると、負け役のタイ人ボクサーのセコンドの会話に置き換えても、はまるような会話だ。ビジネス、いや単なるジョブとして、パンチらしいパンチを1発のパンチも出さずに、倒れるタイ人にも、そういうことを思うときはあるのだろうか、と思ったりした。
自分を倒した後、笑顔で手を上げるホープのことを、彼らはどう思っているのだろうか。金のために、と僕は同情したりしてしまうが、実は哀れまれているのはこちらだったりして。

船戸氏は、ボクシングには愛着も造詣も深いようで、「炎流れる彼方」にもボクサーが登場する。もちろん美しきホープではない。老ボクサーだ。


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