天井桟敷から



Text By 船橋真二郎


 客がすばらしい。貧乏だが、黄金の客だ。
 見給え。あそこを。天井桟敷を!
 (1945年 フランス マルセル・カルネ監督 映画 『天井桟敷の人々』 より)

 最近の後楽園ホールで、ちょっと気になる現象を時々、見かけます。前座の試合が行われていた段階では、ある程度の観客が集まり、それなりの熱気に包まれていたはずなのに、メインイベントが始まる頃になると、空席が目立つようになり、熱気もやや冷め気味になる、という現象です。それは、前座の試合に出場する知り合いや身内の試合を見に来た人たちが、開場から次第次第に集まってきて、目当ての試合が終わるたびに一組、また一組と会場を後にする、といった仕組みであるようです。例えば、8月某日の後楽園ホールで、私はこんな光景に出合いました。

その日、メインイベントまでは、まだ間がある前座の4回戦を、私は南側最上段付近の席から観戦していました。試合が進行し、ラウンドが進むに連れて、次第に観客の数が増えてきます。いつの間にか、私の前の列、そして左側には、同じような今どきのファッションを身にまとった若い男の子たちが集まってきていました。どうやら私は、友人の応援にかけつけたグループの只中に座っている格好になったようなのです。その彼らのうちのある者は、隣同士、大声でおしゃべりをしたり、ある者は後ろを向いたまま、大声で笑ったりしています。またある者は下を向いて、携帯のメールをチェックし続けています。すでにリングの上では、ふたりの男たちが真剣勝負を繰り広げているというのに、です。
(これは、ひどい……)
彼らの様子に、私は心の中で絶句していたところでした。そんな私に、
「すいません。今、何試合目ですか?」
「Hくんの試合って、何試合目ですか?」
前の列に並んで座っていた4人の女の子たちが、振り返りざまにそう聞いてきたのです。彼女たちはそのグループに後から合流して来て、少し前から、私の前に座っていたのでした。
「今は○試合目だから、(H選手の試合は)次の次ですよ」
内心、苦々しく思う気持ちを抑えながら、私が丁寧に教えてあげたのは、ラウンド間のインターバルに話しかけてくるという程度の常識は、彼女たちが持ち合わせていたからでした。
「ありがとうございました」
私にぴょこんと頭を下げてから前を向くと、女の子たちもまたお約束のように、各々、おしゃべりを始めたり、携帯をチェックし始めたりします。
(やれやれ……)
よっぽど、空いている席に移ろうかとも考えたのですが、私は思い直しました。H選手の試合が終われば、まず間違いなく、彼らは席を立つでしょう。それまで彼らの様子を間近で見届けてみようか、とふと思いついたのです。
 プログラムによれば、この日がデビュー2戦目となるH選手は、ちょうど高校を卒業した歳にあたります。グループの若者たちが、みな同じ年格好に見えることから考えると、彼らとH選手の関係は、同じ高校の同級生だったとみるのが妥当なところでしょう。
「がんばれよ!」
「Hくん、がんばって!」
彼らの注意が一斉にリングに向けられたのは、当然のことですが、H選手が入場してきてからでした。試合開始を告げるゴングが鳴り響くと、みな身を乗り出さんばかりになります。互いにきびきびとした動きに好感の持てる両選手でしたが、1ラウンドは相手の選手がやや優勢に試合を運びます。そして迎えた2ラウンド中盤、H選手がダウンを奪われると、それまで声援を送り続けていた彼らの様子が一変しました。男の子たちは固唾を飲んで展開を見守り、女の子たちは両手を合わせ、まるで祈りを送っているかのようです。H選手が反撃に転じた3ラウンドには、希望を取り戻したかのように、再び声援を送り始めました。H選手の一挙手一投足に、それこそ一喜一憂といった感じ、連なる表情は、みな真剣そのものです。最終4ラウンドに入ると、しかし、劣勢を挽回するべく必死に食らいついていくH選手を相手の選手がかわし、要所にクリーンヒットを奪うといった展開になります。H選手がパンチをもらうたび、女の子たちはビクッと肩を揺らし、「がんばれ」という男の子たちの途切れ途切れの声援は、哀願するような声音に変わっていきます。結局、試合はそのまま終了のゴングを迎え、H選手は判定負けを喫することになりました。その瞬間の、呆然とリングを見つめたまま固まってしまった彼らの表情は、悪くはないな、と思わせるものでした。悪いはずがありません。思わず感情を露わに、必死になって友人を応援した若者の表情が、悪かろうはずがないのです。デビュー戦にKO勝ちしたときには、今日とは逆に誇らしげな表情を浮かべながら、友人の勝利に喜びを分かち合っていたに違いありません。それから、リングを降りるH選手に、気を取り直したように拍手とねぎらいの言葉を送ると、彼らはやはり、会場を後にして行きました。
確かにH選手の試合が始まるまでの彼らの観戦マナーは、決して褒められたものではありませんでした。もちろん、知り合いや身内の応援にかけつけ、その試合が終わったら席を立つ、そういった類の観客の全員が、彼らと同じであるわけはありません。彼らはあくまで一例に過ぎないでしょう。ただ、そうはいってもメインイベントを含めた他の試合に、ほとんど関心がないという点では、おそらく大差ないのではないかと思えます。それに対し、どうこう言うつもりなど毛頭ありません。ありませんが、前座の試合と比べて、明らかに閑散とした雰囲気の中で、メインの試合が行われているという光景には、どこか、もの哀しさを感じてしまうのです。
さすがにタイトルがかかった試合などで、こういった現象を見ることはありません。ただ、人気低迷が言われて久しいボクシング界の現状を、端的に示している光景ではあるのかもしれません。そして、それにしても、十数年前の私の指定席であった「天井桟敷」の風景も、ずいぶんと変わってしまったな、と思うのです。

 劇場などで、最も低料金の後方最上段の席を、「天井桟敷」というのだそうです。かつて、その「天井桟敷」という言葉の響きに、なぜか惹かれたことがありました。理由を聞かれてもうまく説明することはできません。その言葉と初めて出会ったのは、おそらくテレビか本などで知った、故・寺山修司の主宰した劇団名『天井桟敷』だったのかもしれないし、ビデオで見た、マルセル・カルネ監督の映画の邦題『天井桟敷の人々』だったかもしれません。とにかく、「天井桟敷には、お金はないが、本当に芝居を愛する人たちが集まる」という言葉とともに、「天井桟敷」は私の心を惹きつけたのでした。
後楽園ホールでいえば、南側後方の席、そして東側、西側の上にあるせり出し部分が「天井桟敷」にあたるといえます。まだ高校生だった頃、限られたお小遣いをやりくりして、私はいちばん安い自由席か、当時、興行によってはあった、それよりも安い高校生料金のチケットを買って、「天井桟敷」へと急いだものでした。そして、観戦場所を確保すると、おもむろにプログラムを広げ、前座の試合に出場する選手たちの戦績などを確認し、時折、周囲から聞こえてくる「この選手は、この前……」といった会話にも耳を傾けながら、リング上に視線を注ぎ、メインイベントを待ちわびたものです。
 もちろん、当時も知り合いや身内の応援のためだけに会場を訪れたお客さんは、少なからずいました。ですが、たとえ、その日の興行のメインがノンタイトル戦であったとしても、前座の試合のときよりも空席が目立ってしまうような光景を、記憶する限り、私は見たことがありません。メインイベントに向け、会場の空気がじょじょに熱気を帯びていく。少なくともそれは、当たり前の健全な姿であるはずです。どうにかして、その当たり前の姿が後楽園ホールに戻ってほしい。最近、時々起こる現象を目の当たりにするたび、なすすべなど見つけられない私は、ただ、そう願うばかりです。

 今年になって、ボクシング人気回復に向けた動きが、少しずつ顕在化してきているように感じられます。A級ボクサーが4回戦で争う賞金トーナメント「B-tight(ビータイト)」などは、その最たる例でしょう。所用もあり、会場に足を運べたのは、昨年、取材をさせてもらった選手が出場した1回戦だけでした。その日の会場の熱気も相当なものでしたが、聞くところによれば、準決勝、決勝と、観客の数は目に見えて増え続け、会場は大いに盛り上がり、大成功のうちに第1回の幕を閉じたそうです。画期的な企画、多額の賞金などで注目を集めたのはもちろんのこと、普段は8回戦や10回戦で戦うA級ボクサーの技術が凝縮された試合内容の面白さが、成功の理由だったといえるでしょう。それに、トーナメントだったということも少なからず影響していたのではないでしょうか。トーナメントには、「次は今日勝ったあの選手と、この選手が戦う」とか、「誰が優勝するのだろう」といった、単発の興行ではなかなか見えにくい、ストーリーのわかりやすさ、そして、連続性があるからです。そして、この10月30日には、真の「世界挑戦者決定戦」として、いずれも日本のトップ選手同士による対戦が、1つの興行で3つもまとめて組まれることが決まりました。主催する帝拳ジムの本田明彦会長が、それぞれの勝者に世界挑戦を保証しているそうですから、次の世界タイトルマッチという大舞台へと、ストーリーは続いていくことになります。日本のその階級で最も実力のある選手が世界に挑戦する。そういった図式は、たとえば初めてボクシングに触れる方にとってもわかりやすいはずです。
ただ、現在のように、多種多様な娯楽や魅力的な商品が世の中に溢れているような時代では、ボクシングの人気回復も、なかなか難しいことには違いありません。一朝一夕に実現するようなことではないでしょう。ただ、今後もこういった、少しでも世間の注目を集めるような、一般の方にも受け入れられやすい仕掛け作りが、継続されていくことに期待しています。そういえば幻冬舎の社長、見城徹氏が、ある雑誌の対談の中でこんなことを話していたことがありました。
「本は作品ではなく、商品。コンビニのおにぎりやパンと闘わなくてはならない」
娯楽や趣味などに使われるお金は、限られている。特に若者はその限られたお金を有効に使って、いかに楽しむかを考える。その選択肢の中に入り込めるような、面白い、魅力的な本作りを目指したい。確か、そんなような内容であったと記憶しています。若者の活字離れが進む中、本の力を信じ、見城氏は敢然と立ち向かっているということなのでしょう。本がコンビニのおにぎりと争う時代。ボクシング界にもそれくらいの気構えが必要なのかもしれません。注目が集まるような興行、魅力的なカードの提供……後は、その用意された舞台で、選手たちが観客の心をつかみ、感情を動かすようなパフォーマンスを見せることができるかどうかにかかってきます。
 『天井桟敷の人々』の中に、印象的なシーンがありました。パントマイム(無言劇)の役者として、やがてスターへと育っていく、まだ無名の主人公バチストが、ある日、彼の所属する劇団に加わってきた、恋敵にもなる舞台俳優のフレデリックと場末の屋台でワインを飲み交わしながら、語り合うシーン。そこで交わされるふたりの会話には、ボクシングにも通じるところがあるように思います。
フレデリックが、バチストに語りかけます。
「君は無言で話ができる。見事に物語る。僕は驚いたよ。脚で語り、手で答える。肩をすぼめ、前進すれば、それで足りる。天井桟敷の連中にはね」
「そう……。だが彼らは貧しい。僕も同様に貧しい。その生活はささやかだが、大きな夢がある。彼らを笑わせるだけでなく、感動させたい。怖がらせ、泣かせたい」
「それを無言で?」
「そうだ」
「至難だ」
「不可能か?」
「困難と不可能は違う」
かつて、「天井桟敷」から、リング上で演じられる数々のドラマを熱い思いで見つめていた私は、ボクシング、ボクサーが持っている力を信じたいと思います。


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