王座を陥落したDが選択した第二の人生はロスで鮨職人として働くことだった。Dによれば、その店にCが現れたのは,自分が異国に腰を落ち着けてから1年ほど経った時である。「Cがいきなりカウンターの中にいる僕の前に案内されてきた時は本当に慌てました。店の中では彼女はあくまで客ですから丁寧に応対するしかない。でもこっちは疑心暗鬼です。緊張もする。一体、Cが何を話しかけてきて、僕が何と答えたのか、覚えてはいません。で、30分も経った時です。Cがいきなり声を上げて泣き出したんです」。
いかにもCのやりそうなことだ、と妙な納得をしながら私はDの話の続きに耳を傾けた。「すると、近くにいた常連の女性客がすぐに、にじり寄ってCの背中をさすりながら、彼女に問いかけ始めて・・。ふたりが一体何を話していたのか、やっと日常会話が出来る程度の僕の英語力ではよく分かりません。ただ、僕はその時、Cが実に流暢に喋っているのを見て感心していたんです。それまでCが英語を話せるなんて知りませんでしたから。今思えば、ミッション系の学校に通っていたわけだから何の不思議もないんですけどね。・・まあ、そんなことをボーッと考えていたら、突然、その常連客が僕を指しながら”あなたはこのアメリカで働く資格はない”と糾弾したんです」
米国内で白人の中産階級とおぼしき中年女性が高級志向の日本料理店で、相手を指さして非難の声を挙げるのは余程のことである。「僕はもうパニクっちゃって・・。そしたらチーフが、その客をなだめた後”今日はもう上がれ”と救いの手を差し伸べてくれましてね」。
身支度を整え、店から出てきたDはその自分を待ち伏せていたCの眼差しに出会った。そして先ほどの涙が嘘のように満面に笑みをたたえながらDに近づいてきた。「で、彼女はいきなりこう言いだしたんです。”あなたの働く姿はとってもセクシーだった。だからちょっと困らせたくなっちゃったの”」。Dはしかし、そんな言葉を無視してCに力なく、白人女性に何を話したのかを聞いた。「あのカウンターの中にいる男は私を自分の友人に売ったの。でも私はあの人をまだ愛していたから、何とか、そいつの元を逃げてこのロスにやってきた。でもあの人は私に冷たくするだけだった。そう言ったのよ。そうしたら、いきなりあなたに向かって怒鳴り出したんで私の方が慌てちゃったわ」。それがCの返答だった。
ややあってDが小声で私に言った。「その話を聞いたとき、僕がまず思ったのは自分はあの店で再び働くことが可能なのか、ということでした。でも、タイトルを失った後にCに抱いたような殺意は起きなかった。むしろ、僕の中にこみあげてきたのは、何て可哀想な女なんだ、という感情でした。すると彼女は信じられない反応を示したんです。”あたしは、とんでもないことをしてしまった”と言った後”あたしは本当に自己中心で駄目な女なんです”と目に涙溜めて”もう死にたい”と・・。僕は、またCの芝居だろうと思いながらも、そのままほって置くことが出来ず、彼女が泊まっているホテルに送っていったんです。もし困ったことがあったら、力になるからと、そんなことまで言って、僕の住所を書いた紙を手渡して別れたんです」
それは私が抱いていたDという人間そのままのエピソードだった。「その翌日でした」。Dが性急に言葉を継いだ。「帰宅した直後に病院から電話があったんです。完全には分かりかねたんですが、要するに”あなたの友人が深い傷を負った。だからすぐに来て欲しい”という内容でした」。すぐ駆けつけた彼にERの担当医が説明したことは、それが明かな自傷行為であること。つまりCは自殺を企てたのである。「左の手首は、もう少し深ければ致命傷になっていたほどの傷でした」
Cが自殺を企てた。結果的に未遂に終わりはしたが、手当が遅ければ死に至るほどの深い外傷だった。私が認識していたCは、自殺が出来ないはずの女性だった。Cは、いつも自分だけを哀れみ、他人のことなど一切、斟酌しない徹底的に自己中心的な性格の人間だった。防衛戦が近づき、ナーバスになったDの心を無理矢理、自分に向けさせようとする、極めつけの我が儘女だった。そうした性向の人間は決して自殺などしない。それが私の認識だった。
「つまり、それは君を自分の方に振り向かわせるための、狂言ではなかったということ?」。私の問いかけにDが答えて言った。「もし狂言なら、もっと自殺をほのめかしてくるはずでしょう」。「でも病院が君に連絡出来たのは何故? 第一、どうして彼女が自殺を企てたことが第三者に分かったの?」。畳みかける私にDが苦笑しながら説明した。「ドアの下から血が流れ出していたのを見たボーイが責任者に連絡するかして、部屋を開けた。狭い部屋ですから、彼女の手首から流れていた血を認めるのは簡単です。それですぐ救急車を呼んだ。部屋のテーブルの上には僕が自分の住所と電話番号を書いた紙切れが、乗っていた。そんなところです」。
それでも私には疑問が残った。Dが書いた紙切れを、発見者に分かるようにテーブルの上に置いたのは、最初から助かることを前提としていたからに違いない。それにホテル側が警察に連絡を取らなかったことも、私には腑に落ちなかった。要するに私はCが、本気で自殺をする女とはまだどうしても考えられなかったのだ。しかも私は彼女に当然、残っているはずの手首の傷跡も見ていない。私はDの話を聞いているうちに、Cと二人で私を陥れようとしているのではないか、そんな疑念に捕らわれていった。
Dの話はまだまだ続いた。彼は結局、その店を解雇された。「チーフの紹介で別の日本料理店に何とか職を得た僕が第一に考えたのはCのことでした。彼女の実家には連絡を取ったのですが、母親がやってきたのはCの病状がすっかりよくなった頃です。にも拘わらず母親が滞在したのはたったの3日間でした。で、私が手配したホテルにCも身を移した時、母親は驚いたことに”この子のこと、宜しくお願いします”と、僕が彼女の面倒を見るのが至極当然のように、ぺこりと頭を下げたんです。病院でCが母親に自殺未遂の原因を語ったのか、どうか。それも分かりません。今でも僕はその原因を知らないんです。とにかく、Cはいきなり僕の前に顔を見せたかと思うと、すぐにあの騒動です。こっちは何がなんだか分かりもしない。それなのに、やっとやってきた母親は、僕にCを託すと、逃げるように日本に帰って行ってしまったんです」
しかもCが立て替えていた1万ドルを超える病院の費用も、未払いのまま、帰国したのだという。ほとんど無一文になったDが選択したのはCと一緒に暮らすことだった。「一緒になれば、また同じことの繰り返しになる。そうは思っても僕はCを見捨てることは出来ませんでした。・・Cにこれ以上拘わりたくない感情をむき出しにしたまま帰国したあの母親が、僕になおさらそう言う気持ちを起こさせたんです」
そのCをDがアパートから追い払ったのは、半年後のことだった。
|
|